7月18日、小倉祇園太鼓を見物した。(2009年) この日は午後4時より競演大会が開かれるので、午後2時過ぎに車で会場の小倉城近くに着いた。城内の勝山公園駐車場に向かったが既に満杯であったので、南方面に走って駐車場をやっと探し、小倉の町を眺めながら(繁華街を歩くのは初めてだった)お城に近づいた。お城の周辺で、大会に参加する山車が町なかを曳かれて進んでいる様子を見たり、お城を見たりしながら、競演会場の大手門前広場に着いたのは5時ごろになっていた。競演大会は既に始まっていたので、会場の観覧席手前あたり(山車の競演大会出発地点付近)で見物した。 私は太鼓が好きだ。今日はこの大会と、夜に町のあちこちで演舞される据え太鼓を、思う存分楽しもう。 祭りの詳細は 小倉祇園太鼓の公式ホームページ に掲載されています。 |
太鼓を叩く姿勢にも、グッと前を睨んで気合が入ってます。(田町3丁目の山車) 小倉の祇園太鼓は、山車(だし)の前後に1尺2寸(約36センチ)〜1尺5寸(約45センチ)の太鼓を据え、山車を曳きながら、太鼓を両面から打つ。太鼓を両面から打つのは珍しいそうだ。太鼓打ち2人に、リズムを取るジャンガラ(摺り鉦(すりかね))がついて、太鼓1台は3人で構成されている。太鼓は山車の前後に1台ずつ据えられるので、山車1台に太鼓2台、計6人で叩きながら進む。 |
子供たちも負けずに打ち続ける。(魚町一丁目) 山車の後ろにも太鼓が据えつけてあり、後ろでも3人一組が演舞する。 1台の山車に必ず6人の打ち手が必要となる。(交替要員も当然いる。昼に町内から曳きだして、夜にまた町内に帰り着くまで、休むことなく太鼓は叩き続けられる。人が足りないからといって、片側の太鼓だけ打つのはあり得ないのだ。) 町内ごとに山車を出す。この大会には大人組、少年組、一般組(企業など)の区分で毎年80組余りが参加している。 大きな町内は大人組、少年組の両方に参加するが、住民が少ない町内はどちらかの組で参加する。小さい子供たちも必死で太鼓を叩いていて、ほほえましいシーンに出くわす。こうして伝統が守られていくのだろう。 |
山車は町内ごとにそれぞれ独自の形である。 この古船場三丁目の山車はたくさんの提灯の上に、傘鉾(かさぼこ)がついている。 町によって山車の形が違うので、それを見るのも楽しい。江戸時代から続いているのだろう。 祇園祭りの山車は、明治時代まではもっと大きく豪華なものであったが、明治の終わりごろにチンチン電車が走るようになって、街に架線が張られたため山車は通れなくなり、現在の大きさになったようだ。 |
山車の後ろの3人組。(古船場三丁目) 太鼓には「表」と「裏」がある。 「表」は「カン」ともいい、カン高い軽やかな音を出す。ゆっくり格調をもって、元気いっぱいに、歩調を合わせて打つ。 「裏」は「ドロ」ともいい、やや低い鈍い音を出す。単調、平調でリズミカルに打つ。ベース、伴奏の役割を受け持つ。 二つの打ち方はまったく異なる。 ドロが正しく打たれないと、カンは打ちにくくなる。 ジャンガラ(摺り鉦)は太鼓のリズムをリードする。ジャンガラが指揮者である。ジャンガラは太鼓をマスターした者が受け持つとのことである。 |
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颯爽と、力強く打つ。 (古船場三丁目) 現在は太鼓を打つ撥(ばち)の端を持つ。 昔は撥の真ん中を持って打ったようだ。昔は太鼓を棒に吊るし、棒の前後を人が担いで歩き、それを叩いていた。太鼓がいつも揺れるので、それに合わせて打たなければならず、撥の真ん中を持って弱く打っていたという。明治時代になって、太鼓が山車に据えつけられるようになると、揺れる太鼓を追いかけて叩く必要もなくなり、撥の端を持って強く叩くことができるようになった。また、全身を弾ませながら、踊るように打つことも始められた。こうして「あばれ打ち」も可能になった。(もちろん、基本をマスターしてからのことである。きょうの大会は、歩きながら太鼓を打たないといけないので、あばれ打ちはできない。あばれ打ちは今夜の据え太鼓と、翌日の据え太鼓競演会で楽しめるだろう。) |
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山車が通りすぎていく 向う鉢巻、浴衣に赤いズボン(股引)、長いたすきがおしゃれ。 この町内には、山車の後ろに多くの若い打ち手が控えていた。町内に若い人が多いのだろうが、なんとも頼もしいことだ。(古船場三丁目) 昔は祇園太鼓はみんな浴衣姿だったらしい。 しかし、浴衣は動きまわるとどうしても着くずれしてしまうので、だんだん法被(はっぴ)を着用する組も増えてきた。 見ていると、浴衣組と法被組と半々くらいのようであった。浴衣組も後ろでからげて、下はズボン姿がほとんどであった。 長いたすきも、ズボンの色と同じ場合と、別の色の組合せがあった。 足元は、足袋に草履組と地下足袋組とがあった。子どもたちは地下足袋が多かった。 |
こちらは法被姿に、手に手にのぼりを掲げている。(馬借町六丁目) のぼりを立てて行進するのは珍しい。迫力はあるのだが、片手にのぼりを持って、片手で山車を曳いていくのは大変だろう。 小倉の町名には、中世や江戸時代の城下町の名残がそのまま残っている。よその多くの町では、区画整理などで古くからの由緒ある町名がどんどん消し去られているが、ここは残して欲しいなあ。 |
馬借六の山車は大天狗である。 うしろでは天狗の大団扇であおいでいる。これも腕力がいるなあ。 |
山車には大天狗が鎮座していた。(馬借六) 競演大会場では、太鼓、ジャンガラの打ち方の正統の打ち方の巧拙、曳き手の統率、囃子の元気さ、服装の美しさなど全体にわたって採点され、順位が決まる。 |
さあ、いよいよスタートだ。(鍛治町西) 何ヶ月もかけて準備した山車だ。みんな大きな声で歌うんだよ。 曳き手は囃子唄をうたいながら、引き綱を曳く。声を合わせ、動きを合わせながら曳いていく。 |
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鍛治町西の山車は大提灯。 前の鉦と前後の太鼓の各一人ずつは、ずっと後ずさりで鉦や太鼓を打ちながら、山車といっしょに進まないといけない。これも練習がいるだろうな。 |
祇園太鼓も佳境にはいってきた。(鍛治町西) 何年も鍛えてきたこの撥(ばち)さばきを見てくれ。 |
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ジャンガラが指揮官となり、リズムを刻んでいく。(鍛治町西) 前、後ろの6人は、リズムを合わせ、それぞれの鉦や太鼓の音がお互いに調和するように叩く。ひとりで好き勝手に叩いてもダメなのだ。一人一人が全力を出しながら、6人の調和が取れていないと、まわりで聞いていても魅力のある演奏にはならない。 |
太鼓も鉦も姿が決まっている。(末広一丁目) 練習を何年も積まないと、このような形はなかなかできない。 |
ゆかたの柄が涼しげだ。波模様に祇園の紋と町名が入っている。長たすきも映える。(末広一丁目) |
「アッヤッサ、ヤレヤレ」。大きな声で掛け声をかける。 また、みんなで囃子唄を唄いながら、うちわでリズムを取りながら進む。(古船場一丁目) |
これぞベテランの味。さすがに動きの形が決まって、いいようもなく美しい。阿波踊りの達人にも劣ることのない、無駄のない動きだ。すばらしい。(古船場一丁目) |
うしろの若い三人も、前のベテランに負けずに見事に叩いていた。(古船場一丁目) |
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江南町北の少年組。 太鼓は叩きながら、好きなように舞えるわけではない。正統な打ち方を守っていかないといけない。しかも歩きながら(太鼓の4人のうち2人は後ずさりしながら)打つのはむずかしい。鉦は全身をつかって胸の前で打ち鳴らしながら進む。 |
引き綱につく子どもたち。(米町一丁目) 祭りは子どもたちがいないと盛り上がらない。町内で、親子で参加しているのがいい。子どもたちが大人になれば、また子どもを連れて参加してくれるだろう。いつまでも祭りが続いて欲しい。 |
米町一丁目の山車は神社風である。ちゃんと屋根に反りもついている。 この打ち手も小気味がいい。 |
後ろの3人組もすばらしいパフォーマンスだ。すばらしい。(米町一丁目) 少年組はこの組が準優勝だった。(少年組の優勝は東浅野町。大人組は米町1丁目が優勝した。) 私は駐車場を探すのに時間をくい、この大会の前半の組は残念ながら見ることができなかった。来年はしっかり見させてもらおう。 |
魚一の大人組。落ち着いた動きだが、形が決まっている。打ち込んでいる人の姿はきれいだなあ。(魚町1丁目(銀天街)) |
ゆかたに花笠。おとなの女性はゆかた姿であるが、このスタイルはめずらしい。(魚町二丁目(銀天街)) ゆかたの柄は、祇園太鼓のイラストに魚の文字。イラストの柄はユニークだ。 |
さあ、競演会場に乗り込んでいくぞー。(魚町二丁目(銀天街)) |
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おねえちゃんも、小さい子もいっしょに引き綱を曳く。 おねえちゃんはさすがに、大きな声で囃子唄をうたっている。元気いっぱいでいいぞ。 |
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この山車は龍神が鎮座している。迫力がある。(中央銀座) |
山車がスタートした。曳き手はステップを合わせ、お囃子を大声で唄う。(北山越町) ここはたすきとズボンの色を合わせている。 |
さあ、本番だ、いくぞ。(北山越町)少年組 |
形も決まっている。(北山越町)少年組。 |
後ろも負けずに叩き続ける。美しい。(北山越町)少年組 打ち手で女の子ががんばっていた。出場チーム全体の感じでは、打ち手(ジャンガラも含めて)の半分近くが女性だった。 |
この町内は子どもが多い。頼もしい。(長浜東) 小学生になったら太鼓も叩いてくれよ。 |
いいリズムになってきたぞ。(長浜東) |
後ろも負けずにノっテきたぞ。その調子だ。(長浜東) |
お囃子を大きな声で唄いながら進む。元気がいいぞ。(魚町二丁目(銀天街)) |
曳き手が全員で力を合わせて山車を曳く。太鼓もそれに応えて、全力で打つ。(魚町二丁目(銀天街)) |
後ろも負けずに太鼓に没入する。無我の境だろうか。心から楽しんで打っている。いいなあ。(魚町二丁目(銀天街)) |
小倉城の地には戦国末期に城が築かれていたが、関ケ原の戦いの後入封した細川忠興公が、1602年本格的に築城を開始し、7年をかけて小倉城が完成した。 また忠興公は、住民の無病息災を祈るとともに、城下町繁栄の一つとして元和元年(1617)に祇園社(現在の八坂神社)を建て、京都の祇園祭りを小倉の地に取り入れた。 それから約400年近く、祭りは盛大に続いてきた。祇園太鼓も打たれてきたが、太鼓が現在のように盛んになったのは、戦後のことである。 忠興、忠真両公も、祇園祭りが町の最大の祭りとして続いているのは大いに喜んでいることだろうが、お城の大手門まで夜店に埋めつくされるとは思いもしなかっただろう。 (1632年細川忠興は肥前国に移り、替わって小笠原忠真が入封、以降小笠原家が小倉藩を治めた。なお、小倉城は1866年第二次長州征討に際し焼失、現在の城は1959年外観復興されたものである。) お城の周辺は楽しい夜店の通りと化してきた。 |
小倉城大手門周辺。 城跡は結構広い。いつでも散歩できる。 市内の真ん中に、こんなに広い公園があるのはすばらしいことだ。 |
夜店が並んだお城の大手門を帰りの山車が進んでいく。(香春口第六) この伝統的な黒い法被もいいなあ。 |
夜店の並んだ大手門通りを進む。(香春口六) これから町内に帰り着くまで、山車の引き手も太鼓の叩き手も最後のがんばりだ。町によって、30分から1時間以上かかるだろう。 |
提灯が明るく見えるようになってきた。夕方7時くらいかなあ。(香春口第三町) やがて、夜店の明かりが周囲を照らすようになり、ゆかた姿の夕涼み客が増えてくる。 町のあちこちに太鼓が据えられ、祇園太鼓の据え打ちの音が響き始める。 祭りは夜の部に移っていく。 |
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