九州あちこち歴史散歩★長崎市・グラバー邸                      サイトマップ

長崎市・グラバー邸

   スコットランド出身のグラバーは1859年、彼が21歳の時に開港と同時に長崎に来日し、グラバー商会を設立しました。南山手の丘に住居を建築したのは1863年のことです。
 幕末の激動の時代の中、坂本龍馬を始めとする志士たちを陰で支え、伊藤博文らの英国留学を手伝うなど、若い人々への多大な援助を惜しみませんでした。
 日本で終生を過ごしたグラバーは、1911年、73歳の生涯を閉じ、現在も長崎の国際墓地で妻のツルと息子(日本名:倉場富三郎)夫妻と並んで眠っています。
(「長崎グラバー園」のパンフレットを参照しました)




  グラバー邸
「長崎グラバー園(GLOVER GARDEN)」は外国人居留地であった南山手の丘にあり、奇跡的に戦禍をまぬがれたグラバー邸や、市内から移築された6つの洋館などが残され、当時の風景を彷彿とさせます。
 また、建物のテラスや庭園から長崎の街や港を一望でき、長崎の最高の眺望ポイントとなっています。


   グラバーは坂本龍馬、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊助(博文)、小松帯刀、五代才助(友厚)、岩崎弥太郎、中岡慎太郎など討幕派の志士を応援し、彼らはグラバー邸に出入りして、時にはこの建物の隠し部屋に身を潜めることもありました。


 幕末のできごとを思い浮かべながら、おいしいコーヒーも飲めました。
(現在の状況は確認してください。)


 グラバー邸のまわりの敷石に、ハート型のものが一個埋め込まれています。
 時間の許す人はどうぞ見つけて、幸運をつかんでください。
 ちなみにグラバー邸は、上から見ると、四つ葉のクローバーの形をしているそうです。


  グラバー園からの眺め
 幕末、長崎の街は日本の新しい夜明けを夢見る人々の熱気にあふれていました。
 遠く大洋の波濤を越え、世界の東の端の国に夢を描いてやってくる異国の商人たち。
 倒幕の野望に燃える幕末の志士たち。
 西洋の学問を志す日本の若者たち。
(「長崎グラバー園」のパンフレットを参照しました)

 幕府や外国に対抗できる軍備をはかろうとする各藩の藩士たちも長崎に出入りしました。
 いろいろな思惑を秘めて、多くの若者が長崎に集まり、歴史を推し進めていきました。





  グラバー園の一画にオペラ歌手の三浦環(たまき)の像が建っています。
 三浦環はオペラの国際的プリマとして「蝶々夫人(Madam Butterfly)」を世界で2,000回公演しました。

 長崎(グラバー園といわれる)を舞台としたプッチーニ作曲の「蝶々夫人」は、1904年(明治37年)イタリアのミラノ・スカラ座で初演されました。
 明治初めの長崎(グラバー園といわれる)を舞台にした、アメリカの海軍士官ピンカートンと蝶々夫人との悲恋の物語です。「ある晴れた日に」のアリアが有名です。(夫人といっても16歳の乙女です。)
 東洋趣味に溢れるオペラで、各場面ではおかしな日本の情景がいくつも出てきますが、こういうものを通じて世界にアジアの東端の日本が知られていったのでしょう。なにしろ260年余の鎖国から開国した日本のことは誰も知りませんでした。西洋ではこの当時、東洋の文化のもの珍しさもあって日本ブームが起こっています。

 蝶々夫人は海の方を指差して、「ある晴れた日に、水平線の向こうにひと筋の煙が見え、きっとあの人の船が帰ってくるわ」と我が子に語りかけています。
 しかし・・・。ピンカートンは帰ってきましたが、その傍らには・・・


   慶応元年(1865)、亀山社中はその結成後わずか2ヶ月で西洋の新式銃7,300丁を、五ヵ月後には軍艦ユニオン号(代金5万両(約100億円))を共に薩摩藩名義で購入する仲介をしました。亀山社中のバックに薩摩藩がいたのは間違いないようです。
 新式銃と軍艦ユニオン号は、薩摩・長州藩の約束どおり、長州藩に渡され、慶応2年(1866)6月、長州征伐(第二次長州出兵)に来た幕府軍への攻撃に活躍しました。
 長州藩は保守派が実権を握っていた第一次長州征伐時には、幕府に逆らわず恭順しましたが、翌年討幕派の高杉晋作らがクーデターを起こして長州藩の実権を握り、奇兵隊などを組織して幕府との戦いの準備を急ぎました。
第二次長州征伐で長州に四方から攻め込もうとした15万人を擁する幕府軍は、数千人で守る長州藩に敗れ、急速に支配力を失い、翌年の大政奉還で江戸幕府は幕を閉じました。

 長州藩を勝利に導いた高杉晋作は、この戦いの終盤に肺結核を発症し、慶応3年(1867)4月、27歳で亡くなりました。
 死に際して、晋作が「おもしろき こともなき世に おもしろく」としたためたら、
 看病に来ていた野村望東尼が「すみなすものは 心なりけり」とつけたというエピソードがあります。
(野村望東尼(もとに、ぼうとうに)は、幕末の志士を援助した博多の女傑です。)
 また、都都逸「三千世界の烏を殺し、主(ぬし)と朝寝がしてみたい」も晋作の作といわれています。剛毅な人物だったのですね。


 
 明治元年(1868)12月にグラバー商会は薩摩藩との共同出資により、長崎小菅に船舶修理用ドックを建設しました。
 これは後の「三菱長崎造船所」の前身となります。



   グラバーが単独あるいは共同で始めた事業には、炭鉱開発(貝島炭鉱)、蒸気機関車の試走、造船ドック建設(三菱長崎造船所の前身)、ビール醸造(キリンビールの前身)、貨幣鋳造機の購入(大阪造幣局建設に協力)など多くの分野があります。
 しかしながら、グラバー商会は、日本で大規模な内戦が避けられ主力事業であった武器が売れなくなったため、また明治新政府の廃藩置県で各藩へ売った武器などの代金が回収できなくなったため、明治3年(1870)倒産しました。
 それ以降もグラバーはずっと日本で生活を続け、かつて自分が手がけた貝島炭鉱の役員となり、その後は岩崎弥太郎率いる三菱財閥の顧問となって、明治時代の荒波を乗り切っていきました。


   教会の十字架や洋館(洋館風の建物も)があちこちに見えます。
 正面の十字架は「大浦天主堂」です。


   グラバーの後を継いだ子は日本名を倉場富三郎と名乗り、学習院を卒業し、ペンシルヴァニア大学で生物学を学びました。帰国して1907年、「長崎汽船漁業会社」を設立してトロール漁法を導入、わが国の漁業の近代化に貢献しました。ずっと長崎で生活を続け、水産県長崎の発展に尽力しました。
 彼は混血児だったため、第二次世界大戦中にはスパイの疑いをかけられ、また、港を見渡せるグラバー邸から追われました。父が手がけた修理ドックはいまや一大造船所となり、秘密裏に戦艦武蔵を建造していました。彼にはいつも監視がつき、やがて長崎に原爆が落とされた17日後自殺に追い込まれました。(74歳)。迫害のつらさと原爆のあまりの悲惨さに、生きていく元気をなくしたのでしょうか。彼もまた戦争の犠牲者でした。

 地元の画家に描かせた、558種の魚700枚、123枚の貝および鯨の精密な図画集『日本西部及び南部魚類図譜』(「グラバー魚譜」)は、日本四大魚譜に数えられています。


   園内に「長崎伝統芸能館」があり、「長崎くんち」の山車や資料が展示されています。
 また祭りのビデオ上映が行われています。




   

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