九州あちこち歴史散歩★天下三肩衝の流転(2) 「新田肩衝」と大坂の陣          サイトマップ

 天下三肩衝の流転(2) 「新田肩衝」と大坂の陣

  「新田肩衝」所有者の変遷(再掲)

   「新田肩衝」
   伝来

  新田義貞
   ↓じゅこう
  村田珠光
   ↓
  三好政長
   ↓(宗三)
  織田信長
   
 (明智光秀)
   
  大友宗麟
   ↓
  豊臣秀吉
   ↓
  豊臣秀頼
   
  徳川家康
   ↓
  徳川頼房
   ↓
  水戸家家宝
   
漢作唐物。南宋末〜元初期(13〜14世紀)の作。
高さ8.6センチ。

義貞が所有したといわれる。

わび茶の開祖。足利義政の茶の師匠。
「天下三肩衝」を全て所有していた。
武野紹鴎(じょうおう)の弟子。甥の三好長慶と戦って戦死。

名物狩りで集めたのだろうか。 
本能寺の変で自害。「新田肩衝」はこの時どこに?
本能寺の変後、安土城の信長の宝物を配下の武将に分け与えた。
三日天下に終わる。安土城本丸炎上。
本能寺の変後宗麟の手に渡った経緯は謎。(下欄に説明)
宗麟が大坂城で秀吉に見え救援を願ったとき献上した。
大茶会ではいつも「新田肩衝」を使った。
北野大茶会でもこれを使った。子の秀頼に伝えた。
関が原の戦い後も大坂城を居城とした。
大坂夏の陣で豊臣家秘蔵の宝物はすべて炎上
家康の命で探索、灰燼の中から見つけ出され修復された。
家宝として子に伝えた。
家康の十一男。徳川水戸家の祖。

現在は水戸市の彰考館徳川博物館に収蔵されている。


     

  「新田肩衝」の流転(その2) 大坂夏の陣前後のできごと
(大坂の陣の経緯のあらすじとエピソードです。
 肩衝の行方については太字の文章を読んでください。)

慶長19年(1614)10〜12月 大坂冬の陣
 西軍10万、東軍20万。
 戦闘は全体としては互角。

12月14日 真田丸の攻防戦
 真田幸村(信繁)が大阪城の惣構えの外に築いた真田丸に拠って、徳川軍に大きな損害を与えた。
 真田丸をひともみに奪取しようと攻めかけた加賀前田勢、越前松平勢をはじめとする徳川勢は、一瞬のうちに1,000人以上の死傷者を出して撤退に追い込まれた。

 力攻めは無理と考えた家康は天守閣に大砲を打ち込んで淀君に(幸村たちの反対を押し切って)和議を結ばせ、あっという間に大坂城の二の丸、三の丸、惣構え、真田丸をすべて破却し、それらを堀に投げ込んで外堀、内堀をすべて埋めてしまい、本丸だけの裸城としてしまった。


真田丸跡付近の坂道(真田山公園北側)

真田丸跡付近の坂道(真田山公園北側)
 大坂南部から丘が続いて大坂城の弱点であった総構えの南端に真田幸村は出城(真田丸と呼ばれた)を造り、大坂城の防備を鉄壁なものにした。
 東軍は大坂城の南の一帯に主力が布陣し、大坂城の四周を20万人の大軍で包囲した。
 今福・鴫野の戦いや野田・福島の戦いなどの局地戦の後、徳川方は12月4日、前田利常、井伊直孝、松平忠直らが数万の大軍で真田丸を攻撃したが、真田幸村の巧妙な指揮により大敗を喫し、多大の死傷者を出してしまった。
 二重三重の大堀を擁する堅固な大坂城は大軍でも攻め難しと見た家康は、この後攻めるのを止め、これらの堀を埋める方策に知恵を絞り、大坂方と和議に持ち込むと同時にほとんどの堀を埋めてしまった。



心眼寺の「真田幸村出丸城跡」碑

 真田丸は現在の明星高校周辺にあったと考えられており、この一帯は現在でも高台となっていて、周囲は坂道となっている。
 この石碑のあるお寺は心眼寺で、門にも真田六文銭の紋が描かれていた。



真田丸周辺の坂道(心眼寺坂)

 真田丸周辺の坂道(心眼寺坂)
 この一帯には、真田山町、空堀町などの地名が残されている。



  慶長20年(1615)4〜5月 大坂夏の陣
 西軍5万、東軍15万。
 豊臣方(西軍)には残念ながら軍を統率する人物がいなかった。

 この時、豊臣秀頼は23歳。身長6尺5寸(約197センチ)、体重43貫(161キロ)の偉丈夫であったといわれる。そのため、猿面冠者秀吉(小柄で5尺(150センチ)もなかったといわれる)の子ではなく、父は淀君の側近の大野治長であると当時から噂された。秀頼はずっと淀君のそばで公家風に育てられたため、覇気がなく、自分からは何の主張もできなかったといわれている。
 滅亡の危機にあるのに、ついに一度も戦場に出ることのなかった総大将であった。(しっかり者に描いた小説もあるのだが…)
 権力を持った淀君は、戦さの経験に乏しい側近(自分の乳母・大蔵卿局の子である大野冶長、冶房、冶胤の三兄弟)を重用し、実戦豊富な軍師である真田幸村、長宗我部盛親、明石全登(たけのり)、毛利勝永、後藤又兵衛ら五人衆の武将は遠ざけられた。
 大野ファミリーは、淀君が小谷城や越前北ノ庄城で幼少の頃から苦楽を共にした乳母とその子どもたちで、子どもたちは淀君の乳兄弟であった。淀君は、豊臣家を存続させるために戦略を練り命を懸けて戦う軍師たちよりも、自分のために尽くしてくれる気心の知れた側近の方を重用したのが豊臣家の滅亡を早めたといえる。
(もっとも、淀君は秀吉に復讐をはかったのだという説(?)もある。秀吉は信長の命令で小谷城の近くの横山城に拠って、淀君の父である浅井長政と戦い続け、ついに浅井家を滅ばした中心武将であり、戦いの後、信長から秀吉に小谷城が与えられた。しかも、浅井の娘である長女茶々(淀君)をやがて側室とした。淀君は、父を滅ぼし、自分を愛妾とした秀吉への復讐のため、密通して子をなし、最後に豊臣家を滅ぼし、本望を遂げたという。)
 小勢で大勢を打ち破るために幸村らが出した「瀬田の橋を落とし、そこで東軍を迎え討つ」戦略も当然採用されなかった。
 もっとも天下の大勢はすでに徳川に傾いており、裸城を大軍に囲まれては勝負の帰趨は見えていた。参陣した武将の多くは、武士として最後の死に花を咲かせるために戦ったのであろう。

4月28日
 泉州樫井の戦い(ばん)団右衛門討死に。49歳。
 塙団右衛門は伊予松山20万石の加藤嘉明から「猪武者。将の器に非ず」といわれ、城門に風刺の落書きをして出奔。怒った嘉明に奉公構え(各地の領主に雇わないよう通知を出すこと)され、京で雲水となって托鉢して生きた。文学にも明るい豪傑だった。
 この日、堺の町が焼かれた。

5月6日
 八尾・若江の戦い長宗我部盛親が藤堂高虎隊を撃破。
 土佐国主だった盛親は所領を没収され関ケ原浪人となり、京で寺小屋を続けながら時を待った。
 盛親は大坂城落城後、京の近くで捕らえられ、二条城の玄関先に縛られていた。雨の日に盛親が雨に打たれているとき、馬から下りて従者に傘をさしかけさせた者がいた。薩摩の島津家久だった。
 また、生け捕られたことをあざ笑う者に対して、「命は欲しい。命と右手があれば、次には家康をこうした姿にすることができる」と答えた。5月15日六条河原で処刑。41歳。

八尾・若江の戦い木村重成討ち死に。19歳。
 「花の若武者」と称せられた随一の美男子。
 冬の陣、和議の調印式で家康の血判が薄いといって大胆にも再度の血判を要請した。73歳だった家康は指を切っても血が出ないといって舌の端を切って血判に押した。
 最後の出陣と覚悟して兜に香を焚き込め、後に首を検めた徳川家康もその武士の礼節を褒めたといわれる。
 後藤又兵衛を尊敬していた。

道明寺の戦い後藤又兵衛薄田隼人正兼相(かねすけ)討ち死に。
 又兵衛は寡兵で松平忠明、伊達正宗軍相手に大奮戦したが、片倉重長の鉄砲隊に撃たれ討ち死に。56歳。
 又兵衛は黒田如水に嫡男長政と兄弟同様に育てられ、数多の戦いで如水と苦労をともにしてきた。
 如水の死後、黒田52万石の領主となった長政にうとまれ、一族郎党を連れて黒田藩を退去した。長政は奉公構えにした。
 後藤隊の後方に続いていた薄田兼相も、3尺6寸の野太刀を振るって剛勇ぶりを発揮したが、片倉鉄砲隊に攻撃され敗走。兼相討ち死に。(岩見重太郎と同一人物とされる。年齢不詳)。


後藤又兵衛と道明寺の戦いの説明板

後藤又兵衛と道明寺の戦いの説明板



玉手山の後藤又兵衛を記念したしだれ桜

後藤又兵衛が花と散ったこの地にしだれ桜が植えられていた。
何百年か経って、大宇陀の又兵衛桜に負けない大桜になるといいですね。



道明寺の戦いの戦場となった小松山(玉手山)から、徳川方が進軍してきた山峡を望む

道明寺の戦い
 小松山(現在は玉手山)から東側を眺めると、向かって左側が生駒山塊、右側が二上・金剛山塊で、この間を通る大和ルートは大和川と奈良街道、鉄道だけがやっと通るだけの狭い隘路である。奈良から大坂に進軍するのはこの道しかない。(他にはずっと北の河内ルート(淀川沿いの道、後で徳川家康隊などが進軍してきた)か、生駒山を越える細い山道のみである。)
 道明寺にあるこの山(小松山、現在は玉手山と呼ばれ、公園になっている)の東側正面中央の山峡から徳川方が6日に進軍してくるのを知った豊臣方は、夜明け前には山峡の出口の国分村一帯に布陣して迎え撃つことにし、真田幸村、後藤又兵衛、毛利勝永、薄田隼人らは大坂を別々の街道で(街道が狭いので一つの道だけでは全軍が進めないため)前夜に出発し、道明寺手前の藤井寺で落ち合うことにした。
 最初に到着した後藤又兵衛隊(3千人)は藤井寺で各隊を待つが、姿が見えない。大休息となってしまった。実は諸隊とも深い霧の中で進軍が遅れていたのだった。
 斥候により敵が現れ始めたのを知り、このままでは戦いが不利になると判断した後藤又兵衛は決戦を決意し、先に出発することにした。
(作戦通りに夜半に山峡の出口を押さえていたら、その後の戦いの展開もいくらかは変わっていたであろう。)
 徳川方も油断はなく、先鋒の水野勝成、本田忠政、松平忠明、伊達政宗、松平忠輝らの3万5千の軍は昼のうちに奈良を出発し、5日夜には先陣が国分村に到着、明け方には既に2万4千人が国分村に布陣していた。(道が狭いため、各隊は暗闇の中で数本の生駒の山道も利用するなど難儀した。夜が明けても、渋滞のため徳川軍の後続はまだ奈良市内から動けなかった。徳川軍は総勢15万で、東日本軍勢は大和ルートと、河内ルートを使って進軍してきた。)
 先手を取られた後藤隊は3千の寡兵ながら2万数千人の徳川軍と戦闘を開始、小松山を占拠し水野勝成隊を撃退したが、後続の松平忠明、伊達政宗隊に攻められ苦戦に陥った。小松山を取り囲んだ敵に向って突撃を繰り返したが、やがて後藤又兵衛は敵の鉄砲に撃たれ斃れた。



小松山(玉手山)から戦場となった誉田陵(応神天皇陵)方面を望む

誉田(こんだ)の戦い
 小松山の北側を大和川が流れ、その北岸に誉田陵(応神天皇陵)(前方左側の陵)、仲津姫皇后陵(前方右側の陵)、道明寺天満宮(右端の森)がある。
 霧のために到着が遅れた真田幸村、毛利勝永隊は誉田陵周辺に布陣し、午後は西進してきた東軍とこの一帯で激戦を繰り広げた。
 3千の真田勢は1万の伊達政宗勢を打ち破り、西軍の全軍崩壊の危機を救った。
 西軍は大坂城から撤退の命令が届き、午後5時ごろ幸村隊以下後退を始めた。
 東軍の部隊長水野勝成は追撃を命じたが、伊達隊をはじめ各隊は無駄な損耗を避けたい思いが強く、皆前進することを拒否した。
 幸村は敵軍に向かって「東軍百万を呼号するといえども、ついに一個半個の男子もおらぬのか」と大音声で呼ばわり、悠然と立ち去った。
 
 



小松山の北側を流れる大和川(石川)。ここも戦場となった。

 小松山の北岸を流れる大和川(石川)一帯も戦場となった。

 真田幸村は伊達政宗を器量のある武士と認めていた。
 この戦いの夜、死が迫っていることを知った幸村は政宗の陣に遣いをやりわが子(二男の大八(3才)、三女の阿梅(15歳))を託した。政宗も自分の立場が悪くなることには構わずそれを受け入れた。
 幸村の子は伊達家に守られて育ち、奥州に真田幸村の血筋が遺された。(大八は伊達藩士となり、家系は今も続いている。阿福は片倉小十郎の嫡男・重長の妻となった。)



小松山(玉手山)の「後藤又兵衛基次之碑」「吉村武右衛門之碑」

小松山(玉手山)の「後藤又兵衛基次之碑」「吉村武右衛門之碑」
 吉村武右衛門は又兵衛の側近で、又兵衛が斃れたときに命により介錯し、首を陣羽織に包んで近くの田の中に埋め、迫り来る敵の中に突入していった。



「後藤又兵衛基次之碑」

「後藤又兵衛基次之碑」
 黒田如水(官兵衛)の子供同様に育てられ、如水を支えて活躍し、戦国時代を駆け抜けた又兵衛。
 戦国時代も終り天下は統一され世の中が次第に落ち着き、豪傑が必要とされなくなった世相も背景にあったが、如水の子・長政と折り合いが悪くなった。又兵衛は藩主の言うがままになることを潔しとせず、1万6千石の城主の座を自ら捨て、天下の浪人になることを選んだ人生であった。



戦場となった誉田陵の向こうに大阪の街が眺められる。

 小松山から眺めると、戦場となった誉田陵(応神天皇陵)一帯の向こうに、江戸時代に経済都市として発展した大阪の街が眺められる。



小松山は現在、玉手山公園となっている。

 戦場となった小松山は、現在玉手山公園となり、桜の名所となっていて花や風景を楽しむことができる。



木村重成像が出生地とされる宮崎県佐土原町に建てられている。 宮崎県佐土原町の「木村重成誕生地の碑」

 宮崎県宮崎市佐土原町に建てられている木村重成像

 木村長門守重成の生地ははっきりしないが、日向国佐土原町八日町の木村屋敷(一番屋敷)ともいわれている。
 佐土原藩主の島津忠持が藩内の事跡や伝承などを集めさせた「旧事雑記」に『佐土原八日町に重成の誕生の地がある』と記されている。
 また、八日町荒神神社の「荒神様縁起」にも、『武州東禅寺開山定州和尚、仏日山大光寺一道和尚、日本武将豊臣秀頼の乳兄弟木村長門守重成の三名は、八日町松巌寺前一番屋敷の産で有名』とある。
 重成の母が伊勢参りの途中、大坂の宿にいるときに縁あって豊臣秀頼の乳母になり、重成は秀頼の乳兄弟として育った。幼少から秀頼の小姓を務め秀頼の唯一の幼馴染で、信頼も厚かったといわれる。

 重成は半年前に淀君付きの侍女の青柳と祝言を挙げたばかりであった。
 大坂城1万人の女官の中で随一の美貌を謳われた青柳は、重成を一目見て恋煩い、床に伏してしまった。青柳の思いは募るばかりで、その切ない思いを歌に託した。
 「恋わびて 絶ゆる命はさもあらば さても哀れという人もがな」
  (恋のために思い煩って死んでしまうならばそれもいいでしょう。「哀れなこと」と悲しんでくれる人がいるかもしれません。)
 重成は歌を返した。
 「冬枯れの柳は人の心をも 春待ちてこそ 結(ゆ)い留(とど)むらむ」
  (冬の柳は耐えて春を待ち、やがて春になったら、人の心を柳の糸で結びとめるだろう。)
 二人は冬の陣が終わった後、正月に祝言を挙げた。

 その半年後、夏の陣で重成が討ち死にした後、子どもを生むように望まれた青柳は近江の国の親類に匿われ無事に男児を出産した。すぐに尼となり、重成の一周忌を済ませた後、自害して重成を追った。



  5月7日昼
 赤備えの3千の真田幸村隊が1万3千の松平忠直隊を突き破り、家康本陣に迫った。思いもかけない事態に周囲を固める旗本衆は御座所を土足で逃げ回り、旗奉行も旗を捨てて逃げ(戦さで最大の不名誉とされる)、家康は3里敗走、家康は途中二度も自害を覚悟したといわれる。
 真田軍は二度も家康本陣に迫ったが、ついに家康の首を取ることはできなかった。
 幸村討ち死に。48歳。

 幸村が家康を追い回している時に、毛利勝永も猛虎の勢いで家康本陣に突入してきた。勝永勢が家康を玉造村まで追い散らしたともいわれる。
 子勝家とともに討ち死に(8日秀頼を介錯したあと自害とも)。勝永38歳。勝家16歳。

 明石全登はこの日遊撃隊を率い、家康奇襲の秘策を持って船場で待機していた。

 関が原の戦いにおいて西軍でもっとも奮戦した軍の一つは1万5千の宇喜多秀家軍であった。
 明石全登(たけのり、ぜんとう)は秀家麾下(きか)の3万石の城主で、宇喜多軍で前衛隊長として8千の兵を率いて、福島正則隊と死闘を繰り返した。勇敢に戦い、生死不明のまま姿を消した。
 全登はキリシタン武将で自害はしなかった。
 やがてその姿は1602年筑前秋月に現れた。同じキリシタン大名であった黒田秋月藩主黒田直之(筑前黒田藩主黒田長政の弟)を頼って一族郎党300人で移り、その保護のもとで生活、布教活動を行い天主堂を建てた。
 しかし、藩主直之が亡くなり、秋月藩が黒田藩の直轄となり、幕府のキリシタン取締りが厳しくなると、キリシタン大名であった黒田藩主長政も迫害に転じ、全登は1612年長崎へ移った。(1612,1613年禁教令が発布された)。

 宇喜多秀家は関が原から逃げ延びて、薩摩の地に隠れていた。後に幕府に知られ、1603年島津氏と共に江戸に上った。島津氏、前田氏の助力で死罪を免れ、1606年八丈島に遠島となった。秀家はこの島で41年間希望を失うことなく生き続け、84歳で亡くなった。徳川の将軍は第四代になっており、関が原で戦った武将で一番長生きした。

 1614年10月3日、十字架とキリスト像を先頭に掲げ、聖ヤコブの長旗六本を翻し、十字架の旗指物を林立させた部隊が堂々と大坂城に入城してきた。城中の兵が歓声をあげて迎えたという。明石全登であった。秀頼が「勝てば布教を許す」と約束し出陣してきた。城内のキリシタン部隊は増え続け8千人となった。

 同じキリシタン大名の高山右近内藤如安は、西軍への参加を恐れた家康によって一族が1年ほど拘束されていたが、前年10月長崎からマニラに追放された。

 5月7日、全登は精鋭300人を選び、城の西にあたる船場の町で待機していた。
 西軍の御大将豊臣秀頼が大坂城から出撃し、茶臼山近くの四天王寺に陣を敷く。そうすれば西軍の兵は意気が上がり、東軍の豊臣恩顧の諸将は動揺するであろう。
 その瞬間を逃さず幸村、勝永、他の部隊が敵本陣目がけて突入し、混乱に乗じ全登軍が全速で茶臼山を迂回して東軍の背後を突き、ただひたすら家康のみをめざして奇襲するのである。敵の総大将への奇襲攻撃が劣勢の軍に残された唯一の手段であった。

 秀頼が大坂城から出撃した。秀頼の出陣は10万の兵に相当する。いよいよ戦闘開始だ、と思った時、秀頼はすぐ本丸へ引き返していった。淀君が呼び返したという。最後の乾坤一擲の作戦もこうして崩れた。(前に記した幸村、勝永の戦いは、秀頼の出撃中止がわかった後に突撃したものである。)

 全登軍も家康本陣をめがけて、最後の攻撃を敢行した。数に勝る東軍が勝永軍を追ってきたが、その横腹に突撃を敢行し、水野勝成隊に突っ込んでいった。しかし続々と沸いてくる東軍の中で、味方はいつしか四散した。全登の三男討ち死に。

 戦後、徳川幕府は豊臣方の残党狩りを行ったが、なかでも全国各地で行われた「明石狩り」は執拗をきわめた。全登は一族を連れ、信者の領主を頼って杵築、日田、筑前下座(甘木市)と逃げ、1616年柳川に移った。しかしキリシタンへの弾圧がいっそう厳しくなり、見つかった縁者や、匿った者が処刑された。全登は信仰を捨てることなく、翌年に異郷の地台湾へ渡ったという。(生まれ故郷の吉備岡山へ帰ったという説もある)。
 子孫の明石元二郎氏(陸軍大将で台湾総督を歴任)は、台湾の基隆市仙洞で、明石全登の墓を見つけたという。




真田幸村戦死の地といわれる安居天神。

真田幸村戦死の地といわれる安居天神。
 幸村は再三の突撃を繰り返した後、この安居(やすい)天神の境内で休んでいたところを討たれたといわれている。(最後まで戦って討たれたと記した資料もある。)



「真田幸村戦没地」碑

「真田幸村戦没地」碑



「真田幸村陣没の旧跡」説明板

「真田幸村陣没の旧跡」説明板



幸村は境内の杉の根に腰をおろして休んでいるところを討たれたといわれる。

 幸村は激しい戦闘の後、茶臼山の陣から退き、安居天神の境内で馬から降り杉の木の根に腰を下ろして休んでいるところを討たれたという。
 その場所に新しい杉が植えられている。



安居天神の境内にある「真田幸村戦死跡之碑」

「真田幸村戦死跡之碑」
 討たれたといわれる地に記念碑が建てられている。



安居天神(安居天満宮)の本殿

安居天神(安居天満宮)の本殿。
 安居の天神さんは、すぐ南にある一心寺と並んで落語「天神山」の舞台にもなっている。
 私は桂枝雀の「天神山」が一番好きです。



三光神社境内にある「真田幸村公之像」

「真田幸村公之像」
 真田山公園北側、玉造本町の三光神社境内に幸村公の銅像が建てられており、その勇姿を見ることができる。



大坂城とつながっているといわれた「真田の抜け穴」

「真田の抜け穴」
 幸村の神出鬼没の奮戦ぶりから、大坂城からここまで地下の抜け穴が通じていると講釈師が見ていたかのように話し、庶民はそれを信じた。
 (実際は古墳跡?らしい。2014年のNHK「歴史秘話ヒストリア」では「最近の調査によると、この穴は夏の陣のときに徳川方が掘ったもの」と説明していました。この周辺には多数の穴が掘られているそうです。)



  5月7日午後4時頃、本丸、天守閣が裏切り者の放火によって炎上、夜も燃え続けた。
(ここに天下の宝物が収蔵されていて、宝物もすべて炎上した。)

 秀頼淀君ら30人前後は庭の糒(ほしい)蔵(山里曲輪(くるわ))に避難した。
 このとき千姫(秀頼の妻、家康の孫)を徳川方に渡すことにした。戦闘中の城からの決死行で、千姫をふとん巻きにして綱で櫓から下ろし、侍女たちは石垣に手足を掛け命がけで降りたという。(講談では徳川方の坂崎出羽守が火傷を負いながら千姫を助けたことになっている。)
 家康に会えたら、使者が秀頼の助命を願うことにした。

5月8日
 秀頼助命の返事を待っていた糒蔵を目がけて、鉄砲や大筒が次々と打ち込まれた。
 午後2時頃、豊臣秀頼、淀君、側近、真田大介ら32人が自害。火薬に火がつけられ、蔵は爆発炎上した。秀頼23歳。淀君49歳。
 ここでも秀頼と淀君の遺体は見つからなかった。秀頼は真田大介(幸村の子)らに守られて薩摩に逃れたともいわれ、鹿児島には墓も残っているという(?)。 落城後、上方ではこのような童唄がはやった。
  「花のようなる秀頼さまを
   鬼のようなる真田がつれて
   退(の)きも退いたり鹿児島へ」

 歴史の英雄・主人公は生き続けて欲しい、という大衆の気持ちの表れといわれる。
 大坂や西国では家康より秀吉の方が人気があった。
 こうした謎、異論が生き続けることは、少なくとも小説の題材が増え、読書の楽しみが増えることはまちがいないだろう。

こうして栄華を極めた豊臣家は大坂城とともに滅亡し、秀吉が集めた天下の宝物もすべて炎上した。

 家康は午後3時頃までは、茶臼山の本営で戦勝拝賀にきた諸大名に会っていた。しかし、「大坂城の焼け跡を検分する」といって、重臣にも知らせず、旗本ら100人に護衛させ、粗末な駕籠に乗り出発した。そしてそのまま京の二条城までひたすら突っ走った。
 豊臣方の生き残った勇士が死兵となり、豊臣家を滅亡させた家康を陣所に襲ってくるのを避けたのである。
 家康は戦いの機微を知っていた。

 大坂城の将兵で生き延びようとする者は、徳川勢が手薄だった城の東北にある京橋口や、北の天満方面から逃げた。しかし、死に花を咲かせんと参陣した多くの武将は、いさぎよく戦って討死にした。
 戦後、京の伏見街道に沿って、戦いに散った西軍の首が棒の上に並べられたが、千個以上の列が10列もあったという。

 狡猾な狸親爺といわれた家康は、豊臣家の滅亡を見届けて、大坂の陣の翌年亡くなったが、その用心深さ、細心さで75歳まで長生きした。戦国の真っ只中を戦い続けた武将としては稀有な長寿であった。
 その用心深さはただの臆病ではなく、子供の頃の14年間にわたる人質生活と、命がけの戦いを、自ら経験し身をもって得た処世訓であった。
 1572年の三方ケ原の戦いで、31歳の家康は武田信玄軍に惨敗を喫した。家康は敵に追われ、側近が身代わりとなって次々と討たれるなかを、馬上で糞をもらしながらようやく浜松城に逃げ帰った。武士にあるまじき見苦しさで、まさに切腹ものである。しかし家康が偉いのはこの後のこと、恥を忍んですぐに絵師を呼んでこさせ、自分のげっそりやつれた姿を描かせたのである。その絵をいつも身近におき、毎日の戒めとした。後に野戦では一番強いといわれるようになった家康は、なおかつこれだけ細心の注意を払い、戦いに臨んだ。
 また天下を取った将軍ともなれば、敗戦を喫し、みじめな姿で逃げ帰ったことなどは、記録から消し去るものだが、家康は死に際してもその情けない自分の絵を捨てず、人生の戒めとして子孫に残した。


 さて、大坂城の宝物はすべて灰となって消えてしまったのだろうか?

5月7日 家康が宝物の探索を命じる
 大坂城炎上を見た家康は、奈良の漆塗りの名工、藤重藤元(とうげん)藤厳(とうげん)父子に宝物の探索を命じた。
 やがて藤重親子は大坂城宝蔵の焼け跡から比較的損傷の少ない「新田肩衝」など5点の宝物を見つけ出した。
 (一次探索で、新田肩衝、鴫(しぎ)肩衝、玉垣文琳、大尻膨(しりふくら)、宗薫小肩衝の5点が見つけられた。)
 藤重親子は絶妙の漆塗りの技巧でそれを修復し、13日京の家康のもとに差し出した。家康はその見事なできばえをほめ、さらに探索を続けるよう命じた。
 さらに探した結果、損傷のひどい「九十九髪茄子」など4点の宝物が見つかった。
 (二次捜索で、九十九髪茄子、松本茄子、針屋円座など4点が見つけられた。)
 九十九髪茄子は20〜30個の破片に砕けていたが、漆で接いで原型に復し、表面も漆で釉の跡まで見事に修復された。これらの宝物を26日に差し出した。
 家康はできばえを褒め、「新田肩衝」を自分の手元に置き、その他の宝物は藤重親子に下賜し、他に知行150石を与えた。
 「新田肩衝」はその後、水戸徳川家に伝わり家宝となった。
 「九十九髪茄子」などは、藤重家の家宝として伝えられたが、明治になって岩崎財閥の弥之助に渡り、現在静嘉堂文庫美術館に収蔵されている。


「秀頼・淀殿ら自刃の地」説明板

「秀頼・淀殿ら自刃の地」説明板
 現在の大阪城の北側の山里丸の一画に石碑とともにひっそりと建てられている。
 秀頼は威丈夫な若者でありながら、一度も戦いの場に立つこともなくこの世から消えていった。戦って武士の本懐を遂げることを本人は望まなかったのだろうか。



「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」碑

「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」碑
 淀殿は三度の落城を経験した。
 一度目は浅井長政が織田軍(この時の先鋒は木下籐吉郎(豊臣秀吉))に攻められ、小谷城が落城した。この時、母お市と淀、江、初の浅井三姉妹は織田軍に返された。
 二度目は母お市が再婚した相手の柴田勝家が賤ケ岳の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗北し、越前北ノ庄城が落城した。母お市は勝家とともに自刃し、三姉妹は秀吉軍に返された。
 三度目は大坂夏の陣。最後に家康の孫・千姫を家康の元に返して秀頼の助命を願ったが聞き入れてもらえず、淀殿や秀頼は武将30人とともに自刃し、豊臣家の命運は尽きた。



現在の大阪城(徳川幕府によって建てられた)

 秀吉が建てた大坂城は燃え落ち、その地に(建てられた場所は異なる)徳川幕府により現在の大坂城が再建された。
 (寛永6年(1629)完成。)



現在の大阪城の石垣と堀

400年経った現在、武将が存亡をかけて戦った戦国時代の厳しさを知ることのできる貴重な史跡となっている。



   
  (参考文献=私がたまたま出合い参考にした本です)
司馬遼太郎「豊臣家の人々」角川文庫
司馬遼太郎「城塞」新潮社
司馬遼太郎「覇王の家」新潮社
隆慶一郎「影武者徳川家康」新潮社
隆慶一郎「捨て童子松平忠輝」講談社
安部龍太郎「関ケ原連判状」新潮社
安部龍太郎「密室大坂城」講談社
新宮正春「兵庫の壷」新人物往来社
火坂雅志「軍師の門」小学館
武野要子「博多」岩波文庫
佐竹申伍「真田幸村」PHP文庫
森本繁「明石掃部」学研M文庫
永岡慶之助「大坂の陣名将列伝」学研M文庫

 

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