端午の節句・飯塚2011(1)「江姫と戦国武将たち」☆九州あちこち歴史散歩             サイトマップ

端午の節句・飯塚2011(1)「江姫と戦国武将たち」

   2011年4月9日〜5月23日にわたって旧伊藤伝右衛門邸で五月人形展「江(ごう)姫と戦国武将たち」が開かれました。
 旧伊藤伝右衛門邸の人形展はいつも規模が大きく、大広間で大パノラマが繰り広げられ、歴史ファンにとって楽しい催しとなっています。今回も戦国絵巻をゆっくり楽しむことができました。
 また、柳原白蓮の居間を初め、多くの部屋に飾られる人形も貴重なもの、由緒あるものが多く、筑豊の炭坑王・伊藤伝右衛門や筑紫の女王・柳原白蓮を偲びながら眺める人形もすばらしいものでした。



 今回のテーマは「江姫と戦国武将たち」です。
 どのような戦国絵巻が繰り広げられるのでしょうか。



 20畳の大広間に戦国絵巻の大パノラマが広がっています。



 はたしてこの城はどこの城でしょうか。具体的にどこかの城をイメージしているのでしょうか。
 見物していた人たちは、「小谷(おだに)城だ」、「いや、北ノ庄城だ」と話し合っていましたが、説明員の女性が「城内の家紋を見ると、柴田勝家が守る北ノ庄城です。」と教えてくれました。



 なるほど、お城をよく見ると柴田勝家の「二雁金」が見えます。
 柴田勝家の家紋は「二雁金」や「丸に二雁金」です。

 秀吉の家紋は「五七桐」(「太閤桐)「十六葉菊」「(福島)沢潟(おもだか)」などで、桐紋は主君・信長から拝領しました。後に関白になったときにも菊紋と桐紋を朝廷から下賜されました。

 城のまわりはすべて五七桐の秀吉の軍勢が取り囲んでいます。



 お城から離れたところに三姉妹の姿が見えます。それぞれ母・お市の方の形見を持っているようです。付添いの侍女たちの姿も見えます。
(茶々の乳母である大蔵卿の局(おおくらきょうのつぼね)は浅井三姉妹が生まれ育った小谷城で三姉妹を育て、落城の際も付き従いました。お市の方と柴田勝家との結婚に際して三姉妹とともに北ノ庄城に移り、今回の落城に際しては母のいない三姉妹を守って秀吉の陣に移りました。
 大蔵卿の局は大坂の陣の前には和平交渉の使者となって駿府の徳川家康に会いにも行っています。
 大蔵卿の局の息子の大野治長、治房などの四兄弟は茶々たち三姉妹と苦楽を共にした乳兄弟で、大坂冬の陣、夏の陣では豊臣方の中心となって戦いました。

(豊臣方の権力者となった淀殿(茶々)は、豊臣の天下を再興しようと望むあまり時代の流れが理解できず、豊臣家の滅亡を早めた、との意見もあります。大坂の陣に際しても、乳兄弟で実戦の経験の少ない大野兄弟だけを重用し、真田幸村、長宗我部盛親、毛利勝永、後藤又兵衛、明石全登などの歴戦の勇の武将を使う度量には欠けていたようです。
 もっとも、淀殿は心底では父、母を滅ぼした秀吉を憎んでおり、豊臣家を滅ぼして恨みを晴らしたとのうがった見方もあります。秀頼は秀吉の子ではなく大野治長との間の子である、との噂は当時からありました。)



 天正11年(1583)3月21日、柴田軍は「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」で豊臣秀吉軍に敗北して北ノ庄城に逃げ帰り、23日には秀吉軍に包囲されました。
 23日夜、北ノ庄城では最後の別れの酒宴が開かれ、24日早朝から秀吉軍の総攻撃が始まりました。
 茶々、お初、お江の三姉妹は酒宴が始まる前に城から出され、秀吉側に渡されたようです。(宴の後との説もあります。)三姉妹は二度目の落城を余儀なくされました。しかも今回は母・お市の方はいっしょではありません。お市の方は、織田家の家臣にかかわらず織田家を乗っ取ろうとしている秀吉を憎んでおり、その世話になるのを拒否し、結婚して半年余の柴田勝家とともに自害することを選びました。

 この時、茶々15歳、お初14歳、お江11歳。お市の方37歳、柴田勝家62歳。(年齢は諸説あります。)
(「お江(ごう)」は、「江(ごう)」「小督(おごう)」「お江与(おえよ)」などとも呼ばれています。徳川秀忠との結婚に際し「江は江戸に与える」と言われたことから「お江与」と呼ばれるようになったともいわれています。



 武将たちがぞくぞくと城の攻撃に進んでいます。



勝家とお市の方の辞世の歌
 「夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ山ほととぎす」(柴田勝家)
 「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の 夢路をさそうほととぎすかな」(お市の方)
  (お市の方の歌で「夢路」を「わかれ」とする本もある)



 城のまわりは秀吉の大軍に取り囲まれています。
 「賤ケ岳の戦い」の戦力は、秀吉軍5万、柴田軍2万。大敗した柴田軍は脱落者が相次ぎ、北ノ庄城に帰城したのは数えるほどでした。
 24日早朝からの秀吉軍の総攻撃が始まり、城兵は寡兵にかかわらず最後の力を振り絞って戦いました。城兵は次第に天守閣に追いやられ、夕方4時ごろ自ら城に火をつけ、天守に集まった柴田勝家、お市の方、80人ほどの家臣、12人の側室、30人ほどの女房たちは自害して果てました。



 林立した陣旗の中にたくさんの馬の人形が並んでいます。よく集めたものですね。



 鎧兜姿の武将が歩を進めています。





 若い武将のりりしい姿も見えます。当時は15歳前後になると元服し、戦いがあれば出陣して初陣を務め、その後は一人前の大人としての義務を果たしました。



柴田勝家が本拠とした北ノ庄城は福井駅周辺に築かれていましたが、現在はわずかの遺跡しか残っていません。



 こちらは秀吉の本陣と思われます。



 北ノ庄城は守備軍によって火がかけられ、炎上しています。



 天正11年(1583)4月、「賤ケ岳の戦い」においては1か月あまりにらみ合いが続いていましたが、秀吉は賤ケ岳を離れて大垣に赴き、再び兵を挙げた織田信孝を攻めました。
 4月20日、賤ケ岳で柴田軍の佐久間盛政が秀吉の留守を狙って攻勢に出たのを知ると、秀吉軍は直ちに大垣から木之本まで50キロの道を5時間で駆け抜け、夜のうちに着陣し、佐久間軍を攻めました。油断していた佐久間軍はあわてて退却を始め、同盟軍の前田利家軍は戦わずして戦線を離脱し加賀へ帰陣しました。21日早朝からは秀吉軍の大軍が襲い掛かり、柴田軍は大敗し、北ノ庄城を目指して敗走しました。
 柴田軍を追撃する秀吉軍の先鋒を寝返った前田利家軍が務め、前田利家は後の加賀百万石の基礎を作りました。
 戦国時代、強い方を見極めそちらにつくことが唯一の生き残り法でした。
 (生き残りが唯一の目的ではなく、義を通すことこそ武士の本分なりとして殉じていった武将もいます。)



 賤ケ岳の戦いにおいて、秀吉軍では若武者が活躍し「賤ケ岳の七本槍」と称せられています。
 「賤ケ岳の七本槍」
   福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟屋武則
  (桜井佐吉、石川一光を含めて九本槍でしたが、石川は討死に、桜井は後に病死したので七本槍となりました。)。)

 これらの武将は、秀吉が天下を統一するにつれ、秀吉を支えて活躍するようになります。しかし、関ケ原の戦い、大坂の陣では糟屋以外はずべて結果的に徳川方を助ける働きをすることになります。豊臣方より徳川方が戦略的に勝っていたということでしょうか。

 



 秀吉の本陣と思われます。
 秀吉が豊臣の姓をもらうのはこの戦いの4年後なので、この時は羽柴秀吉です。苗字の「羽」は丹羽長秀、「柴」は柴田勝家の両先輩武将にもらったものです。
 賤ケ岳の戦いで当面の最大の敵を破った秀吉は、天下統一に大きく近づくことになりました。
 しかし、天下統一を果たした秀吉はまわりを信用することができなくなり、太閤位を譲っていた豊臣秀次を切腹、その家族数十人を磔の刑に処するなど常軌を逸する行動を取るようになり、信望を失っていきます。



 端午の節句は、武士の世になって、菖蒲湯に使う菖蒲が「尚武」に通じることから、男の子の節句となりました。



 城のまわりは数万の秀吉軍が取り巻いています。



 秀吉軍は北ノ庄城が炎上するのを眺めています。



 城のまわりでは激しい戦いが続いたようです。



 柴田軍は武運つたなく敗れ去りました。



 秀吉軍に渡されて生き残った浅井三姉妹は、これからも戦国時代の荒波にもまれ、やがて豊臣、徳川の敵味方に分かれて生きていくことになります。
 32年後、大坂の冬の陣(1614)・夏の陣(1615)では淀殿の率いる豊臣方、家康やお江の夫・二代将軍秀忠の率いる徳川方が直接対決し、二女のお初が姉妹を救おうとして両者間の和平役を務めることになります。しかし、その努力も空しく、淀殿は生涯で3回目の落城を喫し息子の秀頼とともに自刃に追い込まれ、豊臣家は滅亡する運命をたどることになります。


   

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