九州あちこち歴史散歩★長崎市・風頭公園(2)坂本龍馬像・近藤長次郎の墓 サイトマップ
長崎の風頭公園に建つ坂本龍馬像の前で、龍馬といっしょに爽やかな風に吹かれているときに、長崎港に入港していた大型客船の写真を撮影に来られていた地元の方と出会い、親切にも風頭山の中腹に広がる墓地を案内していただけることになりました。 おかげで案内地図を1枚も持っていなかった私が、行きたかった近藤長次郎のお墓や、他にも御朱印船貿易で有名な豪商・荒木宗太郎、江戸時代の墓の格調高さを残している大仁田家のお墓、大音寺境内の伝誉の碑などたくさん案内していただき訪れることができたのは本当にありがたいことでした。一人では長次郎のお墓も見つけ出していたかどうかわかりません。 また、自分で作られたこの付近の詳しい地図や長崎文化の案内資料などもいただき、長崎で活躍した人たちの生き様の一端に触れることができ、楽しい歴史散歩になりました。 |
鎖国時代に日本で唯一世界に開かれた長崎の地で、坂本龍馬が世界を睨んでいます。 この龍馬像は全国の龍馬ファンの募金によって平成元年に建てられたそうです。 |
船が長崎の港内に入ったとき、 竜馬は胸のおどるような 思いをおさえかね、 「長崎はわしの希望じゃ」 と、陸奥陽之助にいった。 「やがては日本回天の足場になる」 ともいった。 司馬遼太郎 「竜馬がゆく」より |
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坂本龍馬は幕末の多くの志士のうちの一人の位置づけだったようですが、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」によって幕末の風雲児として一挙に有名になりました。 激動の幕末を、たびたび窮地に陥りながらも「志」を多い求めて東奔西走したその生き様は、「夢」をあまり持てなくなった現代の私たちにとって共鳴できる魅力のある存在です。 平成22年の福山雅治主演のNHKドラマ「龍馬伝」でさらに龍馬ファンが増えましたね。私もこのドラマは初めて一回も欠かさず見続けました。面白かったですね。 元治2年(1865)5月、長崎で日本初の貿易会社「亀山社中」を設立した坂本龍馬は、後に中岡慎太郎と共に雄藩連合、特に薩摩と長州の手を結ばせようと奔走し薩長同盟にこぎつけたことが、長年続いた徳川幕府打倒の決定的要因になりました。薩摩藩名義で買った武器を長州藩に回し、1866年5月に始まった第二次長州征伐において、その武器で戦った奇兵隊など数千人の長州兵が、四方から総攻撃を開始した15万人の幕府軍に圧勝したのです。もちろん武器だけの要因ではなく、長州藩の高杉晋作、木戸孝允、山県狂介(有朋)、伊藤俊輔(博文)、大村益次郎などの尽力、改革などで兵士は精鋭に育ち、藩を守る士気も高かったのに対し、幕府軍は旧態依然の組織、兵器で、幕府の命令で参戦した多くの藩はこの戦いを幕府と長州藩の私闘とみていたため士気も全くあがらず、幕府軍は惨敗しました。幕府の威信は地に落ち、1967年10月の「大政奉還」、12月の「王政復古」で260年続いた江戸幕府は倒れました。 |
眺望の説明板 ここから長崎市街地の全景が見渡せます。 |
龍馬像や文学碑などがある場所の近くに展望台が作られています。こちらは目の前に樹木などがなく、長崎の町や港が見渡せる最高の展望地点でした。 |
展望台の北方向は新しい住宅街が広がっています。 |
北西方向は山の上まで開発されています。 |
西方向には長崎港のむこうに稲佐山(いなさやま)があります。 稲佐山からの夜景は「1,000万ドルの夜景」として昔から有名ですね。 |
展望台から南西方向には、港や造船所、港の入口にかかる長崎女神大橋などを眺めることができます。 正面に大きな観光船が停泊していました。 ここで写真を撮影されている方と出会いました。大型客船が入港するたびにここに登り、船の撮影を何年も続けられているそうです。 |
展望台真南の方向の住宅街です。このあたりも山の上まで住宅が広がっています。 長崎市民の70%が坂の土地に住んでいるそうです。 |
「風頭山からの夜景」の説明 |
「坂本龍馬の活動経歴の説明」 幕末の長崎港に数多くの船が停泊しています。 |
風頭山を降り始めましたが、山頂すぐから麓まで広い墓地になっています。 これは皓台寺(こうたいじ)(曹洞宗)の塔の様式なのですね。「皓台寺開山暦住塔」とあります。 |
御朱印船貿易の豪商「荒木宗太郎」のお墓 荒木宗太郎は戦国時代から徳川時代初期にかけて、御朱印船貿易が盛んだった頃に活躍した大貿易商人です。 朱印状を持った船が「御朱印船」として異国との取引を公に認められ、南海貿易をほぼ独占的に行うことができました。(持たない船の貿易は密貿易となるが、当初は結構多かったが、幕府の力が強くなるにつれ取締りが厳しくなり、やがて御朱印船貿易も廃止され、幕府が直轄した長崎が唯一の貿易港となりました。) 朱印状は文禄年間に豊臣秀吉がみずからの朱印を押した鑑札を茶屋四郎次郎、角倉了以、末次平蔵、荒木宗太郎ら八人の豪商に下したのが始まりとされています。 |
荒木宗太郎の御朱印船は長崎くんちの出し物にもなっています。 本石灰町の「御朱印船」もその一つです。 東インド会社のVOCのマークを上下逆さにしたのが荒木宗太郎の船のマークだったそうです。 |
「小曽根家の墓」の案内板 幕末に亀山社中や海援隊を援助した小曽根家の墓。 この中に近藤長次郎の墓もあります。 |
江戸時代のお墓の慣例で、入口に「小曽根」と家名が彫ってあります。 |
小曽根家の墓。 幕末に生きた小曽根乾堂は書家、篆刻家としても有名で勝海舟とも交流があり、弟の英四郎は大浦お慶と共に坂本龍馬や志士たちを物心両面から援助しました。 龍馬たちが結成した亀山社中や後の海援隊は小曽根家の離れを活動の本拠地としていました。 |
「梅花書屋氏墓(近藤長次郎の墓)」、右は亀山社中の志士たちを援助した「小曽根英四郎」の墓 「梅花書屋」は亀山社中が本拠地としていた小曽根邸の離れの名前で、長次郎は「梅花道人」とも称していました。 |
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近藤長次郎の墓の説明碑 「慶応二年正月十四日本博多町小曽根邸で自刃した土佐藩士近藤昶次郎の墓標は、坂本竜馬の筆により皓台寺後山に建てられたが、その荒廃を恐れ有志の協力を得て当所に移し、併せて同墓域にあった津藩士服部源蔵の墓碑とも修復を加えた。」と書かれています。 近藤長(昶)次郎の墓は以前は当所後山の高島秋帆の墓の近くにひっそりと建っていましたが、有志の協力で昭和43年に小曽根家の墓地内に移されたそうです。小曽根家は現代でも幕末の志士を広い心で支えているのですね。 墓標は坂本竜馬の筆によるとありますが、他に高杉晋作の筆によるとの説もあるようです。 |
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近藤長次郎(1838-1866) 高知城下で町人の饅頭屋の息子として育ち、饅頭を売り歩いていたため「饅頭屋長次郎」とも呼ばれました。 幼少期から聡明で、家業の饅頭行商を手伝いながら学問に志し、河田小龍塾に通い坂本竜馬や武市半平太らと知り合い、また私塾を開いた岩崎弥太郎の塾でも学びました。 1859年に土佐藩士の下僕として江戸へ出て、安積良斎の門下生となって学問に励み、また他に砲術、洋学などの習得に務めました。1863年には身分制度が特に厳しかった土佐藩で苗字帯刀を許され、土佐藩士に取り立てられました。 神戸海軍総練所の開設準備に奔走していた勝海舟に随行して、坂本龍馬とともに勝塾で学び、その後、長崎で龍馬とともに亀山社中を結成し、薩長同盟締結後、長州藩の汽船ユニオン号や武器の購入などの交渉をグラバーらを相手に行いました。 長次郎は龍馬と行動をともにした親友、盟友でした。 長次郎はグラバーらとの交渉のなかで、西洋に実際に行って学びたいとの思いを強くし、また、薩摩藩名義で購入した新式小銃7,000丁などの引渡し交渉を行った長州藩の伊藤俊輔(博文)や井上聞多(馨)(彼ら長州藩士五人も藩命でイギリスに渡航し1863年から約1年間ロンドンで学んで帰国した)からも広い世界、進んだ国の話などを聞いたと思われ、自分もイギリスに渡航しようと実行に移したようです。当時の日本にとって開国に備えて外国の実情を知った人物が必要で、長次郎の発想はすばらしいものだったと思います。 (高杉晋作(1862年視察)、後藤象二郎(1866年視察)らも藩命で上海を視察しています。坂本龍馬も所在不明の時期があるためこの期間に上海に密航していたと考える人が多いようですが、それを確認する資料はないようです。) 長次郎は密航のため、グラバーの手配で乗船したものの天候が悪く、いったん下船してグラバー邸に帰ったところ、密航を知ったほかのメンバーに社中盟約書違反を追及され、長次郎は責任をとってその夜小曽根邸離れで切腹しました。 秘密裏に外国に行こうとしたことを追求されたとも、ユニオン号購入の折衝に対する謝礼を長州藩からもらったのにそれを密航の資金に流用したことを追及されたともいわれていますが、一方で密航の資金は薩摩藩家老の小松帯刀が提供したとの説もあり、真相はわかりません。ことの大小にかかわらず秘密裏に行動したのは社中の約束違反だから切腹せよ、というのではあまりに可哀想ですね。 私は、ことの大小よりも何よりも(命よりも)約束を重要視する「サムライ」の発想と、何が最も重要なことかを考えて行動する「商人」の発想の違いがこの悲劇を起こしたのではないかと思います。また、長次郎も折衝などが得意で才に走ったところがあり、仲間とのコミュニケーションが不足していたのかもしれません。 龍馬はこのとき京都に行っていて不在でしたが、後でこれを知り「俺がおれば切腹はさせなかったのに…」と嘆いたという(龍馬が切腹を指示したとの説もありますが、これはあり得ないと思う)が、龍馬がいたら仮に謝礼を流用していたとしても切腹まですることはないとの判断を下し(自分が責任を負ってでも)長次郎の密航を支援し、イギリスで学ばせたことでしょう。龍馬は「大風呂敷」と言われながらも何が重要なのかを自分で考えて、形式にこだわらず柔軟に行動しており、日本で活動することも、外国で学ぶことも当時の日本にとってともに重要なことだと理解していたと思うからです。 長次郎は切腹する夜に、大坂に住んでいた身重の妻に最後の手紙を書きました。(1866年1月14日没。享年29歳。) 辞世の歌 「憂き雲の立ち覆(おお)ふなる浮世なり 消えなばこれを形見ともみよ」 (憂き雲が覆っている今のこの時勢である。いつどうなるか命のほどはわからない。 もし私が一朝の露と消えたら、この歌をもって形見として欲しい。) |
江戸時代の格調を残す大仁田家のお墓 谿山千古少興廃 谿山(けいざん)は千古より興廃少なく 人物百年多去留 人物の百年は去留多し。 谷や山の自然は千年経っても変化は少ないが 人間は百年の間でも去る者、留まる者の入れ替わりが激しい。 (という意味でしょうね。) 自然の悠久さに対して人生の短さ、はかなさを嘆いている歌に次のようなものもあります。 古人無復洛城東 古人また洛城の東に無し 今人還対落花風 今人還(かえ)って対す落花の風 年年歳歳花相似 年年歳歳花あい似たり 歳歳年年人不同 歳歳年年人同じからず (大意) 昔、洛陽城の桃の花を楽しんだ人たちは既に亡くなり、 今、我々が花の散るのを見て嘆いている。 毎年美しい花は同じように咲くが、 この花を見る人々は毎年変わっていくのだ。 寄言全盛紅顔子 言を寄す全盛の紅顔子 応憐半死白頭翁 憐れむべし半死の白頭の翁 此翁白頭真可憐 この翁の白頭真に憐れむべし 伊昔紅顔美少年 これ昔紅顔の美少年 (大意) 若さの盛りにある美少年が語りかけてきた。 あの白髪の老人はかわいそうだ、と。 その通り、この老人の白頭は真に憐れだ、しかし、 実のところ昔は紅顔の美少年だったのだ。 これは初唐の頃の詩人劉廷之の「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代わる)」の一部分です。 |
「谿山千古少興廃 人物百年多去留」 自然の悠久さに対して人生の短さ、はかなさは比べるべくもありませんが、それを認めたうえで次のように言っているように思えます。 「子どもたちよ、人生の短さ、はかなさを嘆いてばかりいても始まらないよ。お前のそのあっという間の人生を毎日精一杯生きることがいちばん大事なことだ。」 ご先祖様のこの家訓を精一杯実践しているのがプロレスラー・国会議員・タレントなど多彩な分野で活躍している大仁田厚氏(1957年生まれ)なのでしょう。43歳のときに明治大学に入学し、4年間で卒業したのも立派なもの。普通、年をとるにつれ集中力がだんだん弱くなり、苦しいこと、面倒なことから逃げるようになるものです。 私もその例に漏れず、集中力なんぞとっくの昔にどこに行ったのやら影も形も見えません。 ここに失礼を省みず大仁田家のお墓を載せたのは、長崎に残る江戸時代の格調の高いお墓を紹介するのが目的ですが、大仁田厚氏の破天荒ともいえるパワーにあやかり、そのひとかけらでももらえるといいですね。 もっとも、50歳を越えても横綱曙関と電流爆破デスマッチを行うなどという桁外れの行動力やパワーを望んでのことではなく、風頭山などあちこちの数百メートルの山を100歳になっても散歩できますように、とささやかに望んでいるだけです。 (結構欲張りな望みでしょうか?) |
81代長崎奉行・松平図書頭(ずしょのかみ)の墓 文化5年(1808)、フェートン号事件の責任をとり切腹しました。 鎖国政策で無風に見えた当時も、外国との関係でさまざまな苦労があったのですね。 (黒船来航の幕末になると、日本も否応なく世界を相手にせざるを得なくなり、激動の時代に移っていきますが…) |
フェートン号事件 文化5年(1808)8月15日、野母権現山の遠見番所からオランダ船の来航を確認したと連絡があったが、この船はオランダ船に偽装したイギリス軍艦フェートン号で、オランダ船を拿捕する目的で来航したのです。(当時、ナポレオン戦争でイギリスとオランダは交戦状態にありました。) そうとは知らずに出迎えに赴いたオランダ商館員2人を拉致し、この二人と交換に水と食料を要求しました。 この不法行為に激怒した81代長崎奉行・松平図書頭康平は直ちにこの年の長崎港警備当番だった佐賀藩に出動を命じたが、佐賀藩の警備兵は幕命に反してひそかに国に帰っており、戦闘ができる状況ではありませんでした。長崎奉行は止むなく要求を入れ、水と食料を与え、一方で近辺の藩の兵を集め攻撃しようとしたが、17日にフェートン号は出航してしまいました。 (当時、長崎港の警備は福岡藩と佐賀藩が1年交替で担当し、1千人の警備兵を出すことになっていたが、多大な経費がかかるため、佐賀藩はこのときオランダ船の来航はないと勝手に判断し、ひそかに藩兵を国許に帰していました。) 長崎奉行・松平図書頭はこの事件の責任を取り、幕府への上申書をしたためた後、切腹しました。 松平図書頭は長崎市民に信頼されていたため、「図書大明神(康平神社)」として諏訪神社の境内に祀られました。 |
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大音寺の大クロガネモチ 鐘楼の横に大きなクロガネモチの木が枝を広げています。 |
大音寺の大クロガネモチの説明板 樹高15メートルでクロガネモチとしては極限に近い大きさとのことです。 |
こんにゃく煉瓦の門 こんにゃく煉瓦は幕末に長崎で焼かれるようになり、明治期にはこのような煉瓦を使った門を作るのがはやったそうです。 |
石造アーチ門 長崎に入ってきた石造アーチ橋の技術はこのようなところにも取り入れられています。 中には大亀の背に乗った「伝誉の碑」があります。 |
伝誉の碑 大亀の背に石碑が乗っています。 江戸時代にこの石碑が完成するまでに60年かかったそうです。 この大音寺を創建した伝誉は各地で修業を重ねた後、長崎で仏教の布教を始めました。当時の長崎はキリシタンの町で、困難だった仏教の布教のようすが「伝誉の碑」に記してあるそうです。 この大亀は正確には「贔屓(ひいき)」だそうです。「贔屓の引き倒し」の贔屓です。 贔屓は龍神の子で、重いものを背負うのを好み、贔屓の背に石碑を乗せる形式は中国で広まり、日本でも各地にこの形式の碑があるようです。 重いものを乗せている贔屓を手助けしようと親切心から贔屓を押したり引いたりすると、背に乗せた碑が倒れてしまうことから、親切心からの行為がかえって迷惑や不利益になることを「贔屓の引き倒し」というようになりました。 この石碑の文章は非常に難解で、すべて読解したら大亀が動き出すという言い伝えがあるそうです。 |
大音寺(浄土宗)も昭和20年(1945)8月の原爆で大きな被害を受けました。寛永18年(1641)に建てられた本堂は残りましたが、残念ながら昭和34年に火災で焼失したそうです。 坂本龍馬像の前で出会った、長崎港に入港していた大型船を撮影に来ておられた方が、親切にも私が行きたかったお墓や大音寺境内の珍しい「亀に乗った「伝誉の碑」」など多くの旧跡を案内していただき、おかげでこれらに関する歴史を楽しむことができました。本当にありがたいことでした。 |
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