九州あちこち歴史散歩★和華蘭文化の港町・長崎 サイトマップ
長崎は北、東、南を山に囲まれ、西側だけが海となって開けている港町です。 中世以前は寂しい一漁村でしたが、永禄12年(1569)ポルトガル船が停泊し、元亀2年(1571)にキリシタン大名の大村純忠が海外貿易所をこの地に設けてから次第に栄えました。鎖国時代はわが国唯一の海外交易地となり、和(日本)、華(中国)、蘭(オランダ=西洋)の文化が交じり合い、独自の風情を持つ街に発展してきました。 長崎の歴史では、鎖国時代唯一の海外への窓口だった出島、蘭学、キリシタン弾圧、坂本龍馬の「亀山社中」、原爆被害などを忘れるわけにはいきません。 祭りではなんといっても「長崎くんち」が有名で、長崎の和華蘭文化をよく表現している楽しい祭りです。 また、お盆の「精霊流し」も長崎独特の雰囲気を持った行事です。 |
原爆が投下された一帯は平和公園になっています。 休日や夏休みには家族連れで訪問する人たちの姿も多く見かけられます。 家族がいっしょに生活できるこの幸せを再び戦争で失ってはなりません。 昭和20年(1945)8月9日11時2分に長崎上空に原爆が落とされ、市民の多くが犠牲となりました。 原爆による死者 約7万4千人 〃 負傷者 約7万5千人 当時の長崎市人口 約24万人 一瞬のうちに、実に人口の6割以上が死傷するという悲惨な情景が現実に起こりました。 |
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浦上天主堂遺壁(移築) 爆心地には、近く(東北に500メートル)にあって原爆で崩壊した浦上天主堂の壁の一部が移築され、残されています。 |
爆心地の案内板 原爆の被害の状況は「長崎原爆資料館」に展示されています。 胸が押しつぶされそうになるほどの悲惨さです。 平和の尊さ、戦争を二度と起こしてはならないことがよくわかります。 |
浦上天主堂(昭和34年(1959)再建) 戦国時代にポルトガル船が訪れ、また多くの宣教師がやってきた長崎はキリスト教が広まりました。領主有馬晴信は沖田畷(おきたなわて)の戦い(有馬・島津連合軍が龍造寺隆信を撃破)で勝利したのを喜び、1584年に浦上の地をイエズス会に寄進し、浦上はキリシタンの村となりました。 日本をほぼ統一した豊臣秀吉は、長崎の数か所の土地が教会に寄進されているのを知り、1587年伴天連追放令を発布して、それらの土地を直轄領としました。 徳川幕府もこれを踏襲し、浦上地区を幕府直轄の天領とし、全国でキリシタン弾圧を強めていきました。 それ以降のキリシタンへの火責め、水攻めなどの迫害はたびたび語られますが、江戸時代でキリシタンの犠牲者は28万人にのぼるともいわれています。 明治維新後も、神道によって国の統一を計ろうとする明治新政府はキリシタンへの弾圧を継続し、明治元年(1868)4月には浦上村の全住民3,400人の信徒は逮捕され、名古屋以西の21藩に総流配されました。そこでも転宗の拷問などが続き、明治6年(1873)ようやくキリシタン禁制が解かれ、信教の自由が認められて浦上の地に生きて戻れたのは1,900人でした。 明治28年(1895)信徒たちは大聖堂の建設を始め、19年かかって大正3年(1914)完成しました。 昭和20年(1945)8月9日 原爆投下 爆心地となった浦上天主堂は崩壊、礼拝していた数十人は即死。浦上地区では12,000人の信徒のうち8,500人が被爆死したといいます。 戦後は日本の経済成長のもとでこのあたりも商店街や住宅地の開発が進み、大きく発展してきました。 |
原爆で無残に焼かれ、黒こげになった天使像が教会の庭園に置かれています。 原爆で崩壊し廃墟と化した浦上天主堂は、人類の愚かさへの戒めとして、また人の命の大事さを教えるモニュメントとして後世に残しておいて欲しかったのですが、当時の市長はアメリカとの友好の邪魔になるとの理由で全面撤去したそうです。人類の将来のために残しておくことと、アメリカとの友好とは次元の違う話と思うのですが・・ (「長崎原爆資料館」にも多くのアメリカ人が見学に訪れています。) |
諏訪神社 長崎の氏神さま「諏訪神社」です。「長崎くんち」はこの神社の秋の例祭です。 戦国時代、貿易の利権を狙う領主有馬晴信によって天正8年(1580)に長崎と茂木が、天正12年(1584)には浦上がイエズス会に寄進され、キリシタンの支配する地域となって貿易船も入るようになり、町も少しずつ大きくなっていきました。 しかし、領土まで寄進されている状況に驚いた豊臣秀吉が天正15年(1587)にこれらの土地を没収しました。(キリスト教と、イエズス会の背後にいたポルトガルはこの後だんだん警戒されるようになり、代りにオランダが貿易の相手に登場するようになります。) 1624年イスパニア(現在のスペイン)船来航禁止、1639年ポルトガル船来航禁止。寛永18年(1641)にオランダ商館が平戸から長崎出島に移され、長崎は大きく発展していきました。 なお、当初から中国との通商も認められていました。 (オランダはキリスト教新教を信奉していましたが、貿易中心で宗教を前面に押し出すことはありませんでした。) 荒廃していた諏訪神社は寛永2年(1625)に再興され、慶安4年(1651)に現在の地に遷りました(慶安元年(1648)幕府より土地の寄進を受けた)。 くんちの祭りは寛永11年(1634)に始まったとされていますが、当時のキリシタン対策もあって、奉行所(幕府)も後押ししたようです。 |
諏訪神社から眺めた長崎の町 坂の町ですね。 |
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「亀山社中跡」への細い坂道にはあちこちに手作りの案内板が取り付けてありました。(龍馬ファンの皆さんが手弁当で整備しているようです。) 近藤長次郎さんが案内しています。 |
亀山社中跡 現在この建物は、「長崎市亀山社中記念館」として常時公開されています。 (9時〜17時公開、休館日なし。最新の状況はご確認ください。) |
亀山社中跡付近からの市内の眺め 当時は市内にこのような建物はなく、またこの風頭山周辺も辺鄙な場所だったと思われます。 坂本龍馬らは、中心街から離れたところに活動拠点を置き、いつもこの坂の上から世界に通じる長崎の海を眺めていたことでしょう。 |
興福寺(あか寺、南京寺) 日本最古の黄檗宗寺院で、元和6年(1620)に中国僧真円が航海安全を願って小庵を作ったのが始まりです。 当時は国際都市長崎の市民の6人に1人は中国人で、キリシタンでないことを明らかにするためにも出身地ごとに唐寺を建てたそうです。 |
興福寺の大雄宝殿(本堂)。重要文化財。 日本黄檗宗の開祖隠元禅師は中国から承応3年(1654)に長崎に渡来、興福寺の住職として滞在しました。 隠元禅師はその後、寛文元年(1661)、京都の宇治に故郷黄檗(おうばく)山の山号寺号にちなんだ同じ名の黄檗宗大本山万福寺を開山しました。 |
興福寺 航海安全を願った額がかかっています。 当時は航海中に遭難することも多く、まさに命がけの交易でした。 航海安全の神様媽祖(まそ)を祀る媽祖堂もあります。航海後、無事に長崎の港に着くと媽祖像を寺に運び、上陸している間は像を媽祖堂に安置していました。 |
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興福寺境内の句碑 正月、長崎の街が活動を始めるようすを表現しています。ああ、その通りだな、と思いますね。 |
眼鏡橋 中島川にかかる二連アーチ橋で、日本初の石造りのアーチ橋といわれています。 寛永11年(1634)、興福寺の二代目住職黙子如定が架けました。 その後何回か水害によって損壊しましたが、その度に修復されました。 |
眼鏡橋 歩行者専用となっていて、すぐ横の階段で川べりに降りることができます。 ふなや鯉が泳いでいます。 |
「中町教会」 長崎の町を歩けば4,5分ごとに、歴史にまつわる建物や旧跡に出会います。 オランダを通じて世界を覗ける唯一の港であった出島や、それを管理する奉行所のできごと、幕末や明治維新時の龍馬を初めとする志士達の足跡、蘭学を志す若者たち、グラバーなど貿易商との交流の歴史など見るべき名所旧跡や歴史上のできごとにこと欠きません。 この建物は「中町教会」で、ここにもキリシタン殉教や原爆ににまつわる歴史があります。 |
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崇福寺(そうふくじ) 寛永6年(1629)長崎に在留していた福建省出身の人たちがこの寺を建てました。 |
崇福寺三門(竜宮門)。重要文化財。 この三門は嘉永2年(1849)建造されました。 |
大雄宝殿(本堂)。国宝。 本尊は釈迦如来(大雄)で、正保3年(1646)創建されました。 中国で広く信奉された媽祖を祀った媽祖堂もあります。 |
崇福寺本堂前の提灯 いかにも中国らしさを感じさせる提灯です。 |
浜町(はまのまち)アーケード街。 長崎でいちばん賑やかな商店街です。 ここは国道324号線です。国道で歩行者専用となっているのは珍しいそうです。 |
出島(出島和蘭商館跡) 鎖国の時代は西洋に開かれた唯一の窓口だった長崎の「出島」は、貿易や文化交流の拠点となり、日本の近代化に大きな役割を果たしました。 出島のあった一帯は明治以降埋め立てが進み、海は300メートルあまり西に遠のきました。 現在、出島のあった場所に、出島の全景がわかる実際の15分の1の模型と、カピタン(オランダ商館長)部屋などの建物10棟が復元され、当時のようすがわかるようになっています。 |
出島 1638年(寛永13年)、江戸幕府はポルトガル人によるキリスト教の布教を禁止するために、長崎の有力な町人に命じて約15,000uの人口の島を築き、そこにポルトガル人を収容しました。この人工の島が「出島」です。 1639年(寛永16年)、鎖国令によってポルトガル船の来航が禁止され、出島は一時無人の島となりましたが、1641年(寛永18年)、平戸にあったオランダ商館が出島に移転しました。それ以来、1859年(安政6年)までの218年もの間、出島は西洋に開かれたわが国唯一の窓口として、日本の近代化に大きな役割を果たしました。 (出島総合案内所のパンフレットより引用) |
新地中華街 横浜、神戸とならぶ中華街です。 江戸時代、出島に居留地を定められたオランダ人と同じように、中国人も居留地を定められ唐人屋敷(唐館)の中に住みました。出入りは出島より比較的緩やかだったようです。 元禄時代の長崎の人口6万人のうち、中国人は1万人を占めていたといわれています。 明治になって港に近い新地(江戸時代中期に埋め立てられた)に移り、現在の地に中国人街が作られました。 |
新地中華街 チャンポン、皿うどんから高級中華料理レストラン、中国菓子、中国雑貨の店など約40店が並んでいます。 |
オランダ坂 幕末の開国後、南山手、東山手の区域は外国人居留地とされ、ポルトガルやロシアの領事館、礼拝堂、外国商人などの住む洋館などが並んでいました。 当時をしのばせる石畳のオランダ坂は格好の散歩道です。 |
南山手の坂道 四つか五つの坂が合流しています。 世界各国の貿易商や領事館員、司祭などやその家族たちが、極東の島、日本にきて生活していました。当時の日本は、「攘夷!」といって突然外国人に切りかかってくる侍や浪人者がいるかもしれず、また、いつ佐幕派、尊王派に別れて内乱が勃発するかわからない激動の時代でした。そのような状況の日本に遠く西洋からやって来て、貿易に従事したりして生活するのも勇気を要することだったと思われます。 坂道に立ち止まって、どこまでも続く坂道を見ると、ここでおむすびやみかん、りんごを落したら、いったいどこまで転げていくだろうか、と、何か転がしてみたい誘惑にちょっとばかりかられます。 |
グラバー邸 スコットランド出身のグラバーは1859年、彼が21歳の時に開港と同時に長崎に来日し、グラバー商会を設立しました。 南山手の丘に住居を建築したのは1863年のことです。 グラバーは幕末の激動時代に坂本龍馬を始めとする志士たちを陰で支え、伊藤博文らの英国留学を手伝うなど、若い人々への多大な援助を惜しみませんでした。 日本で終生を過ごしたグラバーは、1911年、73歳の生涯を閉じ、現在も長崎の国際墓地で妻のツルと息子(日本名:倉場富三郎)夫妻と並んで眠っています。 (「長崎グラバー園」のパンフレットを参照しました) 「長崎グラバー園(GLOVER GARDEN)」は外国人居留地であった南山手の丘にあり、奇跡的に戦禍をまぬがれたグラバー邸や、市内から移築された6つの洋館など当時の風景を彷彿とさせます。また、建物のテラスや庭園から長崎の街や港を一望でき、最高の眺望ポイントとなっています。 |
グラバー園からの眺め 幕末、長崎の街は日本の新しい夜明けを夢見る人々の熱気にあふれていました。 遠く大洋の波濤を越え、世界の東の端の国に夢を描いてやってくる異国の商人たち。 倒幕の野望に燃える幕末の志士たち。 西洋の学問を志す日本の若者たち。 (「長崎グラバー園」のパンフレットを参照しました) 幕府や外国に対抗できる軍備をはかろうとする各藩の藩主とその藩士たちも長崎に出入りしました。 いろいろな思惑を秘めて、多くの若者が長崎に集まり、歴史を推し進めていきました。 |
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大浦天主堂 大浦天主堂は、慶長2年(1597)にキリシタン弾圧で殉教した26聖人たちに捧げるために、幕末開国後の元治元年(1864)に建てられました。 このため、天主堂は殉教の地である長崎の西坂の方向を向いています。 |
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大浦天主堂の尖塔 1864年に建てられた翌年、浦上地区の数人の人がそっと訪ねてきて、キリシタンであることを神父に打ち明けました。江戸幕府の禁教令のもと200年以上にわたって信仰を守ってきた数千人のキリシタンの存在がこうして世界に知れ渡りました。 しかし、幕府や明治新政府のキリシタンへの弾圧はこの後も続き、3,400人の信者が逮捕され、日本の各地に配流されました。 |
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長崎の精霊流し 精霊船を担ぐ様式は現在では珍しい。ほとんどが台車に船を乗せて押して進むようになっています。 夥しい量の爆竹、花火、鉦の音、掛け声などの喧騒のなかを精霊舟が進みます。 |
長崎くんち 長崎といえば「くんち」です。 「長崎くんち」は毎年10月7,8,9日に行われる、長崎の氏神さま諏訪神社の秋の大祭です。 「長崎くんち・阿蘭陀万歳」のページへ行く |
長崎くんち「宝船」 長崎くんちはまさに長崎の歴史と和華蘭文化が凝縮した楽しい祭りです。 町に銅鑼(どら)、太鼓、鉦、笛、シンバルなどの音が響き渡り、街は異国情緒に満ち溢れます。 くんち祭りは国の重要無形民俗文化財となっています。 「長崎くんち・宝船」のページへ行く |
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