有田町は数百軒の窯元が山と山に挟まれた地区に集まっているやきもの町です。家族でやっている窯元が多いが、柿右衛門窯、今右衛門窯、深川製磁、香蘭社などのように全国に知られた大手窯元もあります。 毎年4月29日から5月5日のゴールデンウィークの期間は「有田陶器市」が開かれます。明治29年に品評会が始まり、それに併せて蔵ざらえ大売出しが行われ、それが陶器市となり今回で第108回になるそうです。(11月下旬には「秋の有田陶磁器まつり」が開かれます。)「陶器の有田」の名は全国に広まり、陶器市にはふだんは静かな人口2万人のやきものの里に、全国から100万人の観光客が集まる大人気イベントになっています。 小さな町に多くの観光客が押し寄せますので、車が渋滞し、駐車場も満杯という日が多いと聞いていましたので、私は連休の中で平日になっている2日の午後に出かけました。早朝に着くことも考えましたが、午前の組が引きあげる頃にゆっくり行くことにしました。狙いは運良く当って有田町の中心街近くまでスムーズに走れました。(混む時は西九州自動車道の「波佐見有田インター」から渋滞が起きるときもあるようです。) 中心街は歩行者天国になっていましたので、上有田駅の東北の泉山磁石場近くの市営の駐車場に止めました。(駐車場の案内は下記ホームページに掲載されています。) 有田駅周辺までは少し距離がありますが、有田のやきものの発祥を訪ねるには適当な場所でした。 陶器市の会場や駐車場で横幅1メートルにもなる折りたたみ式の詳しい地図がもらえました。 祭りの詳細は 「有田陶器市へようこそ!」 に掲載されています。 |
有田町の概略地図です。陶器市は「有田」駅から「上有田」駅周辺を結ぶ道路(鉄道の北側の道路、有田駅周辺は駅の南側)を中心に約4キロにわたっておよそ550店が並び、店内や店頭に高級品から実用品までのあらゆる陶器、磁器の商品が並べられています。 有田駅周辺が中心街になりますが、上有田駅周辺までやきものの店が途切れることなく並んでいます。 上有田駅周辺には「泉山磁石場」「石場神社」「トンバイ塀」「陶山神社」「陶祖平参平の碑」など有田焼の歴史を偲べるスポットがあります。 また、町内に10か所前後の美術館、陳列館があり、世界に名高い有田焼(伊万里焼とも呼ばれる)の名品に触れることができます。ありがたいことに多くは入場無料です。いつでも有田の町を訪れ、「有田駅前やきもの散歩道」など(他にもお店はたくさんあります)で買い物を楽しみ、いくつかの美術館、陳列館をまわると、心が満たされる一日を過ごすことができることでしょう。(心は満たされますが、懐は寂しくなるかもしれません。気に入った花器や食器などが欲しくなります。しかしいいものを買って毎日が楽しくなれば十分納得できますね。) 有田焼は近くの伊万里港から積み出されていたので伊万里焼とも呼ばれています。中世ヨーロッパの王侯貴族がこぞって伊万里焼を欲しがり、有名なマイセンの窯でもこれらの日本の磁器を模倣するほどでした。 (上記地図は「有田町観光ガイドブック 有田スタイル」発行元:有田観光情報センター より転載しました。) |
「先人陶工の碑」 400年にわたって有田焼の発展を支えてきた陶工たちに感謝するために1966年に建立されました。 トンバイを使って登り窯をイメージして作られています。 |
「李参平発見磁鉱地の碑」 李参平が磁器の原料となる良質の白磁鉱を1616年有田(当時は田中村)の地で発見し、日本初の磁器を焼き始めました。 ここが有田焼の原点です。 |
![]() |
「泉山磁石場」の説明板 磁器の焼き物で作られた説明板です。 |
「泉山磁石場」 磁器の原料となる良質な白磁鉱です。ひとつの山が掘り尽くされたようです。 |
「泉山磁石場」 今はほとんど掘られていないそうです。(少量はまだ掘っているらしい。) 現在、原料の磁石は主に天草で採掘しているそうで、そこが尽きてもオーストラリアに豊富な原料があるそうです。 希少金属(レアメタル)は中国に生殺与奪の権を握られていますが、こちらは原料の心配は無用です。 しかし、電気製品、半導体などと同様に、焼き物の分野でも実用品から始まって高級品に至るまで、中国、韓国などの商品が押し寄せているようです。商品の売上げも作れば売れた最盛期の半分以下になっているようです。今後はこれまでにも増してスキル、センスの勝負になりますね。 |
裏通りに入るとどこに行ってもこのようななつかしい鄙びた風景が続くやきものの里です。 |
まわりは緑がいっぱいです。もみじも多かった。 |
石場神社境内の百日紅(さるすべり)の木 |
「石場神社」 泉山磁石場の山の神を祀っています。 |
「李参平の磁器製坐像」 豊臣秀吉は九州を平定し、関東の北条氏を攻め滅ぼし、天下統一を成し遂げると、明に攻め入るために朝鮮に出兵しました。(文禄の役(1592-1596)・慶長の役(1597-1598)) 7年間に及ぶ戦いは、最後は秀吉が「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」といって亡くなり、日本の苦しい戦いは幕を閉じました。 出兵した各藩は、このとき朝鮮人の捕虜のうちからかなりの人数の陶工を日本に連れ帰り、各地で焼き物を作らせました。 (戦国時代、国内では茶道が発展しましたが、このとき使われた茶器の名物の多くは中国で作られた「唐物」でした。朝鮮も当時焼き物の技術は日本より進んでいました。) 佐賀藩主鍋島直茂が連れ帰った陶工の李参平は藩内で陶土を探しながら焼き物を作っていましたが、やがて1616年有田町の泉山で良質の白磁鉱(磁器原料)を発見し、ここに窯を構え、日本初の磁器を誕生させました。有田磁器の基礎が築かれ、有田焼はその後大いに発展していきました。 (泉山の白磁鉱はもっと前に発見され、磁器が作られたのも1610年代前半という最近の学術調査結果が出されていますが、有田町としては従来からの1616年として今年で有田焼創業395年、ヨーロッパ輸出352年としています。もうすぐ創業400年になるのですね。 また、国内で有田焼以外で磁器が生産されるのは江戸後期になってからです。佐賀(鍋島)藩では磁器の焼き方の秘密を守るために職人を外部から厳重に隔離し、職人は一生外に出ることはできませんでした。しかし、ついにある陶工が潜入に成功、製磁の技術を習得し、他の窯にも広まったそうです。それでも約200年間は磁器を焼く技術が守られたことになります。) 有田の磁器はそのすぐれた品質を認められ、1659年から東インド会社を通じて大量にヨーロッパに輸出されるようになり、初代柿右衛門が始めたとされる赤を主調にした色絵磁器はヨーロッパの王侯貴族の間で人気を博しました。 |
![]() |
「有田の大いちょう(銀杏、公孫樹)」 泉山弁財天社の境内にある樹齢千年の大いちょうです。千年前の平安時代、紫式部が源氏物語を作った頃に芽を出したのですね。 根回り約18メートル、幹回り11.6メートル、高さ40メートル。1926年に国指定天然記念物となっています。 有田町の町木は「いちょう」となっています。 |
![]() |
高さ40メートルもあり、上に高く伸びています。 実はつけないが、秋にはみごとな黄色になるそうです。他のいちょうの木の百倍くらいの葉っぱが落ちてきて、一面が金色に輝くのではないでしょうか。毎朝の落ち葉掃除は大変でしょうね。 |
幹には千年の風雪に耐えた貫禄があります。 |
泉山の弁財天社境内 ここには佐賀藩の「口屋番所」が設けられて役人が常駐し、陶石や焼き物の持ち出しなどを厳しく取り締まっていたそうです。 |
子どもの養育を願って弁財天が祀られていたようです。 |
トンバイ塀 大いちょうのある弁財天社から南に向かって裏通りを進むと、いかにもやきものの里有田を象徴するトンバイ塀をあちこちに見ることができます。 |
![]() |
トンバイ塀の説明板 |
壊した窯のレンガなどを使っているのですね。 |
塀は新しく作られたもののようですが、使われている耐火れんがは年期を経たものなので趣が感じられます。 |
町の裏通りの風景に溶け込んでいます。江戸時代からこのような路地を陶工やその家族たちが行き交ったのですね。 |
表通りを上有田駅から有田駅の方に進んでいきました。両側にはずっとやきものの店が並んでいます。 |
店頭には磁器のやきものや飾りのプレートが並んでいます。 |
観光客の皆さんも気に入った焼き物を見つけるためには歩き回らないといけません。お日様の紫外線にも負けないように気を配り、また、重たい戦利品を持ち帰るために帽子やリュック、大きなバッグを準備されています。買う気満々です。軍手もあったほうがいいです。(こういう時は誰も肩の痛みなどはすっかり忘れています。) |
それぞれの店頭には実用品やお買い得の焼き物が並んでいます。店内には高級な商品も並んでいます。 観光客の皆さんは店の中にぶらりと入り、自分の気に入る商品を探しています。 (お店ややきものの写真は店頭や実用品しか写していませんが、店内には百円の実用品から数億円の高級品までいくらでも並んでいます。) |
有田駅まであと3キロの地点(トンバイベイ通り周辺)です。町の中心に進むほど観光客も増えてきました。 |
ほとんどの店が歴史を感じさせる建物です。まるで明治か大正時代にタイムスリップしたかのようで心が和みます。 |
![]() |
![]() |