「楢柴肩衝」所有者の変遷
「楢柴肩衝」 伝来 足利義政 ↓じゅこう 村田珠光 ↓ 鳥居引拙 ↓ 天王寺屋宗伯 (津田)↓ 神屋宗白 ↓ 島井宗室 ↓ 秋月種実 ↓ 豊臣秀吉 ↓ 徳川家康 ↓ 徳川家綱 ↓ (消息不明) |
漢作唐物。南宋末〜元初期(13〜14世紀)の作。 別名「博多肩衝」。高さ8.6センチ。 室町幕府第8代将軍。 天下の名品を集めた(「東山御物」)。 わび茶の開祖。足利義政の茶の師匠。 珠光の弟子 堺の豪商 博多の豪商。神屋一族は石見銀山開発、貿易で財をなす。 事業に失敗し、楢柴を手放す。 博多の豪商。貿易で財をなす。 宗麟、信長が欲しがったが、やがて種実に脅し取られた。 筑前国の暴れん坊国衆。秋月の古処山城が本拠。 秀吉の九州平定で敗北。楢柴を献上して助命された。。 天下三肩衝をすべて手に入れた。 臨終に際して「秀頼事、頼み申し候」といって家康に渡した。 徳川家の宝物として代々伝えた。 4代将軍の時、明暦3年(1657)の大火(振袖火事)で焼けた。 この大火で江戸の大半を焼き、市民10万人が死亡。江戸城天守閣本丸に燃え移り、炎上。 焼け跡から探し出され、修復して宝物庫に返された。 その後、消息不明となった。 |
(島井宗室の前に、平戸領主松浦鎮信が所有していたとの説もある。)
「楢柴肩衝」の流転 本能寺の変前後のできごと 博多の豪商島井宗室が「楢柴肩衝」を所持していた。大友宗麟が再三欲しがったが、「町人こそが持つべきもの」と商人の気概を示し譲らなかった。 織田信長はすでに「天下三茄子」全部と「天下三肩衝」のうちの二つを手に入れており、「楢柴」を譲るよう宗室に望んだ。 (ここまでは事実とされている。) ここからの話は「仙茶集」の中の「御茶湯道具目録」(楠長庵の覚え書)という資料に拠っている。真偽は見解が分かれる。 (小説はこちらを採用したものが多い。) 天正10年(1582)6月1日(昼まで激しい雨、夕方小雨、夜止んだ。) 博多の豪商島井宗室と神屋宗湛(そうたん)の来訪。 島井宗室は信長に「楢柴肩衝」を献上するために来訪を約束していた。 信長はそのため茶会と道具揃えを行った。 来訪した二人は茶会で遅くなり本能寺に泊まった。 (以上は、神屋家の「由緒書」に記されている。)) (「御茶湯道具目録」の内容) 信長は道具揃えのため茶器の名品を持参した。 茶会と名物茶器揃えのため、本能寺に秘蔵の茶器38種を持ってきた。 九十九髪(つくも)茄子、珠光小茄子、円座肩衝、勢高肩衝、紹鴎白天目、貨狄(かてき)舟の花入れ、などの秘蔵品ばかりだった。(38種の一覧が記録されている。) 安土城にはまだ200点を越す、信長が集めた名物茶道具が秘蔵されていた。 (以上は「御茶湯道具目録」に記されている。) 6月2日未明 本能寺の変 明智軍の襲撃で目が覚めた二人は博多から持参した「楢柴肩衝」を持って逃げた。 また、宗湛は牧谿(もっけい)の「遠浦帰帆(えんぽきはん)図」をとっさの機転で持ち出した。(神屋家「由緒書」による) 一方、島井宗室は宝物の「弘法大師真蹟千字文」を持ち出したといわれている。 九十九髪茄子は秀吉の命令で本能寺の灰燼の中から見つけ出された。(変の前に持ち出されていたとの説もある。この後、大坂夏の陣でまた炎上したが、既述のとおり再度探し出して修復された。) 珠光小茄子は見つからなかった。 以上が「仙茶集」、神屋家「由緒書」の記録である。 「弘法大師真蹟千字文」は現在博多の東長寺に、牧谿(もっけい)の「遠浦帰帆(えんぽきはん)図」は東京国立博物館に収蔵(この画がその時の画か否かは不明)されている。 なぜ天下の名物を博多の商人が持っていたのだろうか? 当時、博多は堺と並ぶ自治の商業都市で、明国、朝鮮、ポルトガル、東南アジア等世界を相手とした一大貿易基地だった。戦国時代の人口は、堺3万人、博多3万人(たびたび戦火にあい増減はあった。なお「海東諸国記」によれば15世紀中頃に7,8万人と記されている)で、銀などの諸貿易による富が集積していた。 島井宗室は貿易で富を蓄え、大友氏とも親しかった。(しかし、楢柴は渡さなかった) 商人としての気概を持ち、後に秀吉に「何か望みはあるか?}と訊かれ、「あの博多の海が欲しい。」と答えた。秀吉が「武士になって所領とするか?」と言うと、「武士は嫌いでございます。」と答えた。また秀吉の朝鮮出兵を諌めて、秀吉とは疎遠になった。 神屋一族は石見(いわみ)銀山を開発し、宗湛は後に秀吉に博多代表町人の一人に指名されている。 銀は当時輸出品の中心で、世界で産出する銀の三分の一を日本産が占めており、まさに「黄金の国ジパング」であった。 信長はこの時四国への出兵をすでに発令しており、この後中国毛利氏との決戦に勝利して、九州を平定し、さらに明へ進もうと考えていたといわれる。 戦いが大規模になるにつれ、兵站基地の設置、食料、戦略物資の確保供給、そして何よりも武器火薬の調達に豪商の存在価値が大きくなってきた。特に火薬(硝煙)は100%輸入に頼らざるを得ず、いくら鉄砲を数多く揃えても、火薬の調達ができなければ使いものにならなかった。九州進攻の折には博多の豪商の働きも必要になる、と信長は考えたであろう。 一方、博多の商人も、天下をほぼ手中に収めつつある信長に取り入り、貿易の特権などを認めてもらうために信長に名物を献上することにした。その折「本能寺の変」に遭遇したが、宗室も宗湛も幸い生きて博多に名物を持ち帰った。 「楢柴肩衝」の流転(その2) 秋月種実が脅し取る 島屋宗室は懇意の大友宗麟の再三の譲渡の懇望にも応じなかった。 ところが、この名物に筑前の暴れん坊・秋月種実(たねざね)が目をつけ、「譲らなければ博多の町に火をつける」と脅した。宗室は種実ならやりかねないと考え結局渡したが、その後、悔しさのあまり家の数奇屋(茶室)を叩き壊したという。 当時、値打ち三千貫(現在のお金で数億円)といわれていたが、種実は大豆百俵を持ってきただけであった。 (・・まあ100カラットのダイヤを買って、じゃがいも30個渡したようなものだろうか? もっとも100カラットのダイヤがいくらぐらいするものか、私は買ったことがないから知らないが・・) 天正15年(1587)4月4日 秋月種実、秀吉に降伏 種実は秋月24城に2万5千の兵を配し秀吉軍を迎え討った。しかし、4月1日に、ひと月は攻撃に耐えられると考えていた堅城「岩石(がんじゃく)城」が、わずか1日で落ちてしまった。 居城の古処山城が5万の秀吉軍に包囲されるにおよび、種実は秀吉に降参した。 種実は名物「楢柴肩衝」を差し出し、一命は助けられた。また娘を人質に出した。 これで天下三肩衝がすべて揃った秀吉は、遠征の目的の半分が達成できたと大喜びした。 この日、秀吉が駕籠に乗って「八丁越え」の山道を進んでいるとき、鉄砲に狙われたが当たらなかった。狙撃したのは肥前の波多三河守信時で、逃亡した。 (秀吉が薩摩に入った時には、島津歳久の手の者により秀吉の駕籠に弓矢を射かけられた。このこともあって5年後に、歳久は秀吉に自害を命じられた。) 秀吉は秋月に数日滞在して、九州の多くの国人の挨拶を受けた。 立花統虎(むねとら)も2千余騎を引き連れて来て、この時秀吉から「比類なき武勇、忠義の士、九州第一の者なり」と満座の中で誉められている。 天正15年(1587)、秀吉は25万の軍(兵站は神屋宗湛が中心になって引き受けた)で九州平定戦を行い、5月に遂に島津を降伏させた。その後秀吉は、島津軍によって焦土となっていた博多復興のため、6月に博多の町割りを実施し、7月にできたばかりの大坂城本丸に帰還した。 博多の町は、藤原純友の乱から島津北上戦(高橋紹運(じょううん)、立花統虎との戦い)にわたって、10回ほど炎上焼失している。その度に不死鳥のごとく復興してきた。秀吉が戦乱に終止符を打ち、博多の町割りを迅速に推し進めたので、博多再興の恩人とされている。秀吉には博多をその後挙行した朝鮮、明への出兵の基地としたい考えがあったと思われる。 1592年、1597年の二度にわたる朝鮮出兵で、博多の近くの名護屋が出兵の基地となった。博多は兵站基地として、神屋宗湛など博多の豪商たちが物資の供給や輸送、交渉役などの任にあたった。 この頃までが、博多が貿易、通商などに活躍した時代であった。 やがて国内も平定され、徳川の世になって貿易が禁止されると、自由な商業も制約されるようになると博多の豪商は姿を消し、自由都市の繁栄は失われた。博多がアジアなどとの貿易基地として、繁栄を取り戻すのは明治以降である。) 天正15年(1587)年10月1日 北野大茶会。 九州を平定した秀吉は、威令を示すため京の北野の松原で大茶会を催し、公家、僧侶、武将などの800余軒の数奇屋(茶室)が、趣向をこらして造られ(当日には1,500余軒に増えた)、天下の秘蔵の名物道具が集まった。 一郭の門番には加藤清正が立っていた。 当日の北政所(きたのまんどころ)の行列は、輿百丁、乗物二百丁、長櫃以下数知れず、だったという。 その茶会で、秀吉は「新田肩衝」、千利休は「楢柴肩衝」、天王寺屋宗及(そうぎゅう)が「初花肩衝」を使った。 (この茶会で茶頭を務めた利休は、3年後に秀吉に切腹を命ぜられることになる。これも大きな謎?とされている。) 1日目大盛会で、これが10日間続き、秀吉の威光を天下に知らせるはずであったが、なんとたった1日で終わってしまった。 肥後国で国人一揆が起こった、との知らせが届き、2日目以降は中止となったのである。 佐々成政は新領地肥後で成果を急ぐあまり、検地を強行しようとして、地侍の反発を受けた。菊池郡隈府城主の隈部親家が反乱を起こし、これに百姓一揆が加勢して押しよせ、成政は隈本城にたてこもる事態となった。 秀吉はすぐに周辺の大名に派兵を命じ、他の九州国人へのみせしめのため徹底的に弾圧し、また成政も不始末の責任を取らされ切腹処分となった。 (肥後国にはこの後、加藤清正と小西行長が入封した。) 天下はまだ落ち着いたわけではなかった。 栄華を極め、天下の名宝を集めた秀吉も1598年病の床に臥した。「かえすがえす秀頼の事、たのみ申し候」と家康などの五大老に頼んで亡くなった。 「露と落ち露と消えにしわが身かな 難波(なにわ)の事は夢のまた夢」(秀吉の辞世の句) 2年後の1600年、関ケ原の戦いが起こり、天下の実権は家康が握ることになる。 こうして天下人が集めた名物も、あるものは戦火のなかで運よく無傷で生き延び、あるいは傷つきつつも修復されて生き残り、またあるものは灰燼のなかに消え去っていった。 天下の名物茶釜「平蜘蛛」は、主人松永久秀が大和信貴山城で胸に抱いたまま爆死し、四散してその数奇な流転を終えたが、多くの名物もまた、それぞれの流転の歴史を歩み、各地に散っていった。 |
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(参考文献=私がたまたま出合い参考にした本です) 秋山駿「信長」新潮文庫 司馬遼太郎「国盗り物語」文芸春秋社 津本陽「下天は夢か」日本経済新聞社 津本陽「夢のまた夢」文芸春秋社 津本陽「覇王の夢」幻冬舎 池宮彰一郎「本能寺」毎日新聞社 安部龍太郎「関ケ原連判状」新潮社 新宮正春「兵庫の壷」新人物往来社 火坂雅志「軍師の門」小学館 火坂雅志「壮心の夢(盗っ人宗湛)」徳間書店 加藤廣「信長の棺」日本経済新聞社 桐野作人「島津義久」PHP文庫 山本博文「島津義弘の賭け」中公文庫 武野要子「神屋宗湛」西日本新聞社 杉本苑子「春日局」人物文庫 笹沢左保「小早川秀秋の悲劇」双葉社 八切止夫「信長殺し、光秀ではない」作品社 高柳光寿「本能寺の変」学研M文庫 |
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