九州あちこち歴史散歩★吉野ヶ里歴史公園(1)                   サイトマップ

吉野ヶ里歴史公園(1)

   2010年10月下旬、弥生時代の空気に触れてみたくなり訪れました。
 吉野ヶ里歴史公園は弥生時代の遺跡です。
 見学は30分コース、1時間コース、2時間コースなど自分で自由に散策できます。
 私は、園内で「よみがえる邪馬台国」の特別企画展も開催されていたので、係員の説明を聞いたりしながらゆっくり過ごし、3時間半ほど歩き回って弥生時代を楽しみました。

 弥生時代は約700年続きました。吉野ヶ里は遺跡は、この長い弥生時代の全ての時期の遺構・遺物が発見された学術的価値の高い遺跡です。
 集落が最盛期を迎える「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)を復元整備対象時期として、これまでの発掘調査をもとに復元整備を行っています。
(吉野ヶ里歴史公園のリーフレットより)

 公園利用料金は 大人(15歳以上)400円、小人(小・中学生)80円、シルバー(65歳以上)200円。
  (他に、団体料金、年間パスポート料金があります。)
 駐車場は東口駐車場(650台)、西口駐車場(340台)があり、駐車料金は普通車300円です。
 休園日は12月31日、1月の第3月曜日及びその翌日。

  詳しい情報は 吉野ヶ里歴史公園 のHPに掲載されています。



吉野ヶ里歴史公園入口
駐車場を降りたら、すぐ弥生時代を思わせるすぐ森の中に分け入って行くのかと想像していたら、モダンなエントランスが迎えてくれました。



入口ではひみかちゃんがお出迎えです。



早速、弥生時代にタイムトリップできる風景が現れました。

【弥生時代の概観】
弥生時代前期(紀元前5〜紀元前2世紀)
 吉野ヶ里の丘陵一帯に分散的に「ムラ」が発生してきます。
 やがて南側の一画には環濠をもった集落が出現し、「ムラ」から「クニ」の中心集落へと発展する兆しが見えてきます。

弥生時代中期(紀元前2〜紀元1世紀)
 丘陵の南側を一周する大きな外環濠が掘られます。
 首長を葬る「墳丘墓」や、たくさんの「甕棺墓列」も見られます。
 集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから「争い」が激しくなってきたことがうかがえます。

弥生時代後期(紀元1〜3世紀)
 国内最大級の環濠集落へと発展し、大規模なV字形の外環濠によって囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭、南内郭)を持つようになります。
 これらの内郭には、祭殿や物見櫓などの大型の建物が登場し、吉野ヶ里の最盛期にあたります。

 女王卑弥呼のいた邪馬台国かと騒がれましたが、現在のところ直接それを示すものは発掘されていません。

卑弥呼に関連するできごと(魏志倭人伝)
 184年 倭の小国同士で争いが起き、後に邪馬台国の卑弥呼が共立されて王となる
 239年 倭国女王卑弥呼が魏へ朝貢を行う(魏の景初3年)
     道鏡100枚、「親魏倭王」の金印を賜る
 248年 卑弥呼が亡くなる。男王が後を継ぐが反乱が起きて国が荒れ、千余人が死んだ。
     卑弥呼の宗女台与(とよ)(壱与(いよ))が女王になり乱が収まった。
 266年 台与(壱与)?が西晋へ朝貢

なお、邪馬台(ヤマタイ)国は魏志倭人伝に記載されたとおり邪馬壱(ヤマイチ)国と読むのが正しいとする説もあります。



園内にはあちこちに草花が咲いていました。



弥生時代にも草花が咲き誇っていたことでしょう。



すぐ北側に東背振ICがあり、車で5分です。まっすぐ南下したところに東駐車場があります。
JR神崎駅とJR吉野ヶ里公園駅から歩いて15分です。
上記地図内に9ヶ所の遺跡があり、地図外にもJR吉野ヶ里公園駅の東側に目達原桜馬場遺跡があり、この周辺には遺跡が集中しています。



園内は自分の都合に合わせて、自由に歩き回ることができます。
それぞれの区域には説明員がいて、こちらの空想や願望というべき質問にも丁寧に説明していただきました。



「天の浮橋」を通って弥生時代にタイムスリップします。





ムラを取り巻く環濠と城柵
公園の全域にわたって城柵がめぐらされています。



南のムラへの入口
鳥の飾りは実際に発掘されているそうです。ムラを守る呪いの意味もあるのでしょうね。



「南内郭」
 楼観(物見櫓)が建っています。



「南内郭」入口



「南内郭」
 この中に王や支配者層が住んでいたようです。



王たちが住んでいたと考えられる住居



住居の屋根の裏側



「南内郭」の大きな建物です。
 集会や団欒の場所だったのでしょうか。



「南内郭」の住居群
 北側には背振山脈が連なっています。
 吉野ヶ里の集落には、甕棺の数などから推測しておよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたようです。魏志倭人伝の邪馬台国の戸数「7万戸」には及びませんが、日本有数の大規模集落です。周辺の背振山南麓には、三津永田遺跡、目達原桜場遺跡、二塚山遺跡、大塚古墳など遺跡が多く、「7万戸」に符合する可能性も秘めています。



「中のムラ」
 あちこちに復元された住居が建てられています。



重要な一画は環濠と城柵に囲まれています。
魏志倭人伝の「(邪馬台国は)……辞を伝え居処に出入す。宮室、楼観、城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。」に記されている居処、宮室、楼観(物見櫓と考えられている)、城柵のすべてが発掘されています。



公園内には数十棟の建物が復元されています。


   
  (参考文献)
「邪馬台国 九州と近畿」大阪府立弥生文化博物館、九州国立博物館
   

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