佐土原町(人口約3.2万人)は旧佐土原・広瀬・那珂地区が昭和30年代に合併してできた町で、平成18年に宮崎市と合併しました。 「だんじり喧嘩」は旧佐土原地区(人口約5千人)の愛宕神社の夏祭りに行われる行事です。 ☆開催日:旧暦6月24日に近い土、日。(通常は7月20日前後の土、日になることが多いようです。) ☆開催地:旧国鉄妻線(西)佐土原駅跡広場) 佐土原の「だんじり(太鼓台)」は明治20年(1887)ごろ関西から移入されたものであろうといわれ、約120年ほどにわたって受け継がれてきています。 赤団と青団に分かれた2台の「だんじり」は夏祭りの日中は子どもが担ぐ「子どもだんじり」を引き連れて町中を練り歩き、日曜の夕方に「だんじり喧嘩」が行われます。赤、青の「だんじり」が激突し、相手の「だんじり」を押し倒し、ねじり倒す激しい、危険を伴う戦いです。 このような激しい祭りが小さな町で守り続けられているのは珍しいといえるでしょう。 佐土原は江戸時代には薩摩の島津氏の支藩である「佐土原藩」の城下町で、中世〜江戸時代に日向の中心地として栄えました。 |
「だんじり喧嘩」は夏祭りの日曜の午後5時半から行われます。 赤団、青団(地区によって分かれている)のだんじりが喧嘩用の棒などの装備をして戦います。 |
日曜日の午後5時半、いよいよだんじり喧嘩の開始です。 約20メートルほど離れて対峙していた赤団、青団のだんじりが突進していきます。 「だんじり」は約1トンの重さで、30人〜40人の若者が担ぎます。 |
どのように相手と組み合うか、が最大のポイントです。 「だんじり」の天井の上に2人、正面の左右にも2人の指揮者がが乗り、相手との組み具合を見ながら「押せ〜」「引け〜」「回せ〜」などと指示しています。 指示する作戦が適切かどうか、また担ぎ手にどの程度正確にかつ迅速に伝わるか、そして担ぎ手がその指示にかなった動きができるかどうかが勝負を分けます。 |
赤だんじりは左側に回ろうとしています。 |
そのまま押し合っています。 屋根の上の指揮者は常に先棒の組みぐあいに眼をこらし、担ぎ手に指示を与えます 。 |
佐土原城跡のある鶴松山と二の丸周辺の平地 佐土原城はこの山の上に建てられていた山城です。 手前の平地は、左端が二の丸跡、正面が御代官所跡です。 佐土原(さどわら)のミニ歴史(1) 1190年に源頼朝から日向の田島の庄(佐土原町大字上田島・下田島)の地頭職を許された工藤祐経は、代官を派遣して管理していたが、嫡男祐時が伊東氏を名乗り建久9年(1198)日向の地頭職を賜った。 やがて建久年間(1250頃)子の伊東祐明(すけあき、すけあきら)が田島荘に下り直接統治を始め、以来佐土原は伊東氏の支配を受けてきた。伊東氏は日向に下向後は地名を採り田島氏を名乗った(田島伊東氏)。 田島祐明が田島荘へ下向した時期(1250年頃)の日向国では、三田井氏、日下部氏、土持氏、島津氏などが地頭や在地の武士として勢力を伸ばしつつあった。 伊藤氏はその支族(田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏)が先ず日向に下向し。これらの伊東支族は在地領主としてそれぞれの土地で支配権を確立しその勢力基盤を固めつつあったが、伊東本家とは疎遠になっていた。 土地の領有をめぐって反目も起き、鎌倉幕府が消滅し南北朝時代となると一族が南北朝の武家方、宮方に分かれて争う複雑な状況が続いていた。 建武2年(1335)伊東本家の伊東祐持(すけもち)が日向に下向し都於郡(とのこおり)を本拠地とした。 |
佐土原城の大手道の切通し 佐土原城は堅固な山城で、何か所も切り通しが作ってあります。 佐土原のミニ歴史(2) 田島休祐(きゅうすけ)の頃(1440年頃)に佐土原城(鶴松山田島之城)の築城が始まったようである。 休祐は嫡男がおらず姫一人だったため養子として都於郡の伊東本家祐尭(すけたか)の弟祐賀(すけよし)を迎えることになっていたが、婚姻直前に休祐が急逝した。祐賀は田島家と縁を切り、佐土原の姓を名乗ったため(1444年頃)田島氏はここで途絶えた。 これより後、この城下町は佐土原、城は佐土原城と呼ばれるようになった。 田島氏が絶え、木脇伊東氏とは縁組し、伊東祐堯のときに北の土持氏を破る(1456年)などして、2,30年の間に伊東本家は周囲の対抗勢力を破り、日向国の中央部のほとんどを勢力下に置いた。 北部・高千穂の三田井氏、南部(飫肥)西部(都城)の島津氏と相対することになった。特にこの後、飫肥城をめぐって島津氏と100年間にわたって抗争を続けた。 |
佐土原城本丸跡。奥が天守閣跡。 この山城には本丸、天守閣、南城、松尾丸などの跡が残っています。 佐土原のミニ歴史(3) 佐土原氏を名乗った祐賀の時代に佐土原城は縄張りが拡充され、後に日向国の全域ををほぼ支配した義祐の居城として、「伊東48城」の中心となり、後には義祐の隠居城となった。 天文5年(1536)、伊東家内の内紛を収めた伊東本家十代の義祐が佐土原城に入城、その本拠としたが間もなく城は出火により全焼。義祐は宮崎城で政務を執りながら、5年余りの歳月をかけて佐土原城を自分の意に叶った城に改造した。新装なった佐土原城に移った(1543年頃)義祐の勢力拡大は軌道にのり、都於郡城とともに「伊東48城」の中心の城となり、義祐は「我こそ日向・薩摩・大隅三州の太守」と称して、その権勢を大いに振るった。 義祐の武威が近隣に響き渡り、四方より多くの人が寄り集まり、佐土原の城下町には建物がぎっしり立ち並び、四方に響く賑わいとその繁栄ぶりが記されている。義祐は京の都にまねて町を整備、神社仏閣を造営し、金閣寺に模して金柏寺を建立、巨鐘を寄進した。 しかし、次第に奢侈にふけり「驕れる者久しからず」の喩えどおり、元亀3年(1572)都城の「木崎原の戦い」で島津軍に敗退した後は次第に信頼を失って離反が相次ぎ、天正5年(1577)島津軍の進攻を支えきれず、いわゆる「伊東くずれ」で、佐土原城を基盤にした義祐40年の栄華は空しく消え失せた。 各地で反乱が起り、義祐は城を捨て百人余の従者とともに豊後の大友宗麟を頼って落ちのびたが、穂北、米良、椎葉など九州山地を苦労して進み、1ヵ月後に豊後の府内(大分市)にたどり着いた。 この時、幼年の伊東マンショを守って付き従ったのが、綾城の武将であった田中国弘である。(伊東マンショは後に天正遣欧使節団の主席正使となってヨーロッパに赴きローマ法王を訪問した。) 田中国弘は刀工として優れていたが、この後さらに全国を修行して回り、晩年京の堀川に居を定め多くの優れた弟子を育てた。「堀川派」の祖と呼ばれ、新刀初期の大勢力となった。代表作に「山姥切(やまうばぎり)国弘」がある。 翌年(1578)、大友宗麟は5万の兵で日向に攻め入り、「耳川の戦い(高城の戦い)」で島津軍と戦ったが、宗麟もこの頃には味方の信頼をなくしつつあり、戦闘で統制の取れない大友軍は惨敗した。 、日向の覇者は島津氏にとって代わられ、1579年佐土原城には薩摩17代島津義久の弟家久が入城して日向国を支配した。 そして、天正15年(1587)島津氏は豊臣秀吉の九州征伐の軍に破れるも領土は安堵され、佐土原は家久の嫡子豊久が引き継ぎ、3万石の領主に位置づけられた。 なお、日向を追われた伊藤義祐はその後流浪の生活を送ったが、義祐の三男祐兵(すけたけ)は豊臣秀吉の配下となり、秀吉の山崎の合戦や九州征伐の戦いで活躍し、秀吉より日向飫肥の地を与えられ、旧領に大名として復活した。 この年(1587年)以来、島津氏の日向全域の支配は終わり、日向は分割統治の時代に入った。 |
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佐土原は豊後・薩摩・大隅・肥後へとつながる街道の中心にあり、中世〜江戸時代に日向国の中心地として栄えました。 佐土原と日南を結ぶ飫肥街道、都城からの薩摩街道、えびの小林からの肥後街道、湯前への米良街道などが佐土原城下町に集まり、高鍋・細島・延岡から豊後、豊前へと通じる細島街道に接続し交通の要衝の地でした。 |
両方ともやや後退して先棒の組み合う位置を変えようとしています。差し手争いです。 赤青半々の衣装の人は審判です。 |
赤だんじりが前をやや上げて、左側を下げた体勢で猛然と突っかけていきました。 だんじり喧嘩の最中も中に大人二人が乗って太鼓を打ち続けます。 |
赤だんじりはまだ押し続けています。大うちわを振っていますが思い通りに組めたのでしょうか。 |
お互いに先棒を組み合わせて押し合い、前が浮き上がってきました。 現在はまったく互角の組み手で、どちらが有利な体勢になるかこのあとの動き次第のように思われます。 もし、がっぷり四つに組んで膠着した時は、審判が両者を引き離すよう指示して、再戦となります。三度戦って勝負がつかない時は、その年は引き分けとなりますが、だいたい毎年決着がついているようです。 |
「大光寺楼門」 建武2年(1335年)、田島氏第4代祐聡(すけふさ)が臨済宗東福寺派の大光寺を建立しました。 国指定重要文化財などが宝蔵されています。 また、古月禅師の分骨搭や田島伊東氏の墓、佐土原第5代、第6代藩主の墓などが残されています。 |
「古月禅師分骨搭」 古月禅師は「東の白隠、西の古月」と称されるほどの名僧で、近世禅宗再興の双璧とされています。 佐土原の下賀利村金丸家に生まれ、10歳で禅宗の仏門に入り、修行を重ねました。 宝永元年(1704)藩主島津惟久の命により大光寺42世住職になりました。 禅師の人生訓を歌い込んだ「いろは口説き」が伝承されており、佐土原町の盆踊り唄にもなっています。 |
相手を押し倒そうとして押し合い、先棒がさらに浮き上がってきました。 お互い正面を向き合い、互角の体勢のようです。 このままの組み手で相手を押し倒そうとして押していっても、自分も同じだけ前が浮いていきますので、組み手や角度を変化させないと有利にはなりません。 |
青だんじりが変化に出ました。だんじりを左側へねじって角度を変え、横棒を赤だんじりの横棒の下側に入れようとしています。 赤だんじりはこれを許すと不利になりそうです。後ろに引くか(傾きが大きくなると引くのは難しくなりそうですね)、だんじりをねじって相手の正面を向くようにしないと苦しくなりそうです。 |
赤団にはエビちゃん2世のかわいい、強力な応援団がついているのだ。負けるはずがありません。 (モデルの蛯原友里さんは佐土原町の出身です。(たぶん!)だんじり喧嘩を見て育ちました。) |
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「佐土原人形」 素朴な土人形です。 「鯨ようかん」も有名です。現地でしか食べられないので、幻のお菓子といわれています。 |
わっ、急展開! 青だんじりは、赤だんじりが体勢を立て直すいとまを与えず、地響きを立てながら右に回り、猛然と押しています。まわりは砂ぼこりが舞い上がっています。 |
さらに右に回りながら猛然と押し続け、ついに赤だんじりは横倒しとなって先棒は90度上を向いてしまいました。 こうなるともうどうしようもありません。 |
そのまま押されて赤だんじりはついに屋根も地面についてしまいました。完敗です。 太鼓を叩いていた人はどうなったんでしょうか。横になったまままだ叩き続けていたらその勇気を賞賛します。 だんじりの下敷きになった担ぎ手はいないでしょうね。 (小さな町では担ぎ手が十分集まらない時期もあったと思われますが、危険も伴う「だんじり喧嘩」を大事に守り育てておられるだんじりの関係者の努力は並大抵ではないでしょう。) |
審判が青団の勝利を宣言しました。 青団は完勝、ばんざい、ばんざい。 、 |
佐土原城二の丸を復元した建物(鶴松館)が作られています。 近くの鶴松山の頂上に本丸跡があり、国指定重要文化財に指定されています。平成9年の調査で金箔を張ったしゃちほこが発掘され、天守閣を備えていたことが明らかになりました。 島津氏の城には天守閣がないとされており、天守閣があったのは佐土原城だけのようです。 |
「天昌寺跡」に島津家久公、豊久公の墓碑があります。 佐土原のミニ歴史(4) 日向国のほぼ全域を支配していた伊東氏を「木崎原の戦い(1572年)」で撃破した島津氏は日向に勢力を伸ばした。 天正5年(1577)島津軍は日向に進攻し、いわゆる「伊東くずれ」で佐土原城を基盤にした伊東義祐は豊後の大友宗麟を頼って落ちのび、日向の覇者は島津氏にとって代わられた。 佐土原城には薩摩17代島津義久の弟家久が入城して日向を支配した。 島津氏は次いで「耳川の戦い(1578)」で豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後の六カ国に君臨していた大友宗麟を破り、九州の南半分を支配するに至った。 「沖田畷(なわて)の戦い(1584)」で家久率いる寡兵の島津軍が、五州二島の太守と呼ばれていた龍造寺隆信を破り、九州制覇は目前となった。 このとき全国を統一しつつあった豊臣秀吉が九州を平定するため25万の兵を率いて押し寄せ、秀吉に従わなかった島津氏もついに降伏した(1587)。 島津家久は藤堂高虎の勧告を受け入れ野尻に出頭しで豊臣秀長と会談した後、佐土原城に帰って重態に陥りほどなく急死した。病死とも毒殺ともいわれている。 島津家は従来通り薩摩、大隈の地の支配を許された。 佐土原も島津家久の嫡男豊久が後を継いだ。 文禄、慶長の朝鮮出兵において豊久は伯父の義弘とともに戦い、苦楽をともにした。 豊久は兵略の天才だった父家久の血を受け継ぎ、沈着勇敢で島津氏きっての勇将とも評されている。 |
豊久公菩提寺「天昌寺跡」の案内板。 (島津家久公、豊久公の墓は実家の鹿児島県日置市吹上町にもあります。) 佐土原のミニ歴史(5) 関ケ原の戦い(1600)では島津四兄弟の長男義久は秀吉に制圧されたこともあり出兵を許さなかったが、二男義弘は大坂に人質を取られていたため手勢のみで出兵した。 佐土原城主豊久は叔父義弘の要請に応えて大坂に駆けつけた。義弘は当初徳川方の伏見城に援軍として入城を申し入れたが、家康からその指示を受けていなかった城主鳥居元忠に断られ、島津軍1,500人はやむなく西軍に属した。「それぞれの武将の考えで戦い武名を上げる」という方針であった。 西軍の敗戦濃厚になった後、島津軍は「敵に背中は見せない」と敵軍の中央を突破して退却するという破天荒の作戦を取った。この作戦「島津の退(の)き口」において豊久は乱戦の中で自ら望んで殿軍(しんがり)となって徳川の井伊直政、本多忠勝らの追討軍を防ぎ、義弘の身代わりとなって突撃し烏頭坂で戦死した。義弘は苦難の末にようやく薩摩に生還することができた。薩摩に帰りついた武将はわずか百余人だったという。 義弘は「島津の兵が5千あれば、関が原の戦いは勝ったであろうに…」と悔しがったという。もし5千の兵がいたら戦いの様相はどのようになっていたであろうか。 (戦国時代に佐土原城主であった島津家久、豊久を佐土原島津家の「前島津」と称している。) 関ケ原の戦いの後、島津氏は義久、義弘を中心に徳川家康と粘り強く折衝を続け、従来の土地を安堵された。 佐土原は豊久が跡継ぎがないまま亡くなったため一時は幕府直轄領となったが、1603年に家久の従兄弟の島津以久(もちひさ)に与えられた。以降、佐土原藩は明治維新まで続いた。 (佐土原藩(3万石)初代以久以降の徳川幕府時代の佐土原島津家を「後島津」と称している。) |
左から島津家久公、豊久公、家久公の妻、家久公の母の墓碑。 |
今年は青団の完勝です。相手を仰向けに倒してみごとな勝ちっぷりでした。 |
「青団大勝利」の旗が掲げられました。 一人のけが人もなく、迫力のある戦いは終りました。 |
観客は町の広場を十重二十重に取り囲んでいます。 小さな町には珍しくテレビ局も来ていました。 |
「だんじり喧嘩」開始のサイレンを鳴らすため(?)に待機している消防車は特別観覧席と化しています。子どもは大目にみているところに町の人のやさしさがうかがえます。こういうところが田舎はいいですね。 |
今年のだんじり喧嘩は開始から約30分で決着がつきました。こんなにみごとに決まることは滅多にないでしょう。 |
勝負が終わり、勝ったほうは喜びにひたり、負けた方は悔し涙を流した後、二つのだんじりの引き離しにかかっています。 太鼓も叩き続けています。 太鼓には喧嘩のとき、町を練って進むときなど、数通りの叩き方があります。 |
あまりの見事な負けっぷりに赤団は呆然としています。 |
来年は赤が勝つぞ、と心に期していることでしょう。 |
青団のだんじりが意気揚々と引き上げていきます。 喧嘩のとき以外に町を練り歩く時は、太鼓は子ども4人が乗って叩きます。いつも20人前後の子どもたちがついて歩き、交替で太鼓を叩きます。 (子どもが担ぐ「子どもだんじり」も赤、青それぞれにあります。) |
足取りも軽く青団の地元地区へ引き上げていきます。 担ぐときの掛け声は「サッサイ、サッサイ」です。 |
赤団も気を取り直し、地元地区へ引き上げていきます。 (でも、担ぎ手がバラバラに見えるのは気のせいでしょうか。) |
激しい戦いで息も上がります。地元地区に帰ってまずひと息。 街中を担いで回るときには子供たちが太鼓を叩きます。 |
青団のだんじりが町の中心街で勝利の報告をしています。 |
愛宕神社の夏祭り。町中では地元の太鼓グループ「久峰太鼓」の演舞が行われていました。 日頃鍛えた腕を町民に披露し、祭りを盛り上げています。 |
地元のグループ「日向ひょっとこ踊り」の登場です。 子どもひょっとこも参加しています。 |
町の中心街では盆踊りや子ども綱引きなども行われました。 小さな町の楽しい夏祭りの夜がふけていきます。 |
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(参考文献) 「佐土原土人形の世界」青山幹雄著 鉱脈社 「佐土原城」末永和孝著 鉱脈社 |
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