端午の節句・飯塚2011(2)浦島太郎人形☆九州あちこち歴史散歩             サイトマップ

端午の節句・飯塚2011(2)浦島太郎人形

   旧伊藤邸の多くの部屋にいろいろな人形が飾られています。
 武者人形をはじめ、浦島太郎、赤穂浪士、大礼服人形など、男児がたくましく育つようにとの願いが込められた多くの人形が並んでいました。





「連獅子」(右)




「連獅子」(左)



 浦島太郎



 浦島太郎
 助けた亀に連れられて、これから龍宮城に出発します。当時は深海調査船「ちきゅう」や有人潜水調査船「しんかい6500」はまだなかったので、このような素朴なスタイルです。しかし、生物が持っている能力はすばらしく、現代の機械文明がまだたどり着けていない龍宮城に行き来することができたのです。




 龍宮城の乙姫様も大歓迎してくれました。
 浦島太郎は龍宮城に1か月だけ滞在したのですが、その間に地上では300年の年月が過ぎていました。




 乙姫様からもらった玉手箱は開けてはいけないと言われていた(これではおみやげにならない?)のですが、ついに開けてしまいました。そしたら、たちどころに、300歳を越すおじいさんになってしまいました。
 千年以上も前に、時空間を行き来する御伽噺が存在したのです。最初にこの話を作り出した人はぶっ飛んだ発想のできる天才ですね。この玉手箱は時空間修正装置だったようです。



 旧伊藤邸にいた別の亀に聞いたところ、浦島太郎を龍宮城に連れて行った亀の孫亀で、龍宮城に行くルートを伝え聞いているとのことだったので、私は泣いて頼み込んで、某月某日、龍宮城に連れて行ってもらう約束をしました。ということは夢物語り・・



 こちらには明治時代の人形が並んでいます。
 (旧伊藤邸に展示されている人形の多くは、飯塚市の人形研究家・瀬下麻美子さんが集められたものです。)













「檜(ひのき)兜}
 この兜や左側の幟(のぼり)などは伊藤家ゆかりのものです。兜や幟には伊藤家の家紋が入っています。





 伊藤家ゆかりの幟なども展示されていました。いかにも端午の節句の雰囲気が漂います。



「いい仕事をしていますねえ。」といった感じで、見とれてしまいます。






 享保14年(1729)、八代将軍徳川吉宗の御世に、なんとゾウが日本旅行をしました。
 このゾウは将軍吉宗が希望してベトナムから長崎に運ばれました。二頭のうちメスは死んでしまいましたが、オスは元気に陸路を江戸を目指して歩き始めました。街道はどこもゾウを一目見ようと人の波です。
 4月下旬、京都では中御門天皇がゾウ見物を所望しました。天皇は無位無官の者には会うことはできませんので、このゾウ君に「従四位」が与えられ宮中に招かれました。城持ち大名クラスの官位です。

(寛永6年(1629)、51歳で無位無官の幕府の女御が強引に天皇に会うため宮中を訪問したことがあります。時の天皇は怒りのあまり退位を表明したほどです。朝廷は会う前に格好をつけるためにあわてて「春日局」の名と官位を与えましたが・・。大奥の実力者、春日局の名はこのときもらったものです。)

 5月に江戸の町に到着し、江戸はゾウの大ブームとなり、市民が押し寄せました。ゾウは浜御殿(浜離宮)で10年あまり飼われました。その後中野村の農民・源助に渡され、見物料を取ってゾウ小屋を始めましたが2,3年後に死んだそうです。



 二階の柳原白蓮の居室です。窓の外に庭園が広がっています。






 白蓮の居室から東を眺めると、すぐ近くに遠賀川が流れています。白蓮のいた時代には、窓から遠賀川を行き交う石炭舟を眺めることができたそうです。現在は数メートルの堤防が築かれ、河川敷がかろうじて見えます。(中央に立っている拡声器の二本の鉄柱の間が遠賀川です。)






 板床の天井。竹を編んで伊藤家の家紋を表現しています。



 右側の上が丸くなっている出入り口が「火灯口」、中央が「にじり口」だそうです。







全5回12年にわたる川中島の戦い。
川中島の戦いで信玄の本陣に風のように上杉謙信が切り込んできて二人は一騎打ちとなり、謙信が三度刀を振り下ろし、武田信玄が軍配団扇で受け止めました。軍配には七つの刀疵が残っていたそうです。



宝船を曳く御所人形


   

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