九州あちこち歴史散歩★天下三肩衝の流転(1) 「新田肩衝」と本能寺の変          サイトマップ

 天下三肩衝の流転(1) 「新田肩衝」と本能寺の変

   茶は鎌倉時代、臨済宗を開いた栄西(えいさい)禅師が南宋から持ち帰った。(栄西は帰国後1195年博多に聖福寺を建立した。) 当時茶は養生の仙薬で、九州背振山で栽培され、後に京都の栂尾(とがのお)が栽培の中心となり、栂尾産の茶葉を本茶、その他のを非茶とした。
 茶道は南北朝時代に大名や豪商などの間に広まっていった。
 茶器の名品は当初、足利義政によって集められた(東山御物(ごもつ))が後に散逸し、また新しい名品も見出されていった。戦国時代、婆娑羅(ばさら)大名は「闘茶」(本茶か非茶かの当てあい)に熱中した。
 信長、秀吉の時代には功績のあった武将に与える領地が足りなくなり、代わりに茶器の名品を与え茶会を開く権限などと併せ、武将の権力・権威の一部とし、部下の統率に利用した。(茶の湯政道といわれる)
 茶道は武将の間にも広まった。これは大名茶、武士茶道と呼ばれ、現在の茶道とは趣を異にする。
 信長四天王の雄、滝川一益は信長から、「手柄をたてれば名物「珠光小茄子(じゅこうこなす)」を与えよう」と言われ、織田信忠を補佐して高遠城を落し、武田勝頼を天目山に滅ぼした。 一益には戦功として上野国、信濃二郡の領土と関東管領の役職を与えられたが、知人への手紙で「武田氏を滅ぼした。殿に何か望みがあるかと訊かれたら、珠光小茄子と答える覚悟であったが、なにも訊かれなかった。がっかりだ。」と嘆いている。
 (☆滝川一益は近江国甲賀の出身で、忍者だったとの説もある。(?))

 信長は「金銀米銭はもう不足ない。これからは唐物、天下の名物を集めたい」(信長公記)と言って、実際に「名物狩り」を行って天下の名品を力尽くで集めた。次の秀吉も天下人の証しとして負けずに集めた。

 茶器には茶入れ、茶壷、茶釜などがある。
 茶入れは茶の葉や粉を入れる小さな壷で、その形によって肩衝(かたつき)、茄子(なす)、瓢箪(ひょうたん)、文琳(ぶんりん)(りんごの意)の名前がある。

 「天下三肩衝」はその当時から有名であった。
 「新田(にった)肩衝」「楢芝(ならしば)肩衝」「初花(はつはな)肩衝」の三つがこれである。



  

「新田肩衝」と本能寺の変

  「新田肩衝」所有者の変遷

   「新田肩衝」
    伝来

  新田義貞
   ↓じゅこう
  村田珠光
   ↓
  三好政長
   ↓(宗三)
  織田信長
   
 (明智光秀)
   
  大友宗麟
   ↓
  豊臣秀吉
   ↓
  豊臣秀頼
   
  徳川家康
   ↓
  徳川頼房
   ↓
  水戸家家宝
   
漢作唐物。南宋末〜元初期(13〜14世紀)の作。
高さ8.6センチ。

義貞が所有したといわれる。

わび茶の開祖。足利義政の茶の師匠。
「天下三肩衝」を全て所有していた。
武野紹鴎(じょうおう)の弟子。甥の三好長慶と戦って戦死。

名物狩りで集めたのだろうか。 
本能寺の変で自害。「新田肩衝」はこの時どこに?
本能寺の変後、安土城の信長の宝物を配下の武将に分け与えた。
三日天下に終わる。安土城本丸炎上。
本能寺の変後宗麟の手に渡った経緯は謎。(下欄に説明)
宗麟が大坂城で秀吉に見え救援を願ったとき献上した。
大茶会ではいつも「新田肩衝」を使った。
北野大茶会でもこれを使った。子の秀頼に伝えた。
関が原の戦い後も大坂城を居城とした。
大坂夏の陣で豊臣家秘蔵の宝物はすべて炎上
家康の命で探索、灰燼の中から見つけ出され修復された。
家宝として子に伝えた。
家康の11男。徳川水戸家の祖。

現在は水戸市の彰考館徳川博物館に収蔵されている。

「新田肩衝」の流転(その1) 本能寺の変前後のできごと
(本能寺の変の経緯のあらすじとエピソードです。
 肩衝の行方については太字の文章の部分を読んでください。)

天正10年(1582)5月29日
 28日深夜、信長は居城安土城を近臣、小姓、女中など七十数人(馬廻り30騎とも)を引き連れ出発。29日午後2時ごろ本能寺に到着。

翌6月1日(昼まで激しい雨、夕方小雨、夜止んだ。)
 この日の本能寺内のできごと。

(1)公家の来訪
 夕方、関白、大臣、五摂家など主だった公家、門跡ら40人が顔を揃えて挨拶に来て、数時間陳情した。
 信長はこのとき全員の進物を受け取らず突き返したという。
 当時、朝廷、公家たちは信長に追い詰められていた。無冠の信長に対し、太政大臣、関白、征夷大将軍のどれでも望む官位を与えると伝え(「三職推任」)、これまでの相手なら泣いて喜んで朝廷を敬ってくれるはずのところが、全く無視され、あげくは朝廷の専権事項である暦作成に介入して暦を早く替えろと迫られていた。

(2)碁打ちの来訪
 碁打ちの本因坊日海(後の初代本因坊算砂)と鹿塩利賢が来て夜に対局した。(信長も碁が打てた。)
 数局打ったが、その中に三劫となった一局があった。三劫ができるのは非常に珍しいことである。その時の棋譜といわれるものが残っている。夜中0時ごろ帰った。
 (その故事から、三劫ができると縁起が悪いといわれていた。碁はこの頃より江戸時代にかけて大いに発展し、武士、町人に広まっていった。)

(3)嫡男織田信忠の来訪
 長男の信忠は28日(21日とも)安土より警護の兵を率いて妙覚寺に宿泊していたが、公家たちが帰った後に京都所司代と共に来訪して話し込み、夜遅く帰った。

 以上の(1)〜(3)は各種資料や公家の日記などにより来訪はほぼ正しいとされる。
 次の(4)(5)は説の分かれるところである。
 (下の楢柴肩衝の欄を参照してください。)

(4)博多の豪商島井宗室神屋宗湛の来訪
 島井宗室は信長に「楢柴肩衝」を献上するために来訪を約束していた。
 信長はそのため茶会と道具揃えを行った。
 来訪した二人は茶会で遅くなり本能寺に泊まった。

(5)道具揃えのため茶器の名品を持参
 茶会と名物茶器揃えのため、本能寺に秘蔵の茶器38種を持ってきた。
 九十九髪(つくも)茄子、珠光小茄子、円座肩衝、勢高肩衝、紹鴎白天目、貨狄(かてき)舟の花入れ、などの秘蔵品ばかりだった。(珠光小茄子は滝川一益が一国以上に欲しがった名物。なお文献に拠れば「新田肩衝」は含まれていないので、安土城に残されていたと思われる。)
 安土城にはまだ200点を越す、信長が集めた名物茶道具が秘蔵されていた。

6月2日未明 本能寺の変
 前夜1万3千の兵で丹波亀山城を出発した明智光秀は、「敵は本能寺にあり」と老ノ坂を越えて京に入り、桂川を渡り、嵯峨天龍寺に本営を構え、本能寺を包囲、襲撃した。
「桔梗の紋、明智が者にて御座候」との森蘭丸の報告に、信長は「是非に及ばず」と答え自ら弓、槍を取って奮戦したが無勢。「女は急ぎ罷り出でよ」と外に逃がし、寺に火をつけ、信長自害。「人間五十年、夢まぼろしの如くなり」の人生を終えた。49歳。

 明智軍はついで妙覚寺、二条御所に織田信忠を攻めた。信忠側は市中に宿泊していた信長の馬廻り1千騎も二条御所に入って戦ったともいわれるが、弓、鉄砲で攻められ敗北。二条御所炎上、信忠勇ましく戦ったが及ばず自害。26歳。

 信忠の子は岐阜城にいて(二条御所から逃れたとも)無事だった。27日に清洲会議で秀吉に跡目として擁立される「三法師」である。
 また、この時清洲城には、信長の妹お市の方とその娘たち三姉妹(14-10才)がいた。夫であった浅井長政が滅ぼされた後、織田信包が引き取り清洲城で過ごしていた(男児は殺害、出家)が、お市の方は織田家の勢力維持のため、この後すぐ柴田勝家と再婚した。そして一年後には、賎ケ岳の戦いで勝家も滅び、お市の方も城から落ちるのを断り勝家と共に自刃したため、今度は母も失くして三姉妹だけが戻ってくることになるのである。

「浅井(あざい)三姉妹」
  長女 茶々(後の淀君)。秀吉の側室。
  二女 初(はつ)。京極高次の側室。
  三女 江(ごう)(小督(おごう)の方、お江与)。三回目の政略結婚で徳川秀忠(後の二代将軍)の側室。
  姉妹は大坂の陣では敵味方となった。



6月2日、3日
 明智光秀側は本能寺の焼け跡を徹底して探したが、信長の遺体がわからず大騒動した。(「言経卿記」「兼見卿記」)
 「信長の遺体はおろか、毛髪、骨すら発見できなかった。」((宣教師)フロイス「日本史」)

 徳川家康は5月11日わずかな供をつれ岡崎城を発ち、駿河拝領の礼に京に来ていた。15日に安土城に入り、接待(接待役は光秀だった)や京見物のあと、6月1日は堺を見物した。2日は本能寺に行って信長に会う予定であったが、途中で本能寺の変の報に接したとき家康は「(落人狩りの錆槍にかかるような)恥を受けるより、京の知恩院に入り、腹を切る」とわめいた。街道は光秀勢に押さえられ、数十人の小勢では逃げ切れないと判断したのである。
 しかし側近たちが思いとどまらせ逃避行に移った。河内の枚方から山道へ入り、木津、宇治、伊賀、甲賀、加太(かぶと)を越え、白子ノ浦から舟で伊勢湾を渡り、岡崎城まで命からがら逃げ帰った。(「神君伊賀越え」といわれる。)茶屋四郎次郎(別の商人との説もあるが、この頃武将の道中には商人の同行が多い)が持てるだけ持ってきた資金で途中の土豪を懐柔し、道案内や護衛を雇いながら山道を進んだ。後の徳川四天王が周りを固め(若い本多平八郎も長槍「蜻蛉(とんぼ)切り」を振るって家康を守った)、途中から馳せ参じた服部半蔵ら伊賀衆が前後を守り、一揆勢と戦いながら3日間をかけてようやく岡崎にたどり着いた。
 九死に一生を得た。家康の人生で最大の危機だったといわれる。
 途中で別れた穴山梅雪勢20人は宇治で一揆勢に殺され、家康を守る兵も200人が死んだという。
 服部半蔵は祖父の代からすでに家康に仕えていたが、この時の働きに報いて家康は「伊賀者」一族を召抱えた。

6月3日
 安土城の留守を守っていた蒲生賢秀(氏郷(うじさと)の父)は午後2時頃、信長の妻妾一族を伴って、日野城に移った。
 妻妾らは、「金銀財宝を持ち出し、城に火をつけて逃げよう。」と言ったが、賢秀は「殿が心を尽くして建造した天下無双の城を焼くのは冥加なき次第である。また、金銀名物を濫取りすると天下の笑いものになる」と言って宝物に手をつけず、警備役だけ残して去った。(・・怖い主人が殺された混乱の中で、天下の財宝を目の前にして、しかも、主君のうるさい妻妾に対して、なかなか言えませんよ・・)。

 なおこの時、日野城に伴った妻妾一族の一覧に、信長の正妻濃姫(奇蝶)の名はない。そもそも濃姫の名は、信長との結婚生活の後半は、一切記録に残っていない。
 司馬遼太郎さんの「国盗り物語」では、本能寺で濃姫も薙刀をとって戦い討死にしたことになっている。いっしょに死なせるなんて司馬さんはやさしいなあ。(しかし、そのとき濃姫は48歳となり、戦陣に連れ歩くのは考えがたいとの説が強い。本能寺の変のとき、「お能の方」が亡くなったと記されているが、これは別人といわれている。)
 濃姫は、焼けていく安土城にいたとの説や、別れて実家の美濃に帰っていた、あるいは、既に亡くなっていたなどの説がある。
 本能寺で亡くなった者の墓は後に建てられたが、そこに濃姫の墓はない(織田家墓所のなかのある墓が濃姫のものとの説もある)。

6月5日
光秀は安土城に自ら赴き引渡しを受け入城。
信長の集めた宝物をすべて取り出して兵に分け与えた。

 秀吉も水攻め中の備中高松城から陣営をサッと撤収し、京に引き返す途中7日に姫路城の蔵にあった金銀米銭をすべて兵に分け与え、乾坤一擲の戦いであることを示し、軍勢の士気を鼓舞した。

本能寺の変を知った黒田如水が秀吉に「天下取りの好機」と助言し、その才覚を恐れた秀吉はその後如水を遠ざけたといわれる。真偽はともかく、各地の戦線に出陣していた信長麾下(きか)の武将の中で、「即撤収、全力で京へ引き返す」決断ができたのは秀吉だけであった。

6月13日 山崎の合戦
 光秀軍1万5千。豊臣秀吉軍3万。
 光秀はかつて共に足利将軍家に仕え、また娘の嫁ぎ先でもある細川藤孝、忠興父子に参陣を促したが、藤孝は応じなかった。(光秀の娘たまが忠興の正室、後のガラシャ夫人。(たま(玉)は光秀の実子ではなく、越前国の石田備後守の二女で、3歳のときに光秀の養子になった、との説もあるが、実子とする説が多い。)
 秀吉は「中国大返し」で天王山を占拠し、遅れをとった光秀軍は数時間の戦いで崩れ去った。
 光秀軍の大将斉藤利三(としみつ)が討死にした。(近江坂本城へ逃げ、後に堅田で捕らえられたともいわれる)。49歳。

6月13日夜半 光秀落命
 近くの勝竜寺城に逃げ込んだ光秀は、夜半に10騎前後の近臣と共に居城の近江坂本城を目指して脱出した。
 しかし、伏見を過ぎて小栗栖(おぐるす)付近の竹薮にさしかかったとき、土民に竹槍で襲われ落命した。55歳。槍で刺された後しばらく逃げたが、傷が深く落馬。近臣の溝尾庄兵衛が介錯。光秀の首は桔梗紋の入った鞍覆いに包んで、藪の中の溝に隠してあったのを農民が見つけ、本陣三井寺の秀吉のもとに届けたという。
 しかし、これは偽首を置いたもので光秀は実は生きていた、との異論もある。偽首との噂は当時からあった。
 (この説は、千利休=光秀(?)説や、天海僧正=光秀(?)説につながる。)

6月14日 明智秀満、安土城から坂本城へ移る。安土城炎上。
 安土城を守っていた光秀の女婿明智秀満は敗戦を知り、敵の攻撃を受けながら坂本城へ移った。
 このとき、安土城の天主、本丸などが焼失した。(「兼見卿記」では15日)。
 秀満軍が放火したとも、攻めていた織田信雄(のぶかつ)軍が放火したともいわれる。また略奪目的の土民が放火したとの説も根強い。
 こうして天下一の名城が焼失した。(二ノ丸はしばらく使用されたが1585年廃城された。)

6月15日 秀満自刃、坂本城炎上
 光秀の最後を知った秀満は城内の宝物(国之の刀、吉光の脇差、虚堂の墨蹟など)をまとめて、目録を添え、攻城軍の堀直政に届けた。(・・死を前にして、これも立派だなあ・・)。
 麾下武将を城外に去らせ、一族近臣で天主に籠り自害。城と共に灰燼と帰した。

 秀満は宝物の目録の中に名刀「郷義弘の脇差」が見えないことを訊かれ、「この脇差は光秀が大事にした刀。死出の山で光秀にお渡しいたす」と答え、一族と共に炎の中に消えた。

 秀満の妻は悲劇のキリシタン、ガラシャ夫人(細川忠興の妻)の姉である。
 またこの時、秀満の幼かった娘は乳母とともに土佐国に逃げ、長岡郡に住みついたのが坂本竜馬の先祖ともいわれている。

6月17日
 斉藤利三(としみつ)が京の六条河原で処刑され、首は粟田口にて明智光秀と並べて晒された。
 利三は光秀の重臣で、「謀反之随一」(「言経卿記」)といわれ、謀反の首謀者と噂された。

 利三の4歳の末娘斉藤福(お福)(後の春日局)は、父の妹の嫁ぎ先である長宗我部元親を頼って、土佐に逃がれた。(母の父である稲葉一鉄の親族を頼って、京の公家に匿われていたとの説もある。)
 お福はやがて稲葉一族で秀吉の家来の稲葉正成の後妻となった。秀吉によって1594年小早川秀秋が隆景の養子に押し付けられた時に、正成も秀秋の筆頭家老とされ、5万石を与えられた。秀秋が筑前名島の領主だった数年の間、お福も名島城に住んでいたと思われる。この頃長男が生まれている。1600年関が原の戦いにあたって、小早川秀秋の寝返りによって徳川方が勝つと、秀秋は備前・美作51万石を与えられ、岡山へ移った。正成も秀秋の寝返りに功績があり、7万石に加増された。
 しかし秀秋は「日本一の裏切り」に悩み、だんだん狂乱状態に陥り、諌める家老を討つにおよび、正成は職を辞し浪人となり、美濃に帰った。1602年小早川秀秋が悶死し、後嗣がなかったため小早川家は断絶した。
(1601年春から2年間、お福は豊後臼杵(稲葉一族が城主だった)に住んでいたとの記録も、臼杵に残されている。)
 1604年(慶長9年)お福は、正成と離縁し(正成の妾を切って去ったといわれるが、後に夫やその係累も出世している。夫がいる者は大奥に入れないので、離婚は形式的なものだったと思われる)、二代将軍秀忠の子の乳母として大奥に入った。(なお、この頃は徳川幕府ができたばかりで、まだ大奥の制度はなかった。)

 十余年後、お福は「お伊勢詣り」と称して駿府城に乗り込み、家康に直訴して、将軍秀忠とその正室お江与(えよ)の方が次期将軍にと望む弟「国松」を押しのけて、自分が乳母として育てた兄「竹千代」を三代将軍家光にしたことは有名である。(家康に直訴しようとして、「出すぎたまねをするな」と家康に一喝されたとの説もある。)
 お福は後の「春日局(かすがのつぼね)」で、家光の母役となって絶大なる権力を持ち、大奥制度の根幹を作った。
 前夫正成や子供を初め、一族、縁者も大出世を遂げ、数人は譜代大名になって幕府の要職を占めた。

 それぞれのできごとについては異論が多いが、ここにも数多くの謎がある。
 主家殺しの謀反者の娘がなぜ江戸城に入り、徳川幕府の下でかくも絶大な権力を得たのだろうか?
 そもそも将軍秀忠の正妻「お江与の方」は信長の妹「お市の方」の三女である。(この三姉妹は長女茶々が秀吉の側室(淀君)、次女お初が江州京極高次の正室、三女お江(ごう)が3回目の政略結婚で徳川秀忠の正室となっている)。お江与の方にとって、お福は伯父信長の命を奪った首謀者の娘で、仇同士である。そんな女を自分の子の乳母になんかさせたくない、とお江与の方が考えても不思議ではない。実際に二人は反目しあっていたという。

 江戸城の秀忠やお江与の方の意向に反し、お福の登用を推進できるのは駿府城にいる大御所家康以外には考えられない。なぜ家康はお福をそれほど重用したのだろうか?。
 異論の一つとして、竹千代は春日局の実の子(?)で、父は秀忠(?)という説と、同じく竹千代は春日局の実の子?(で)、父は家康(?)という説がある。
 竹千代が三代将軍家光となり、やがてお江与の方、秀忠も亡くなると、甲斐、駿河、遠江(とうとうみ)55万石の国主に任ぜられていた国松(徳川忠長)は、家光によって甲斐国・高崎へ移され蟄居(ちっきょ)、やがて自害に追い込まれた。(忠長の行状も問題があったとされる。)

 本能寺の変は日本歴史の最大の謎とされているが、戦国時代は多くの謎に満ちている。


 このような本能寺の変の混乱のなかで、秀吉は本能寺の焼け跡を探索させ茶器の大名物「九十九髪(つくも)茄子」を手に入れたといわれるが、「新田肩衝」はついに見つけることができなかった。

 そして 織田信長 → 明智光秀 → 大友宗麟
と、いつの間にか宗麟の手に収まっていた。


   
 
(参考文献=私がたまたま出合い参考にした本です)
秋山駿「信長」新潮文庫
司馬遼太郎「国盗り物語」文芸春秋社
津本陽「下天は夢か」日本経済新聞社
津本陽「夢のまた夢」文芸春秋社
津本陽「覇王の夢」幻冬舎
池宮彰一郎「本能寺」毎日新聞社
安部龍太郎「関ケ原連判状」新潮社
新宮正春「兵庫の壷」新人物往来社
火坂雅志「軍師の門」小学館
火坂雅志「沢彦」小学館
加藤廣「信長の棺」日本経済新聞社
佐々木譲「天下城」新潮社
阿刀田高「安土城幻記」角川書店
杉本苑子「春日局」人物文庫
笹沢左保「小早川秀秋の悲劇」双葉社
八切止夫「信長殺し、光秀ではない」作品社
高柳光寿「本能寺の変」学研M文庫
   
 
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