九州あちこち歴史散歩★吉野ヶ里歴史公園(2)                   サイトマップ

吉野ヶ里歴史公園(2)

  女王卑弥呼がいた邪馬台国はどこにあるのでしょうか。

古墳時代から見ると、その幕開けを告げる前方後円墳や三角縁神獣鏡を初めとして、近畿地方が広い範囲で求心性を発揮しています。
一方で弥生時代から見ると、お墓での埋葬にあたり朱で赤く塗る重要な風習は九州北部ではるか以前から行われていました。また技術力や生産力を高める源の「鉄」については九州が近畿を質量ともに圧倒的に上回り、先進性を示す遺物が多数出土しています。

卑弥呼のいた邪馬台国は、弥生時代から古墳時代に移りゆく時期にあたります。
あなたは邪馬台国九州説派ですか?、それとも邪馬台国近畿説派ですか?



「北内郭」
 吉野ヶ里のまつりごとを行う中心部。
 二重の城柵に囲まれています。




   「北内郭」の説明板



この城柵の中にまた城柵がめぐらされています。



「北内郭」の宮室(宮殿)
 最大の建物で、ここでクニのまつりごとが行われたと考えられています。



発掘当時の状況を示す説明板



宮室の上の階
はたしてこの建物に卑弥呼がいたのでしょうか。

「その国、本(もと)また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。鬼道に事(つた)え、能(よ)く衆を惑わす。年巳(すで)に長大なるも、夫婿(ふせい)なく、男弟あり、佐(たす)けて国を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍(はべら)せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。」(魏志倭人伝)



大広間では各ムラの長が集まって会議が行われていました。
話を聞いても、しゃべっている当時の言葉は全くわからないでしょうね。



何を決めているのでしょうか。



「北墳丘墓」の説明板



「北墳丘墓」
 吉野ヶ里を治めていた歴代の王の墓。南北40メートル、東西27メートルの長方形に近い形。
 埋葬時期は弥生時代中期前半から中頃(2200〜2100年前)





この墳丘墓から14基の甕棺が発掘され、いった埋め戻されましたが、平成20年に再び発掘当時の状況が公開され、本物の遺構や甕棺を見ることができます。

平成元年には「邪馬台国の出現か?」と騒がれ、北墳丘墓の大型甕棺から有柄銅剣やガラス製管玉が出土したときには、3ヶ月間で100万人の人が押し寄せる大フィーバーとなりました。



北内郭の北側にある「甕棺墓列(かめかんぼれつ)
一般の人々の墓地と考えられています。



「甕棺墓列」
甕棺(かめかん)に入れて埋葬されています。
3,100基の甕棺墓が発掘されています。



「倉と市」
 倉庫群。クニの交易の中心地で、市も開かれていたようです。
 縄文時代の終わり頃にはイネの栽培が始まり、弥生時代には広がっていたといわれるので、イネ、アワ、ヒエや木の実などを貯蔵していたのでしょうか。
 温暖で、川もあり、稲作には最適な地だったのではないでしょうか。



「南のムラ」
 一般の人々の居住地。



日本ではススキは大昔から茂っていたのでしょうか。



とにかく防御は思っていた以上に厳重でした。
必死でクニを守ったのでしょうね。



あちこちに楼閣(物見櫓)が建っています。



「南のムラ」
あちこちで復元されている弥生時代の住居よりひとまわり大きい印象でした。



園内では白い花、赤い花のソバが栽培されていました。
ソバの種も出土しており、ソバも栽培されていたようです。



白いソバの花



発掘された舟
丸太をくりぬいて作られています。


   
  (参考文献)
「邪馬台国 九州と近畿」大阪府立弥生文化博物館、九州国立博物館
   

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