九州あちこち歴史散歩★長崎市・風頭公園(1)楠本イネ・上野彦馬の墓         サイトマップ

長崎市・風頭公園(1)楠本イネ・上野彦馬の墓

   2012年10月9日、長崎くんちの後日(あとび)、午前中は庭先回りを見物し、昼前から風頭(かざがしら)公園を目指すことにしました。
 長崎に来るたびに坂本龍馬に会いたかったのですが、これまでくんちを見るのに忙しく行く機会がなかったのです。(数年前に亀山社中跡のあたりは歩きましたが、龍馬像には会っていません。高知・桂浜の龍馬像には40年前から数回会っています。)
 また、日本初の西洋医学の女医・楠本イネや、わが国の写真の始祖・上野彦馬のお墓なども訪れようと思います。
 浜市アーケード近くの崇福寺からスタートし、どこか風頭公園に登るルートを探しながら歩き始めました。




崇福寺山門

 浜市アーケードで朝昼兼用の腹ごしらえをして昼前に出発し、崇福寺に来ました。
 どこかこの近くから風頭山に登るルートがないか探すことにします。
(ずっと北側の禅林寺と深崇寺の間から上る龍馬道は知っていたので、この近くからのルートが見つからないときは北側のルートから登っていこうと考えていました。)


崇福寺周辺の案内津図

 崇福寺の門前に市内の案内地図があり、よく見るとすぐ近くの大音寺と皓台寺の間の道が風頭山上の公園に通じているようです。
 幸先良くルートが見つかりました。登り坂の途中で左に折れれば公園の中央部分、坂本龍馬像の近くに出ることができそうです。
(結局左に折れる箇所を見過ごし、風頭公園の南端に出ました。
 後で調べると風頭公園の南端には「風頭山バス停」があり、長崎駅から長崎バスが通じているので、ここまでバスで登り、どちらかのルートで下るだけにすると歩くのは楽なようです。)


活版印刷術の創始者本木昌造墓所の説明板

日本における活版印刷術の創始者 本木昌造先生墓所の説明板。
 日本最初の鉄橋「くろがね橋」を中島川に架けたことでも知られており、また長崎に「新町活版所」を創設して、その後、「横浜新聞」「長崎新聞」を発行し、新聞の発展にも業績を残しています。
 長崎は外国文化を知ることのできる唯一の窓口であったため、長崎で日本最初に始まった事柄が数多くあります。

 近代活版印刷、鉄道(蒸気機関車)、缶詰工場、商業写真館、国際電信(長崎−上海)、バドミントン、ビリヤード、ボウリング、西洋料理、コーヒー、チャンポン、ハム、ザボン、石畳、気球飛翔、・・・。
 他にいくらでもありますが、当時の新しい文明はほとんど長崎から始まりました。


崇福寺近くの花屋さん

 街角に花屋さんがあり、色とりどりの美しい花で町を明るくしています。


大音寺と皓台寺の間の幣振坂

「幣振坂(へいふりざか)」
 大音寺と皓台寺の間の坂道を登り始めました。
 私はハイキング気分ですが、毎日上り下りしてここで生活している人たちは坂道が大変でしょうね。ここは坂道のほんの入口です。

 幣振坂の由縁は、江戸時代に諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に曳いて下ろす時に、御幣を振って人夫を鼓舞したことによるもので、他にも幣振坂が二か所あるそうです。


大音寺と皓台寺の間の幣振坂

 幣振坂の右側に「大音寺」、左側に「皓台寺」の案内がありました。


皓台寺大仏殿の昆慮舎那仏

 皓台寺(こうたいじ、曹洞宗)の大仏殿の昆慮舎那仏(こんるしゃなぶつ)です。


風頭山中腹の墓地の楠の大木

 裏山は頂上に至るまでお墓が並んでいます。
 所々に楠の大木が聳えています。

(この道は両側にずっと広いお墓が広がっています。
 くれぐれも礼を失することがないように気をつけましょう。)


楠本瀧、イネ、二宮敬作の顕彰碑

 楠本瀧(たき)、楠本イネ、二宮敬作氏の顕彰碑が建っていました。
 楠本瀧はシーボルトの妻、楠本イネは娘です。

 シーボルト(1796-1866)はオランダ東インド会社の日本駐在員として、1823年27歳のときに来日、長崎出島でオランダ商館の医師をしていました。
 翌1824年には出島外に「鳴滝塾」を開くことを許され、西洋医学(蘭学)教育を行い、日本各地から集まった多くの医者や学者に講義、門人として高野長英、二宮敬作、伊東玄朴など多数がここで西洋医学を学びました。
 シーボルトは長崎丸山の遊女・其扇(そのぎ)(本名:楠本瀧:当時17歳)と結婚し、楠本イネが生まれ、彼はお瀧とイネを出島のオランダ屋敷に住まわせ、イネは幼い日々を両親のもとで暮らしました。
(当時、混血児に世間は冷たく、お金をつけて養子に出されたり、また短命の者が多かったそうです。
 また、瀧は遊女ではなく、当時出島に入れるのは遊女だけだったため遊女の名義を借りた、という説もあります。)

 文政11年(1828)シーボルトは5年の滞在を終え、3年後の再来日を予定して帰国しようとしたが、荷物の中に幕府禁制の日本の地図が見つかりました。(先発した船が遭難し、積荷の一部が日本の海岸に流れ着き、その中のシーボルトの荷物の中に地図があった。)
 彼は何も野心はないと主張し身の潔白を証明するため、日本に帰化して日本のために働くことを申し出たが認められず、翌文政12年に国外退去(この時イネは満2歳半)となり、再来日は許可されませんでした。(シーボルト事件)


楠本(イネ)家の墓

 シーボルトは医学の他に博物学、自然科学、植物学などにも造詣が深く、植物では日本で押し葉標本12,000点を収集し、帰国後に「日本植物誌」を刊行、2,300種を紹介しています。同様に「日本」「日本動物誌」も刊行しました。
 現在でも日本の植物の学名にはシーボルトが命名したものがたくさん残っています。
 瀧を「おたきさん」と呼んで大事にしていましたが、あじさいの新種(と判断した)に「おたくさ(otaksa)」と命名したが、これは「おたきさん」のことといわれています。


楠本(イネ)家の墓

楠本家の墓

 楠本イネ(1827-1903)
 日本人女性で最初の西洋医学を学んだ医者。(女医はすでに何人か生まれていたそうです。)
「おらんだおイネ」と呼ばれていたが、これは父シーボルトが実際はドイツ人であったが、オランダ人と偽って滞在していたためです。
 イネはシーボルトが国外退去とされた後、成長するにつれ養育を託された二宮敬作など門人たちの指導でオランダ語や解剖学、産科の勉強を続けました。イネは自分は普通の女としての幸せは求めず、職業を持って生きていくことを決意していたようで、二宮にもそれを相談していたそうです。(女性がデパートガール、バス車掌や電話交換手などの職業で社会に出て働くようになったのは大正時代以降です。)
 長崎の地の他、二宮敬作がいた宇和島やまた岡山などでも医学の修業を続け、安政元年(1854)宇和島で産科を開業しました。医者としての評判は高まり、宇和島藩主夫人の治療も行うようになりました。安政3年に長崎に帰りましたが、その後も毎年宇和島に出かけ治療に当ったそうです。
 宇和島時代には、当地に来て宇和島城を守る砲台などを築いていた長州藩の医者・西洋兵学者の村田蔵六(後の大村益次郎=維新十傑の一人。日本陸軍の創始者)からオランダ語を学び、後に明治2年に京都で彼が襲撃されたときには治療にあたり最後を看取りました。
 安政6年(1859)、前年の日蘭修好通商条約締結で父の追放処分が取り消され、父シーボルトが30年ぶりに再来日することができ、お瀧とイネは長崎で父と再会できました。この時もイネは父から医学を学び、オランダ海軍軍医による新しい医学の講義に参加できるように取り計らってもらい、新しい知識を吸収しました。
 明治3年(1870)には東京に出て築地で産科を開業し、明治6年には宮内省御用掛となり、皇族の出産にも携わりました。
 明治10年(1877、51歳)には長崎に帰りましたが、明治17年に宮内省の要請で再び上京し開業しました。
 晩年は寡婦となっていた娘の高子(二宮敬作の甥で医者の三瀬諸渕と結婚していた)と東京で静かな余生を送ったそうです。76歳没。


風頭山中腹の広い墓地

 どこまでも続く石段を一歩ずつ登り、標高150メートルの風頭山を目指します。


風頭山の上からの長崎の眺望

 だんだん長崎の街や海が眺められ高さになりました。





風頭山の頂上・風頭公園

 風頭公園の南端に到着しました。
 缶コーヒーを飲んで一服し、これから坂本龍馬像や上野彦馬のお墓を目指します。
(この付近に「長崎凧(はた)資料館」があったのを、案内地図を持たない私はそれを見逃してしまいました。残念。
 「長崎ぶらぶら節」にも「凧(はた)揚げするなら金毘羅風頭…」と歌われています。)


長崎市の風頭公園

 風頭公園は南端が標高が最も高く約150メートル、龍馬像などがある中央部や北側はやや低くなっています。


唐通事 林・官梅家のお墓

唐通事 林・官梅家墓地
 通事(通詞)はオランダ語、中国語、英語などの通訳で、江戸幕府の役人として貿易事務などを任されていました。
 外国語を習得した通訳は特殊技術だったので、特定の家で代々継承されたようです。
 林・官梅家は唐との通訳を担当したのですね。
 通訳はただ外国語を習得しただけでは勤まらず、貿易などの実際面も知らないと仕事が進まないだろうな、と考えていたら、それは間違っておらず、通訳だけでなく貿易業務なども併せ行ったため唐との交易を担当する人は「通事」と称するそうです。(オランダ、英語の場合は「通詞」)


唐通事 林・官梅家のお墓

唐通事 林・官梅家墓地
 お墓は独特な形をしていますね。


唐通事 林・官梅家墓地の説明文

唐通事 林・官梅家墓地の説明文
 福建省出身の林氏の子が有名な大通事となり、代々通事を受け継いだようです。


阿蘭陀通詞・加福家のお墓

阿蘭陀通詞(おらんだつうじ) 加福家墓地
 オランダとの交易で通訳を担当した加福家のお墓です。


阿蘭陀通詞 加福家墓地の説明文

阿蘭陀通詞 加福家墓地の説明文
 加福家は最初はポルトガル語の通訳を手がけ、貿易相手国がオランダに変わるとオランダ語の通訳を行い、江戸時代に代々9代にわたって大通詞などを勤めています。
 当時はことさらに外国語の習得は大変だったことと思われます。
(現代ではいたるところに英語があふれ、英語が話せないと会社によっては就職もできない状況ですが、それでも外国語の習得は大変ですね。)

 


風頭大権現様

風頭大権現様がありました。


上野彦馬の説明板

上野彦馬のお墓の説明文
 私も坂本龍馬や高杉晋作など幕末の志士たちを写した写真で上野彦馬の名前を知りました。
 現代の映像ビジュアルワールドの日本における始祖ですね。


上野彦馬の墓の説明板

上野彦馬のお墓の説明文
 昔のお墓の様式は五輪塔様式というのですね。


日本の写真の先達・上野彦馬の墓

上野家のお墓
 一番右側が上野彦馬のお墓です。
 左側はもっと古い時代のご先祖様のお墓ですね。

 上野彦馬(1938-1904)は文久2年(1862)、長崎に上野撮影局(写真館)を開設し、わが国初の商業写真家といわれています。
 幕末の志士たちを写したのはよく知られていますが、明治7年(1874)には金星が太陽面を通過する現象の天体写真撮影に挑戦し、明治10年(1877)には西南戦争で政府軍に依頼され宮崎県などにも従軍し写真を残すなどわが国報道カメラマンの草分けでもあったそうです。
 活動的だったのですね。それにしても当時のカメラの機材や薬品などを携行しながらの撮影随行は大変だったでしょうね。
 上野彦馬の写した写真は人物、風景など何枚が残っているのでしょうか。数百枚は間違いないと思われます。いずれも当時の世相や風俗、長崎の町、港のようすなど貴重な資料となっています。「百聞、百文は一見に如かず」ですね。
 新しい技術を習得すると、それを自分だけで利用し外には出さない場合も多いのですが、彦馬は写真術を習得したいと望んで全国各地から訪れた者に技術を教え、多くの弟子たちはやがて独立し全国に散って写真術を広めていきました。日本人は写真が好きといわれ、現在、日本のカメラは世界のトップを走っていますが、上野彦馬の蒔いた種もそれに繋がっているのでしょう。


風頭公園、龍馬通りの案内地図

「長崎さるく コースマップ9 伊良林界隈」
 風頭山を下りた後、夕方に浜市アーケード周辺で長崎くんちの庭先回りを楽しんでいるときに、アーケード内の祭りの案内所でこのパンフレットを入手しました。この地域の案内地図をこれまで探していたのですが、ぴったりのものをやっと入手できました。最初はこのルートが最適ですね。次回にはこのルートでまた登ってみたいですね。
 私は数年前に亀山社中跡のあたりは一度歩きましたので、今日は竜馬像からまっすぐ下りて近藤長次郎のお墓などをまわることにしました。


長崎市風頭公園の坂本龍馬像

 やっと坂本龍馬に会えました。
 10月の青空の下、龍馬といっしょに爽やかな風に吹かれながら、長崎の街や海を眺めながら一時間ほど過ごしました。




   

    ◆このページの先頭に戻る ◆次のページ 
    ◆和華蘭文化の港町・長崎 ◆平和公園 ◆眼鏡橋(1) ◆眼鏡橋(2)ハート石 ◆眼鏡橋(3)ハート石はどこ? 
    ◆オランダ坂 ◆グラバー邸 ◆諏訪神社 ◆崇福寺 ◆興福寺 ◆日本二十六聖人殉教地 
    ◆風頭公園(1)楠本イネ・上野彦馬の墓 ◆風頭公園(2)坂本龍馬像・近藤長次郎の墓
    ◆トップページに戻る