九州あちこち歴史散歩★八代妙見祭2010・塩屋八幡宮境内(1)             サイトマップ

八代妙見祭2010・塩屋八幡宮境内(1)

   11月23日、熊本県八代市の妙見祭に出かけました。

 妙見祭は江戸時代から370年の歴史を有する祭りです。
 寛永9年(1632)、加藤家に替わって肥後熊本藩主となった細川家は忠興の三男・忠利が熊本城主となり、家督を譲って隠居していた忠興は八代城に入り、北の丸を隠居所としました。
 忠興は妙見宮の復興に尽力し、寛永12年(1635)には神輿を寄進し、自ら天井に龍の絵を描いたそうです。
(忠興は三斎と号し、父の幽斎とともに文武に秀でた武将です。妻はキリシタンのガラシャです。)
 妙見宮の神幸行列は当初は細川家が中心の祭礼だったようですが年々盛んになり、元禄期以降には獅子、奴、傘鉾、亀蛇などがお供するようになって、町衆、百姓衆も参加して天下泰平を楽しむ祭礼に発展してきたそうです。
 神幸行列は1,600人の隊列が約6キロの道を進みます。
 九州三大祭の一つ(他の二つは、長崎諏訪神社のおくんち、博多筥崎宮の放生会)といわれています。

 妙見祭には江戸時代の情緒が残っています。大規模な神幸行列、町ごとの江戸時代に作られた華麗な傘鉾、勇壮な飾馬の馬追い、参道を埋める数百軒の露店の風情などいろいろな楽しみがあります。
秋の一日をたっぷり楽しむことができました。

 祭りの詳細は 熊本県八代市妙見宮大祭(八代妙見祭振興会)公式ホームページ に掲載されています。



八代妙見祭の神幸行列ルート案内図

  場所をわかり易くするため、5個の青丸(A-E)をつけています。
 A:塩屋八幡宮・・お旅所。23日の神幸行列(お上り)の出発地です。馬追いも行われます。
 B:ハーモニーホール・・神幸行列と獅子舞、馬追いなどを見物できます。
 C:八代駅前・・神幸行列と獅子舞、馬追いなどを見物できます。
 D:八代神社・・参拝。出店、神幸行列、獅子舞、亀蛇・傘鉾展示などを見物できます。
 E:砥崎(とさき)の河原・・獅子舞、亀蛇、馬追いなどの演舞を見物できます。

 23日、早朝は霧が出ていましたが、日中は好天気になりました。
 妙見祭は早朝から夕方まで、市内の各所で祭りの行事が催されます。まず、神幸行列の出発地のA地点の塩屋八幡宮に行きました。朝6時半ごろ着きましたが、すでにあちこちから「ホイ、ホイ」の掛け声と共に傘鉾が集まり、また木馬
(きんま)に乗ったかわいい女の子、鉄砲や槍を持った侍などが集合していました。
 なにしろこの祭りの神幸行列には1,600人もの人が参加するのです。
 塩屋八幡宮境内周辺で神幸行列や飾馬の馬追いを見たあと、飾馬について歩き、B地点のハーモニーホール広場で馬追いを楽しみました。
 次に歩いて八代神社(妙見宮)まで行きましたが、塩屋八幡宮から八代神社まで6キロあるそうです。神幸行列で重い物を運んでいる人たちは大変だろうなと実感しました。
 ここで神社の長い列に並んで参拝を済ませ、数百軒も並んだ露店を楽しみ、すぐ近くの宮地小学校のグラウンドに昼の間だけ並べてある亀蛇や9基の傘鉾をゆっくり見物しました。12時ごろ参道で行われた獅子舞を見ました。
 露店でおいしそうなものを探し軽く腹ごしらえした後、人の流れについて12時半ごろ砥崎
の河原に行きましたが、すでに河原は見物人であふれていて、後方の道路の人並みの後ろから眺めました。
 川の中の馬追いの演舞など実に迫力があり、心いくまで楽しめました。



早朝の塩屋八幡宮周辺

   朝7時ごろ、続々と神幸行列に参加する人たちが集まっていました。まるで江戸時代にタイムスリップしたようです。



  塩屋八幡宮に集まる木馬の親子
 
木馬(きんま)に乗った女の子。
 江戸時代には、城下の七五三を迎えた商人の子どもが参加したそうです。



早朝の塩屋八幡宮境内

   お旅所の塩屋八幡宮境内は祭りに参加する人や見物人でいっぱいです。



塩屋八幡宮境内の飾馬

   塩屋八幡宮境内の銀杏の木の下に堂々たる飾馬(かざりうま)がつないでありました。今年は飾馬を奉納する10団体のうち秀岳館高校同窓会が本日早朝のくじ引きで一番くじを引き当て、神馬を奉納するそうです。
 この祭りには大きな飾馬が10頭、ポニーが5頭ほど参加していました。
 飾馬の馬追いは、馬と人との力比べで迫力があり、とても楽しめました。
(飾馬、馬追いについては、それぞれのページもご覧ください。)



塩屋八幡宮で行われる神事

   境内では出発に先立って神事(御旅所発簾祭)が行われています。
 上のテントにある二つの紋は左が「丸に二引両」、右が「細川九曜」です。ともに細川家の紋です。
 九曜紋についてはもともと中央の円が大きな「九曜」を使っていましたが、ある時、似た紋の他の藩の侍と間違われて斬りつけられた事件があり、形を少し変えて(中央の丸を小さくして)「細川九曜」としました。
 九曜紋は細川忠興の代からといわれますが、藤孝(幽斎)の遺品や当時の家の備品にも使われています。
 細川家が再興した妙見宮も九曜紋です。
 祭りにはこの二つの紋(「丸に二引両」と「九曜」紋。九曜紋は「九曜」と「細川九曜」の両方)が使われていました。
「曜」は占いで使う星の意味で、現在使っている日曜、月曜、火曜、水曜・・は、太陽、月、火星、水星・・の意味です。



塩屋八幡宮

  塩屋八幡宮。
 神事の後、神幸行列が7時半に出発します。



   塩屋八幡宮から歩いて数分のところに八代城があります。

 
 
 八代城入口のの説明文のうち、八代城に関する部分です。



   寛永9年(1632)、細川忠利が肥後熊本城54万石の領主として小倉から移封されると、忠利に家督を譲って隠居となっていた忠興は熊本の南の八代城に入り、北の丸を隠居所としました。
 忠興は妙見宮の復興にも力を尽くし、奉納した神輿に自ら筆を取り龍の絵を描いたそうです。妙見祭はこの頃始まりました。八代は城下町として発展しました。

細川忠興のエピソード
 1600年7月、関ケ原の戦いの2か月前、石田三成は上杉討伐のため奥州会津に向かっていた東軍の武将の留守を襲い、妻子を人質に取ろうと武将の屋敷を取り巻いた。
 大坂玉造の細川屋敷には妻のガラシャがいたが、ガラシャは人質になることを拒否し死を選んだ。キリシタンであったガラシャは自ら命を絶つことはできなかったため、留守居役の小笠原少斎に薙刀で胸を突かせた。38歳であった。少斎は屋敷に火を放ち、自分も切腹した。
  ガラシャ辞世の歌
   「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」

 このときガラシャは、屋敷にいた長男忠隆の正室で前田利家の娘の千世や母、侍女たちを逃がし、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、後でこれを知った忠興は怒り、忠隆に千世との離縁を命じた。忠隆は別れないと答え、忠興は忠隆を勘当した。忠隆はこの後京都で暮らした。

(細川ガラシャは明智光秀の三女で、光秀が謀反を起こし主君の織田信長を討った本能寺の変の後は、謀反人の娘として一旦離別され、丹後山中の味土野に2年間(6年間との説もある)幽閉された。この時に侍女を通じてキリシタンに関心を寄せるようになったといわれる。後に秀吉に許されて忠興のもとに帰ることができたが、一歩も屋敷の外に出ることは許されなかった。忠興が九州平定戦に従軍して不在のときに、ガラシャはいいつけを破って外出し、神父に会って教えを聞き、後に洗礼を受けキリシタンになった。忠興は美しいガラシャが人の目に触れるのを嫌ったというが、独占欲が強かったからとも、秀吉に取られるのを恐れたためともいわれる。)

 石田三成挙兵の情報は上杉討伐に向かっていた家康の部隊にも伝わり、武将を集めて会議が開かれた。細川忠興は東軍として石田三成と戦うことをいち早く表明し、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えた。妻が殺されたこともあるが、以前から細川忠興、加藤清正、福島正則などの武断派は三成などの文治派と仲が悪かった。
 その年の3月には忠興ら7名の武断派武将が三成を討ち果たそうとし、三成は敵方である徳川家康の屋敷に逃げ込み、後に居城である佐和山城にて蟄居を余儀なくされるという事件が起きていた。両グループはこれまでずっと犬猿の仲だった。

 1600年9月の関ケ原の戦いでは、細川忠興は東軍の最前線で戦い、石田三成隊と激戦を繰り広げた。敵の勇将島左近や蒲生郷舎(さといえ)の隊に押されることもあったが、小早川秀秋の裏切りによって西軍が崩壊するまで前線を支え戦い抜いた。
 戦いの功績により豊前中津藩40万石を与えられた。

 父・細川藤孝(幽斎)は歌学に通じ「古今和歌集」の秘伝を伝えた。また忠興は茶道の祖・千利休の高弟であり、利休七哲の一人に数えられている。ともに文武に優れた武将だった。
 千利休が秀吉から切腹を命じられたとき、利休にゆかりのある諸大名の中で、後難を恐れず利休の見舞いに行ったのは忠興と古田織部だけだった。

 元和6年(1620)、忠興は家督を三男・忠利に譲って小倉城を守らせ、自分は隠居して中津城に住み、三斎と号した。
(長男は妻の千代をかばって忠興に勘当され、京都に住んでいた(既述)。二男・興秋は三男・忠利が世子(跡継ぎ)となったのに反発して出奔し、大坂の陣(1615)では豊臣方として戦い、自害した。
 有力武将、大大名といえども戦国時代、江戸時代を生き抜くのは大変だったようです。)

 寛永9年(1632)、加藤清正の嗣子・忠広が徳川幕府の外様大名つぶしの策略で改易となり、後任として豊前小倉藩の細川氏が肥後熊本54万石に国替えとなった。忠利が熊本城に入城し、隠居していた忠興は八代城に入った。八代城は薩摩島津藩の押えの要衝としての役目も課せられた。

(細川忠興に関するエピソードは「熊本城の桜」のページにもあります。)



境内を進む花奴

   花奴(はなやっこ)が境内に入ってきました。





塩屋八幡宮境内の亀蛇(ガメ)

   亀蛇(きだ)が登場してきました。亀蛇は地元では「ガメ」と呼ばれ、一番の人気者です。



塩屋八幡宮境内の亀蛇(ガメ)

   亀蛇(ガメ)が立ち上がっています。立ち上がったら高さが5メートルはありそうです。
 歩く時の全長は3メートル、高さ2.5メートル、重さ130キロだそうです。
 中に4人の大人が入って担いで進みます。



八代妙見祭の神幸行列の獅子

   いよいよ神幸行列の出発です。
 先頭は獅子が進みます。この獅子は大きいですね。前面に白い布を下げています。



八代妙見祭の神幸行列の獅子

   次の獅子は角が2本で、左前の衣装が白色です。



八代妙見祭の神幸行列の獅子

   この獅子は右前に黄色い衣装をつけています。



八代妙見祭の獅子舞の玉振りの稚児たち

   獅子舞のグループの玉振り(獅子を操る少年)の稚児たちの行列です。
 美しく着飾っています。昔からのしきたりを継承しているのですね。



八代妙見祭の獅子舞の鉦打ちの子どもたち

  獅子舞の囃子方の子どもたち。
 中国風の衣装、楽器です。



八代妙見祭の神幸行列の花奴

  花奴
 先頭の二人が持っているのは城主の衣装を入れる挟み箱だそうです。



八代妙見祭の神幸行列の木馬に乗った子ども

   かわいい男女の12頭の木馬(きんま)が続きます。
 両親がいっしょについていますが、木馬をつけて6キロ以上歩き、さらに砥崎の河原にも行きます。
 かわいい木馬よ、がんばれよ、と声をかけたくなります。



八代妙見祭の神幸行列の籠の一行

   40人の鉄砲隊、24人の毛槍隊(高校生の奉賛参加です)などの隊列が出発した後、侍に守られ、籠(かご)がやってきました。
 一文字笠がかっこいいですね。
 左側の割烹着スタイルのお母さんもなつかしいです。このスタイルのお母さんたちがたくさん手伝いに来ておられました。



八代妙見祭の神幸行列の籠。幼児が乗っている。

   籠の中にはかわいい稚児が座っていました。(まだ座れない?)



八代妙見祭の神幸行列の笠鉾・菊慈童

   笠鉾「菊慈童」が子供たちに曳かれてやってきました。
 子供たちの衣装は裃です。城主などが係わってきた祭礼の名残りでしょうね。
 この町(宮之町)は他の町よりも由来が古く、傘鉾の先頭を進みますが、どんなに悪天候でも最後まで行列に参加しないといけないそうです。
(笠鉾については「笠鉾」のページもご覧ください。)



八代妙見祭の神幸行列の神馬

   神馬(しんめ)が来ました。聡明そうな馬ですね。
 江戸時代には、神馬は八代城主の愛馬の中から、飾馬も城内の馬から出されていました。
(現在は希望者の奉納によっており、今年の神馬は抽選で秀岳館高校同窓会が奉納したそうです。)



八代妙見祭の神幸行列の阿須波神

  「阿須波神(あすはのかみ)
「1300年前(天武天皇の御世の白鳳9年(680))、妙見の神様がはるか中国(明州の寧波)から亀蛇に乗って海を渡って来られ、八代の海岸に上陸された」という言い伝えがあるそうです。(亀蛇はそれにちなんで江戸時代の昔からお供しているそうです。)
 阿須波神は妙見宮の最初の土着の神様だったのでしょうか。妙見信仰が発展して中世に妙見菩薩が祀られ、明治維新の神仏分離令に際して、妙見菩薩と同じ神とされる天御中主神と国常健命(国常立命)が祀られるようになったようです。(江戸時代までは神仏習合し、神と仏に明確な区別はありませんでした。)
 妙見神は天の中心である北極星(北辰、太一)と北斗七星を神格化したものといわれています。




 

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