九州あちこち歴史散歩★長崎くんち2013(6)鯨の潮吹き(万屋町)          サイトマップ

長崎くんち2013(6)鯨の潮吹き(万屋町)

  「鯨の潮吹き」は一つの町しか出さない演目なので、7年に一度しか見られません。龍踊やコッコデショと並んで最も人気のある出し物です。
「鯨の潮吹き」と「コッコデショ」はシーボルト(在日期間1823-1829)がドイツに帰ってから出版した「ニッポン」の挿絵にも使われているそうで、当時から人気の出し物だったのですね。 
 私は7年前の前回は日が暮れる頃に出会えましたが、あまりゆっくり見ることができず、今年はゆっくり楽しもうと期待していました。
 午後3時ごろに「鯨の潮吹き」を追っかけてJR長崎駅あたりから浜んまちへ移りましたが鯨は見つからなかったものの、運のいいことにアーケード街では傘鉾の演技が行われていました。「お下り」の傘鉾のパレードの後にここでも演技を行っていたようです。
 しばらく傘鉾を眺めていましたが鯨が気になって、傘鉾の撮影をいくらか残したまま五島町の方に移動しました。町の地理があまりわからないままあちこち歩き回っていると、旗持のお嬢さんたちの姿が目に入ってきました。やっと7年ぶりに鯨に会うことができそうです。

 「鯨の潮吹き」の庭先回りのようすは 鯨の潮吹き庭先回り音声 をお聞きください。(mp3、3分25秒)
   (「鯨の潮吹き」は常時「ヨッシリヨイサ」の掛け声をかけながら進みます。)




万屋町の先曳きのお嬢さん

 町を歩き回った末にやっと万屋町の元気のいい旗持のお嬢さんたちに出会えました。
 7年ぶりに鯨の親子に出会えそうです。

 



万屋町の「鯨の潮吹き」の庭先回り風景

「ヨッシリヨイサ」の掛け声とともに、鯨が姿を現しました。



万屋町の「鯨の潮吹き」の庭先回り風景

 お店に庭先回りを披露して福を分けて回ります。



万屋町の「鯨の潮吹き」の庭先回り風景

 大鯨は長さ6メートル、竹で編んだ骨格に黒色の繻子(しゅす)で覆われた巨体で、激しい引き回しの演技に耐える頑丈な造りになっており重さは2トン以上だそうです。



万屋町の「鯨の潮吹き」の庭先回り風景

 町のあちこちで庭先回りが続きます。



万屋町の「鯨の潮吹き」の庭先回り風景

「鯨の潮吹き」の出し物は、万屋町が魚問屋の町として栄えていた安永7年(1778)頃から奉納が始まったとされ、江戸時代の古式捕鯨を表現しているそうです。



万屋町の「鯨の潮吹き」の庭先回り風景

 気合の入った挨拶です。
 衣裳は白地に波のすっきりしたデザインです。



万屋町の鯨が潮を吹いている。

 鯨の中には大人二人が入っていて、水タンクから手動ポンプで水を噴き上げ、鯨の潮吹きを演出しています。



万屋町の「鯨の潮吹き」の子鯨

 かわいい子鯨が親鯨の後ろをついてまわります。



万屋町の「鯨の潮吹き」の子鯨

 かわいい目をしていますね。



万屋町の傘鉾

 3時ごろ鯨を探して浜ン町の方に行ったら、鯨には会えなかったが、6基の傘鉾が演技を続けていました。
 魚の絵がすばらしいな、と思ったら、これが万屋の傘鉾でした。
 漢字は右から「與廬圖也満智」=よろずやまち、万屋町です。



 傘鉾の飾りは、平樽二組重ね・鰹節七五三連(しめつらね)というそうで、みごとな綱のオブジェです。



 傘鉾の垂は「魚尽し」で、今年165年ぶりに新調されたそうです。
 江戸期から歴史のある長崎刺繍で、精密に表現された魚介類が泳ぐ大作です。



 文政10年(1827)に製作されたときは、絵師は長崎郊外の小瀬戸の浜に水槽を作り、魚類を集めて生態を写生したそうです。まるで海の中を泳いでいるようです。



 厚味のあるからだも刺繍で表現されています。



 伊勢海老の甲羅なども本物そっくりです。
 いつも新鮮な海の幸に出会える長崎ならではの作品ですね。





万屋町の「鯨の潮吹き」の大行列

「鯨の潮吹き」は大行列です。
 親鯨、子鯨の後ろに囃子方が乗る納屋船、囃子方の子供たち、船頭(羽差)の乗る「ざい船」「羽差船(はざしぶね)」「双海船(そうかいぶね)」「持双船(もっそうぶね)」などの5,6隻の船頭船で当時の捕鯨のようすを表現し、これに7人のしゃぎり、役員や付き添いの親たち、道具や飲み物などを運ぶ車などが続いています。
 長崎くんちでも最大級の行列になっています。



万屋町の「鯨の潮吹き」で囃子方の乗る納屋船

 鯨に囃子方は乗れないので、この納屋船に乗ってお囃子を奏でながら鯨のすぐ後ろを進みます。



万屋町の納屋船でお囃子を奏でる子供たち

 お囃子は締め太鼓、鉦、大太鼓で奏でています。



納屋船の後ろにつけられた大太鼓

 納屋船の後ろには大太鼓がついています。



歩きながら打つ大太鼓

 大太鼓は歩きながら叩いています。
 幟に「万組大納屋」とありますが、大納屋、小納屋などは鯨を解体するときの作業場でした。この行列で当時の捕鯨のようすを表現しています。



囃子方の子供たち

 子供たちもいっしょに「ヨッシリヨイサ」を唱和しながら歩き、納屋船の囃子方を交替で務めます。



「鯨の潮吹き」の船頭(羽差)役の子供たち

 囃子方を乗せた納屋船の後ろに船頭船が5,6台続きます。
 船頭は羽差(はざし)と呼ばれ、捕鯨の花形でした。祭りでは厚い蒲団に座って小学生(船頭頭)と幼児達の10人で務めています。



「鯨の潮吹き」の親爺船に乗る船頭頭

 納屋船のすぐ後ろを親爺船が進んでいます。船頭頭の乗る船で、鯨をしとめる銛などが装備されています。
 この船頭頭は奉納踊りの演技の冒頭に、采を振りながら朗々たる声で勇み歌の音頭をとり、すばらしい演技を見せていました。



「鯨の潮吹き」の船頭(羽差)役の子供たち

 長崎刺繍のすばらしい衣裳を身にまとった船頭役のあどけない幼児たちが、沿道の見物人の心を癒してくれます。

 16世紀後半に始まった組織的捕鯨は、尾張国知多半島の師崎(もろざき)の「突取式捕鯨」や、さらに発展した紀伊国太地(たいじ)の網に追い込んで銛で突く「網掛突取式捕鯨」の新しい漁法が全国に広がり、江戸時代中期から後期にかけて古式の沿岸捕鯨は全盛期を迎えました。
 古式捕鯨は、房総、紀州、土佐、九州西海が四大捕鯨漁場で、西海では肥前の呼子、長崎の平戸、松浦、五島、壱岐、対馬などが有名でした。

 



「鯨の潮吹き」の船頭(羽差)役の子供たち

 江戸時代の鯨とりはひとつの組で40隻前後の船で行ったようです。
 親父船(沖合いの指揮官が乗る船)が指揮をとり、25隻の勢子船(鯨を網に追い込み、銛を打って捕獲する船)、6隻の双海船(鯨の前方に網を張る船)、6隻の持双船(捕獲した鯨を左右から支えて運ぶ二隻一組の船)などで組織的に鯨を網に追い込んで捕獲する漁法でした。

 勢子船は現在のキャッチャーボートにあたり、羽差(はざし)はその砲手であり、船長でした。
 羽差は舳先に仁王立ちになって勢子たちを指図して鯨を網に追い込み、銛を鯨に追い込んで弱らせ、最後に一人の若い羽差が海に飛び込んで鯨にまたがり、鼻孔に小刀で穴をあけて(「鼻切り」)綱を通します。さらに鯨の下に潜って綱をまわし持双船に渡して巨体を確保する。羽差は沿岸捕鯨の主役であり、海のヒーローでした。
  (当時の捕鯨については、ホームページ『鯨さんの詩』(鯨歌) を参照しました。)



「鯨の潮吹き」の船頭(羽差)役の子供たち

 船頭(羽差)役を務めた子供たちは、7年後にまた「鯨の潮吹き」が登場するときには今度は囃子方で活躍するのですね。

 今年はしばらくいっしょに鯨についてまわり、「鯨の潮吹き」の雰囲気をゆっくり楽しむことができました。



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