7月12日、承天寺の前で六番の山笠を見物し、その後移動して七番山笠、八番山笠を見ました。 舁き山が走り去った後、櫛田神社、川端通り(飾り山笠は二つある)、博多博多リバレイン、中洲と歩いて、それぞれの飾り山を楽しみました。 どこも人出は多く、祭りの雰囲気を十分楽しむことができ、オイサッ、オイサッの元気をもらいました。 |
六番山笠土居流の舁き山笠が登場しました。 舁き山笠の横のきゅうり舁きに1人ついていて、前にきゅうり紋がきれいに見えています。 きゅうり紋といっているが、正確には櫛田神社の神紋の一つである「木瓜(ぼけ)」です。きゅうりの切り口に似ているのできゅうり紋といいます。 なお、祭りの間、博多の人は神紋に似たきゅうりは畏れ多いのでいっさい口にせず、小学校の給食にも出ないそうです。 |
土居流も各町で独自の法被です。この流は法被の下にさらしの腹巻はつけていません。頭に巻いているねじ鉢巻は、どの流も、それぞれ役割によって色やデザインが決まっています。 |
舁き山笠の後ろには「後押し」が付いています。 十数人で6本の棒を強力に押し、舁き山笠の推進力となります。 |
承天寺前の「清道旗」を曲がるところで、「台上がり」が赤い「鉄砲」(指揮棒)を水平に捧げて、住職に挨拶しています。 舁き山笠の後ろを、2、3百人の舁き手がいっしょに走っています。舁き手以外にもいろいろな役割があり、数百人から千人の男が走ります。 手を上げて指を出しているのは、交替の合図です。 土居流は紺の久留米絣が多く、ほとんどは町名がデザインされています。 写真後ろ左側は「片土居町」の「片」、右側は白地に「中土居町」の「土居」の文字、その前の左側は「上新川端町」の「川」、その右側3人は「川口町」の「川口」をそれぞれデザインしたものです。粋で、洗練されたデザインですね。 |
六番山笠・土居流の舁き山笠が走ります。 |
七番山笠大黒流の「先走り」部隊。国体道路を走っています。 先走りの子どもたちは、どの流も百人前後で元気良く走っています。 |
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八番山笠上川端通の「走る飾り山笠」。 櫛田入りを終えて、国体道路を進んでいるが、すでに飾りの上部は途中で縮められています。 (櫛田入りは飾りを全部伸ばし、高さ12メートルの偉容で奉納します。) |
国体道路は6車線あるが、それでも地上に障害物(架線、信号、道路標識、交通量センサー等)があるので、飾り山笠の上半分を縮め、センサーをよけながら進みます。 |
大博通り(10車線)に出ると、また飾りを上に伸ばし、高さ12メートルの堂々たる飾り山笠となります。 上の写真と見比べてください。見えているのは「見送り」(裏)の飾りです。 上部の白髪の老人の部分、その上のお堂の部分、その上の幟(のぼり)が3段階に伸び出しています。 この12メートルの飾り山を担いで走るさまは、実に豪快である。初めてその姿を目にしたとき、私はその迫力に圧倒されました。 ぜひこれからも毎年続けて、みんなを楽しませて欲しいものです。 この流は統一法被で、全員が整然と行進するので、遠くから見ても美しい。 |
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八番山笠、上川端通の「走る山笠」 (左:表「大江山酒呑童子」、右:見送り「助六由縁江戸桜」)。 昭和39年(1964)に川端商店街(上川端通り)が「走る山笠」を復活させました。 博多祇園山笠は、仁治2年(1241)承天寺の聖一国師が、当時流行していた病魔退散のため、町民が担ぐ施餓鬼棚に乗って博多の町を水をまきながら清めてまわったのが起源とされています。 江戸時代から明治中頃までは、各流ごとに造った高さ10〜15メートルの飾り山笠を担いで、町をまわっていたそうです。しかし、明治30年代になると、町内に電線の架線が始まり、昭和40年代にはチンチン電車の架線(地上5メートル)が張りめぐらされ、飾り山笠は通れなくなってしまいました。そのため、飾り山は従来どおり町内に建てたままにして、町なかを舁いて回るために別に高さの低い舁き山笠を造るようになりました。しばらくは飾り山笠の基台部を使って、流でひとつの山笠として扱った時代もあったそうですが、現在は飾り山笠と舁き山笠はまったく別個に作られているそうです。 昔の「走る飾り山笠」を現代に復活させたのが、川端商店街(上川端通り)です。 昭和39年(1964)に八番山笠として、商店街に造っていた飾り山笠を担いで走りました。もっとも、高さが10メートルを越える(現在の上川端通りの飾り山笠は12メートル)ので、上部の飾りを伸縮自在として、道路区間の状況に応じて伸ばしたり、縮めたりしながら進みます。2トンの重さの山笠を、7.2メートルの6本の棒に計40人前後の舁き手(他に4人の鼻取り)がついて舁いていきます。 この八番山笠が櫛田神社の境内に現れるときの迫力は感動もので、見物人は拍手大喝采か、口をあんぐりと開けて見とれているかのどちらかです。 飾りが伸縮するといっても高過ぎて町中は走れないので、追い山笠は櫛田入りと東長寺への奉納を行い、他の七つの流とは異なって、大博通りからすぐ川端商店街に帰ります。 |
川端商店街に帰ってきた「走る飾り山笠」。 この後、飾りの上段をアーケードの天井ぎりぎりまで伸ばして飾ります。 |
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上川端通の長法被姿。 商店街に帰った後、各商店に挨拶にまわっていました。 |
博多総鎮守「櫛田神社」。博多祇園山笠は櫛田神社に奉納される祭りです。 天平宝字元年(757)に建立され、戦国時代に荒廃したが、豊臣秀吉が九州統一を成し遂げた後、博多の町を復興したときに現在の社殿が造営されました。 祭りの間はいつも参拝客でいっぱいです。 境内には、番外の飾り山笠が年中展示されているので、祭りの時期に来れなかった人はここでいつでも見ることができます。また、上川端通りの「走る飾り山笠」は川端通りの店内に飾られています。 |
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左の写真は、櫛田神社境内の「清道旗」とご神木のいちょうです。 追い山のときは「櫛田入り」して、この清道旗を回ります。 右の写真は、櫛田神社のご神木「櫛田の銀杏(ぎんなん)」。 樹齢千年。高さ33m、根回り8m、最大胴回り16m。760余年の山笠の歴史をずっと眺めてきています。 。 この銀杏は「博多祝い唄」にも唄われています。 さても見事な 櫛田の銀杏(ぎなん) 櫛田の銀杏 枝も栄ゆりゃ 葉も繁る エーイーショーエ エーイーショーエー ショーエー ショーエー ションガネー アレワイサソー エサソエー ショーンガネー 銀杏の手前(紅白の幔幕が張ってある小屋)は「太鼓台」で、ここで舁き山笠の櫛田入りのスタートの合図をし、所要時間をはかっています。 |
博多では毎年6月1日から法被姿が見られます。6月は挨拶や打ち合わせなどで、長法被姿です。これは結婚式などや公式行事にも出席することができる正式な服装として認められているそうです。 7月1日からは飾り山笠が公開され、お汐井取りなどの行事が始まり、いよいよ町中を水法被に締め込み姿の博多っ子が闊歩し始めます。 なにしろ誰がどう見ても下半身丸出しの大の大人たちが、百万都市の中心街を15日間大手を振って歩いているのです。しかも博多ではまわりの他の人たちの方が、衣服をつけているのを恥ずかしがっているのです(まさか、そこまでは?)。 昔(江戸時代〜明治中頃)は上半身裸で締め込みだけだったそうです。明治31年に祭りの禁止令が県知事から提案されました。(禁止令は、はだかで野蛮という理由もつけられたが、山笠がそのころ広がり始めた電線や電話の架線を切ったり、祭りを続けると道路に架線できない(都市計画ができない)という理由の方が大きかったと思われます。なにしろ当時は、どの流も高さ15メートル前後の飾り山笠を担いで、町なかを回っていたそうですから。) 結局、山笠の高さを低くして、参加者は上半身は水法被を着ることにして祭りは継続されることになったそうです。(継承されてよかった、よかった。) 子どもたちも、毎日の行事に大人たちにまじって参加し、みんなに与えられた、家庭では経験したこともない仕事を一生懸命果たしながら、そこで社会生活の規律を学んでいるのでしょう。 |
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九番山笠・川端中央商店街の飾り山笠の見送り(裏)は「ドラえもん」 商店街に建てられた飾り山笠の見送りは、子どもに人気のキャラクターものが多い。子どもたちには大人気です。親子でゆっくり見物にきて、大人は表の勇壮な武将もの、子どもは人気キャラクターを楽しめます。 山笠の前にはどこもベンチが何列か置いてあるので、ラムネやお茶を飲みながら一休みできる。 なお、奇数番「差し山」なので、最上部には「大神宮」「櫛田宮」「祇園宮」の三神額がつけられています。 |
十二番山笠・博多リバレインの飾り山笠(表) 「尽忠南風誉蝉本(じんちゅうなんぷうほまれせみもと)」 南北朝時代、九州の地でも壮絶な戦いが繰りひろげられました。 後醍醐天皇の皇子、懐良親王(8歳)を奉じた菊池武光率いる南朝方4万と、少弐頼尚、直資父子が率いる北朝足利勢6万が、筑後川(今の小郡市)で激戦を繰り広げました。双方で10万もの軍勢が戦い、2万6千人が討死にするという大激戦で、懐良親王、菊池武光も負傷し、少弐直資は討死にしました。 戦いは南朝側が勝利し、九州はこのあと10年間南朝側の支配するところとなりました。 飾り山笠はその時の「大原の戦い」(「大保原の戦い」「筑後川の戦い」ともいう)を題材としています。 戦場近辺には菊池武光が戦いの後、川で刀を洗ったという「太刀洗」の地名も残っています。 偶数番「堂山」なので、最上部にはお堂(屋形)がつけられている。 |
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四番山笠・千代流の飾り山(表)は、今年大人気の「天地人」です。 登場人物: 左側の下段:前田慶次郎(馬上)、中段:上杉景勝、上段:上杉謙信(毘の旗の下) 右側の下段(慶次郎の右上)直江兼継(愛の旗の下)、中段:徳川家康、上段(中央):毘沙門天 |
二番山笠・中洲流の飾り山笠(表)は「壇ノ浦凄絶知盛」 右下で大碇を頭上にふりかざしているのが平知盛。その左上が源義経。その右上に平家方の家来がいて、安徳帝を守っています。中央の一番上が、壇ノ浦の藻屑と消えた二位の尼と安徳帝です。 飾り山笠は新聞などの小さな写真ではその迫力がなかなか伝わらないが、実際に足を運んで実物を目の前にすると、そのきらびやかさや迫力に目を奪われる。 置かれたベンチで一休みしながら、夏の夜のひとときを、勇壮豪胆な、あるいは悲劇の武将の有為転変に思いをめぐらすのは、見物に来た人に与えられた大きな楽しみでしょう。 中洲流は今年は二番山笠なので「堂山」です。優雅なものを題材にとり(勇壮な派手なものが見物客に喜ばれるので、その違いは明確でないときも多い)、最上部にはお堂(屋形)が飾られています。 標題板には、町内の子どもが書いたものも飾られています。一番右の標題は3歳の子の筆です。?歳の(結構長い間なんとなく生きておりますが)大人の私よりも数段にうまいではないか。楽しい何時間かの散歩のなかで、唯一落ち込んだ瞬間でした。あ〜あ、私は3歳の子にも負けてる〜。 それにしても、前走りの子どもたちといい、町内の子どもたちをいろんなところで参加させているのはいいなあ。町内に住む(都会の真ん中に住む人は、年々減っていて、祭りを維持していくのはどこも大変らしいが)家族が参加しなくなったら、祭りはだんだん衰微してしまうだろう。博多のこの勇壮な山笠は、これからもずっと盛大に続いて欲しい。 そんな気持ちになったすばらしい飾り山笠でした。 |
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( 参考文献) 「どんたく・山笠・放生会」井上精三、葦書房 「山笠の風」大庭宗一、プランニング秀巧社 「博多祇園山笠きり絵」こにしかずよし、海鳥社 |
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