九州あちこち歴史散歩★柳川市沖端水天宮大祭2013(3) サイトマップ
夕方6時ごろから大衆演劇「劇団勝己」一座の芝居が始まり、舟舞台囃子も夜8時ごろ、子どもから大人のメンバーに替わりました。 それぞれ2、30分ごとに交替しながら演奏、芝居を行い、舟舞台はその度に移動し、爽やかな風を浴びながら夜の10時まで間断なく演技を楽しむことができました。 おとなの舟舞台囃子をお楽しみください。(4分30秒、mp3) (「留(と)まり」の囃子:2分間、三味線のみ:30秒間、「留まり」の囃子:2分間) 掛け声なども飛び交い、和気藹々の雰囲気です。 |
「三神丸」が水天宮の近くにやってきました。 |
おとな(中学生以上)の三味線も演奏のたびにメンバーや場所を交替していたようです。 |
夕方6時から大衆演劇の「劇団勝己」一座の芝居が始まりました。 |
歌や踊りで見物人を楽しませてくれます。 |
踊りや「森の石松」の芝居で観客の拍手を浴びていました。 |
楽しいお芝居が続きます。 |
今度は舟舞台囃子の番です。 お囃子の笛、太鼓もおとなのメンバーになり、さすがに迫力が増してきました。 |
毎年太鼓を叩き続ければ笑顔が出る余裕も出てきます。 |
毎年太鼓を叩き、子どもたちも指導されているのでしょうね。 |
太鼓のことだけに集中する姿勢は子どもの頃から全く変わらないのでしょうね。 精一杯叩いた後はおとなになっても満足感、達成感で満たされることでしょう。 |
近くにある沖端町の氏神「矢留(やどみ)大神宮」です。 祭神は「天照大神」と「六騎(ろっきゅう)」です。 |
「矢留大神宮」の由緒の説明文です。 当時は湿地帯で住む人も少なかったとはいえ、平野部に平家の落人が集落を作って住んできたというのは珍しいケースですね。 (六騎の武士の名前が残っているということは、相当な武将だったのでしょうね。源平時代や戦国時代など落武者の名前などほとんど残っていない場合が多いようです。) また、柳川の人たちが近くに平家の落人が住むのを許したのも心優しく、また度量のいることでした。落人を見つけて役人に知らせない時は、住民も同罪とされ重罪に処せられたので、平家の落人は人が住む所から逃げ続け、九州では五家荘や椎葉など山塊の奥山深くに隠れて住むしかありませんでした。 |
同じ境内に六騎(ろっきゅう)を祀る「六騎神社」も建っていました。 |
沖端の掘割は「御花」(柳川藩主の庭園)の白壁に続いています。 |
柳川のご当地ゆるキャラ「こっぽりー」も登場してきました。 |
「こっぽりー」のまわりには子どもたちがどんどん寄ってきます。 |
勝己竜二座長の登場です。 |
小股の切れ上がった女とは、このような女の人をいうのでしょうか。 男の役者とはとても思えません。 大坂冬の陣の後、大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)(淀殿の乳母、大坂城内で実権を持っていた一人)が折衝のため駿府の徳川家康を訪ねたときに、大坂方で随一のイケメン武将「花の若武者」と謂われた木村重成が女装して局の侍女として同行しました。滞在中、その美女が男であることを徳川方に一度も見破られなかったそうです。 講談の作り話と思っていましたが、写真のような女性が局の後ろにそっと控えていれば、その美女が男だと疑うひとは一人もいませんね。 |
上の2枚の女形はこの若い座長勝己竜二さんのいくつかの顔の一つです。 さすがですね。 |
「劇団勝己」一座のみなさんは、夕方6時から10時まで踊りや芝居で、舟舞台囃子の演奏と交互に祭りの見物人を楽しませてくれました。 座長の勝己竜二さんは久留米出身、18歳の時に座長となって十数年間「劇団勝己」を背負って立ち、九州を中心に大衆演劇の世界でがんばっているそうです。 この日も、舟舞台の浮かぶ堀端は観客でいっぱいでした。 |
舟舞台はお囃子の番です。 太鼓を叩くバチは長さ70センチ、巾1センチの薄い竹ベラなので、大人とはいえ力を込めて叩かないといい音は出ません。 みんな渾身の力で叩いていました。 |
太鼓を睨んで真剣な表情です。 |
子どもの頃から何十年も叩き続けてきた腕の見せどころです。 |
右の太鼓、中央の太鼓、左の太鼓と太鼓バチが自由に飛び交っている感じです。 さすがベテランの味を感じますね。 |
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