九州あちこち歴史散歩★長崎市・興福寺                      サイトマップ

長崎市・興福寺

   興福寺は日本最古の黄檗宗寺院で、元和6年(1620)に中国僧真円が航海安全を願って小庵を作ったのが始まりです。
 浙江省、江蘇省など南京地方出身の人たちが建立し、「南京寺」ともいわれています。
 当時は国際都市長崎の市民の6人に1人は中国人で、キリシタンでないことを明らかにするためにも出身地ごとに唐寺を建てたそうです。
 崇福寺、福済寺とともに「長崎三福寺」のひとつです。

 日本黄檗宗の開祖隠元禅師は中国から承応3年(1654)に長崎に渡来し、約1年近く興福寺の住職として滞在、崇福寺にも2か月ほど滞在しました。
 隠元禅師は後に、寛文元年(1661)、京都の宇治に黄檗宗大本山万福寺を開山しました。

 詳細については 興福寺の公式HP に掲載されています。




  興福寺山門。朱色の山門から「あか寺」とも称されました。


  庭先にお花が飾ってありました。やさしい心配りが感じられます。


  興福寺の大雄宝殿(本堂)。重要文化財。


  大雄宝殿(本堂)正面。


  興福寺本堂。
 航海安全を願った額がかかっています。
 当時は航海中に遭難することも多く、まさに命がけの航海でした。
 航海安全の神様媽祖(まそ)を祀る媽祖堂もあります。航海後、無事に長崎の港に着くと媽祖像を寺に運び、上陸している間は像を媽祖堂に安置し、日夜礼拝しました。


  鐘鼓楼
 鐘は戦時中、軍に供出して今はないそうです。





 
 
 庭に記念碑(黄檗宗隠元禅師東渡三百五十周年記念碑)が建てられていました。


 
 
隠元禅師の真筆が再現されているそうです。力強く生命力に溢れていますね。


 
 
隠元禅師の説明板


 
 
「俳諧の月の奉行や今も尚」 虚子


 
 


 
 
興福寺境内の句碑
 正月、長崎の街が活動を始めるようすを表現しています。長崎で生活している人でないとできない句ですね。


  魚板
 お坊さんに食事を知らせるために叩く木彫りの魚。
 禅宗のお寺でよく目にしますが、これはもっとも見事な魚板だそうです。


  大雄宝殿(本堂)の窓の模様
 現代でも通用するデザインですね。




   

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