九州あちこち歴史散歩★柳川市沖端水天宮大祭2013(1)        サイトマップ

柳川市沖端水天宮大祭2013(1)

   毎年5月3,4,5日には柳川市で沖端(おきのはた)水天宮大祭が行われます。
 私は5月4日の午後に出かけました。

 沖端町の周辺には、御花(柳川藩主の庭園)、北原白秋生家や詩碑、川下りの発着場、うなぎのせいろ蒸しなどのお店があり、掘割の景色を眺めながら散策を楽しむことができました。
 
 夕方になると、掘割を取り巻く夜店にも明かりが入り、川面を吹いてくる爽やかな風をあびながら、お囃子や芝居を楽しむという昔から町や村にあったお祭りの風情が残っていました。

 祭りは2時から夜8時までは子供(小学生)、その後10時までは大人(中高生、大人)によるお囃子があり、6時からは大衆演劇の「劇団勝己」の芝居が加わりました。

  お祭りの内容については沖端町青年部による 沖端水天宮大祭案内 に詳しく説明されています。
  (私も説明を引用させていただきました。)

  子どもたちの「舟舞台囃子」をお楽しみください。(5分12秒、mp3)
  (2分46秒間:「下り」囃子、32秒間:三味線のみ、1分52秒間:「上
(のぼ)り」囃子)



柳川市沖端水天宮鳥居

 柳川市矢留地区にある沖端水天宮は、明治2年(1869)に久留米水天宮から勧請され、同地区にあった稲荷神社、弥剣神社(祇園社)の三社を合祀したもので、地元では「水天宮さん」と呼ばれているそうです。


柳川市沖端水天宮御輿

 水天宮さんのお神輿も鎮座し、多くの人がその下をくぐっていました。
 私も子どものころに、町の愛宕神社のお祭りでお神輿の下をくぐっていたのを、なつかしく思い出しました。


柳川市沖端水天宮

 水天宮の祭神は壇ノ浦の戦いで海に身を投げた安徳天皇。
 水難防止を願い、子どもの守護や、水の恵み、海の恵みにより農業、漁業、安産などにご利益があるとされるそうです。 
 水天宮さんには日中も夜もお参りの列が絶えることがありませんでした。文字通り地元の氏神さまになっているのですね。


柳川市の掘割に浮かぶ舟舞台

 沖端水天宮大祭の呼び物の舟舞台「三神丸」が沖端の掘割に浮かんでいました。


柳川市の掘割に浮かぶ舟舞台

「三神丸」はどんこ舟3隻を2段並べ、計6隻の上に杉材で組まれた大きな船に舞台が組まれています。
 舟は全長17メートル、高さ6メートルの大きさで、組み立てに釘は1本も使っていないそうです。


舟舞台でお囃子を奉納する子ども(小学生)たち

 午後のお囃子を演奏する子どもたちです。
 近くの矢留(やどみ)小学校の児童を中心に練習を続けているそうです。
 


子どもお囃子メンバーのひととき

 午後のお囃子演奏の合間に子どもたちは舟から上がって一休みしていました。
 緊張する演奏の合間の、楽しいおしゃべりのひとときです。


休憩中の子どもお囃子メンバー

 3人でひと休みのところを写真を撮らせてもらいました。
 襟には「沖端舟舞台囃子保存会」と記してあります。


舟舞台囃子の風景

 右舷と左舷に笛を受け持つ子どもたちがそれぞれ7,8人並び、中央正面で太鼓を叩きます。
 笛のメンバーは交替しながら太鼓も受け持っていました。


舟舞台囃子の三味線と笛の演奏風景

 中央の後ろに10人前後の三味線のメンバーが並んでいました。
 小学生で三味線の指使いを覚えるのは大変でしょうね。


舟舞台囃子の笛の演奏風景

 笛の指使いもむずかしい。
(私は右手と左手の指を別々に動かせといわれても…。とても無理です。)
 笛もすべて手作りしているそうです。昔からの祭りをみんなで協力してしっかり伝えていこうとする地元の熱意を感じますね。


沖端の町の観光案内板

 沖端町の周辺には、お花、北原白秋生家や詩碑、川下りのどんこ舟の発着場、うなぎ屋さんや民芸品などのお店が並び、掘割の景色を楽しみながらぶらぶらと散歩することができました。


掘割のすぐ外側の沖端側。現在、干潮です。

 掘割の方から沖端川を眺めると、有明海の干満の様子がよくわかります。
 有明海の干満の差は大きい時には6〜7メートルといわれるので、このあたりでも毎日2回1〜2メートルは水面が動き、現在は干潮ですね。


沖端漁港

 以前はここが沖端の漁港でしたが、最近主力の漁港はもっと下流側に移ったそうです。




沖端川河畔の「なんじゃもんじゃ」の満開の花

 河畔の「なんじゃもんじゃ」(ひとつばたご)の花が満開でした。


沖端川河畔に咲いていた花

 背丈のある花も咲いていました。


沖端川河畔に咲いていた石竹の花。

 河畔にはまた可憐な花が咲いていました。「せきちく(からなでしこ)」のようです。
 「せきちく」と「なでしこ」はナデシコ科ナデシコ属の同じ仲間の花です。

 「なでしこ」は日本古来の花で、万葉集にも歌われています。中国から文字が入ってきたとき、「石竹」や「瞿麦」(種が麦に似ていることから)は日本古来のなでしこのことと理解し、「石竹」「瞿麦」と書いて「なでしこ」と読みました。

 「わが屋前(にわ)の瞿麦(なでしこ)の花盛りなり 手折りて一目見せむ児もがな」(万葉集・大伴家持)
 「秋さらば見つつ思(しの)べと妹(いも)(=恋人)が植ゑし 屋前(にわ)の石竹(なでしこ)(さ)きにけるかも」(同上)
 「雪の島巌(いわ)に植ゑたるなでしこは 千代に開(さ)かぬか君の挿頭(かざし)に」(万葉集・遊行女蒲生娘子)
 「野辺見れば瞿麦(なでしこ)の花咲きにけり 吾が待つ秋は近づくらしも」(万葉集・読み人知らず)

 平安時代の中頃には中国から「石竹」の花が入ってきて「から(唐)なでしこ」と呼ばれ、平安後期には日本の在来種のなでしこは「やまと(大和)なでしこ」と呼ばれるようになりました。

 「草の花は、なでしこ、唐(から)のはさらなり。やまと(大和)のもいとめでたし。」(「枕草子」清少納言)

 中世の「古今集」や「源氏物語」などには、「常夏(とこなつ)」の名前が使われています。
 (当時のなでしこの花期が、初夏から晩秋まで大変長いことから名付けられた。)

 「常夏の花をだに見ば ことなしに過ぐす月日の短かかりなん」(後撰集・読み人知らず)
 「常夏におもひそめては 人知れぬ 心の程は色に見えなん」(後撰集・読み人知らず)
 「時鳥(ほととぎす)鳴きつつ出づるあしびきの やまとなでしこ咲きにけらしも」(「新古今和歌集」大中臣宣朝)
 「かきわけて おれば露こそこぼれけれ 浅茅にまじるなでしこの花」(「山家集」西行)
 「露おもみ園のなでしこいかならん あらく見えつる夕立の空」(同上)

 近世以降には、川原にも多く生えていることから、「かわら(河原)なでしこ」とも呼ばれています。
 (現在の漢字「撫子」は、花が小さく愛らしいことから、撫でるようにして大切に扱う子ども、愛する子の意。)

 「やまとなでしこ」は心優しい日本女性の代名詞として使われるようになりました。


葦が生い茂っている沖端川

 沖端の漁港が下流側に移り、舟の往来が減ったため、川に葦(あし)(よし)が増えたそうです。


舟舞台囃子の風景

 午後は小学生による舟舞台囃子が行われます。


舟舞台囃子の太鼓の演奏風景

 太鼓の叩き方が独特です。
 バチは青竹を割って作った長さ70センチ、巾1センチ、(厚さ5ミリくらい?)の薄いへらの棒で、これで太鼓をひっぱたくのですが、何しろ細い薄い棒なので全力で叩かないと太鼓が鳴りません。全身を使って動作を大きくして、踊るようにして叩く必要があります。
 しかも、竹が長くてしなり離れた太鼓に届くのに時間がかかるので、次から次へと躊躇することなく動作を続けていかないと太鼓が遅れてしまう。
 なんとむずかしい太鼓の打ち方だろう、と感じたが、子どもたちはみごとに全身を使いながら叩いていました。


舟舞台囃子の太鼓の演奏風景

 太鼓は右前に「吊り太鼓」、正面に二つの「締め太鼓」、左前にもう一個の「締め太鼓」が置いてあり、その巾は約2メートルほどあるので、太鼓バチを届かせるためにも全身を躍らせないといけません。


舟舞台囃子の太鼓の演奏風景

 太鼓は膝をついて中腰の姿勢で叩いていました。

(お隣の大牟田の大蛇山の太鼓は、直径7,8センチで長さ20センチくらいの木のかたまり(!)を使って踊りながら太鼓を叩く。こちらでは細く長い竹のへらで太鼓を叩く。ともになんとも叩きにくいやり方である。ともに立花家の兄弟藩だから、足して2で割れば叩き易くなるだろうに、と思うのだが… 
 それぞれ昔からの独特な叩き方を守るのが伝統というものだろう。見るほうも、それぞれ特徴や違いがあるほうが面白いのは事実であるが、叩くほうは大変だ…)


舟舞台囃子の太鼓の演奏風景

 沖端は旧藩時代から長崎、天草との交流の港として栄え、文化経済が盛んだったので、古典的な囃子に異国情緒豊かなオランダ風の調子が混ざり合ったといわれ、この舟舞台囃子は「オランダ囃子」ともいわれるそうです。
 聞いていて楽しいお囃子でした。


舟舞台囃子の太鼓の演奏風景

 子どもたちが一生懸命太鼓を叩き、三味線、笛の音とともに楽しいお囃子が川面を流れます。
 川べりに腰をおろして、お囃子をゆったりと楽しむことができました。



   

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