九州あちこち歴史散歩★長崎市・日本二十六聖人殉教地               サイトマップ

長崎市・日本二十六聖人殉教地

   2012年10月8日、好天の一日、日中は長崎くんちを楽しみ、夕方に「日本二十六聖人殉教地」の西坂公園に足を伸ばし、JR長崎駅の正面左手の小高い丘をゆっくり登って約10分で着きました。
「二十六聖人レリーフ」の前で信仰の強さを思い、また公園では異国情緒に溢れた建物に出会いました。




日本二十六聖人殉教地
「慶長元年12月19日(1597年2月5日)、6名の外国人と20名の日本人が豊臣秀吉のキリシタン禁令のため大坂・京都で捕らえられ、長崎に護送され、長崎の町に面したこの地で処刑されたのである。
 この26名の殉教のできごとは、ヨーロッパその他に広く伝わり、文久2年(1862)ローマ教皇は盛大な祭典をローマで行い、26名の殉教者を聖人に列し、「日本二十六聖人」と称せられたのである。」
 (長崎市教育委員会)

 6名の外国人とは宣教師(司祭・修道士)、20名の日本人は修道士・信者(キリシタン)のことですね。
 処刑された西坂の小高い丘は、キリストが処刑されたエルサレムのゴルゴダの丘にちなみ殉教者たちが望んだといわれています。


 26聖人殉教地の西坂公園は、JR長崎駅の正面左側の小高い丘の上にあります。
 駅から歩いて10分程度の距離です。


西坂公園の句碑

「天国の(ぱらいそ)の夕焼けを見ずや 地は枯れても」水原秋桜子

「たびの足はだしの足の垂れて冷ゆる」下村ひろし


 宣教師「ルイス・フロイス}の記念碑


「ルイス・フロイス」の略歴
 「日本史」などの資料で、極東の地にある日本がだんだんヨーロッパに知られていったのでしょうね。


手前の建物は「日本二十六聖人記念館」


「日本二十六聖人記念館」


「日本二十六聖人記念館」の横壁のモザイク模様。


 いろいろな資料が展示してあります。


 10月の好天の夕方、涼しい風が吹き始めました。
 この岡の上からは長崎の町を眺められ、散歩には格好の場所ですが、人はまばらで、猫がゆったりと日向ぼっこをしていました。
 ここでは時間がゆっくりと流れています。


 長崎市内の中心部の名所はほとんど歩いて回れます。
 北の浦上地区や南のグラバー邸などやや離れているところも、チンチン電車で簡単に訪れることができます。






「長崎浦上街道ここに始まる」の碑が建っています。


「長崎浦上街道」の説明板です。


 西坂公園の横にスペイン・バルセロナのガウディ建築風の教会が建っています。
 日中は長崎くんちで和華蘭文化を楽しみ、夕方にはここでも異国情緒にひたることができました。



 私はこのような塔があることは全く知らなかったのですが、この双塔を目にしたときはかなりの衝撃でした。そして、ガウディの建築を連想しましたが、その印象は間違ってなかったようです。
 この教会の設計者の今井兼次氏はアントニオ・ガウディを日本にいち早く紹介した功績で知られた方で、この双塔もガウディの影響を受けているのだそうです。
  昭和37年(1962)に建造されています。


 この双塔を持つ教会は「日本二十六聖人記念聖堂聖フィリッポ教会」で、二十六聖人に捧げられて造られたものです。(二十六聖人の一人、メキシコ人の聖フィリッポ・デヘススに捧げられて、その名がつけられています。)
 聖フィリッポ教会という名前を目にした時、聞いたことのない教派だな、と思いましたが、それは私の勘違いで、これは教派の名前ではなく、殉教した宣教師のうちの一人の名前がつけられたもので、教派はローマ・バチカンのカトリック教とわかりました。

 長崎には二十六聖人に捧げるために造られた教会がもう一つあります。
 グラバー邸の近くにある「大浦天守堂」です。「大浦天守堂」は通称で、正式名は「日本二十六聖人殉教者天守堂」です。そのため大浦天守堂は西坂の方向を向いて建てられています。
 幕末の1864年に外国人によって南の外国人居留地に建てられましたが、浦上地区で禁制のキリスト教を守っていた信者が完成した大浦天守堂を訪ね、信仰を告白し、数千人のキリシタンが禁制の信仰を守ってきたことが世界を驚かせました。



 天に向かって聳えています。


「日本二十六聖人レリーフ」
 豊臣秀吉は天正15年(1587)にバテレン追放令を出しましたが、宣教師による布教を禁止したもので、キリスト教を信じることは当初は許されていました。
 1596年10月にスペイン船サン・フェリペ号が遭難して土佐に漂着し、その取調べの中で「スペインは領土征服の第一歩として宣教師を送り込む」ということが秀吉に伝わり、秀吉はキリスト教を弾圧する方針に転換したといわれています。(この事件の真偽は不明な部分がありますが、この時期に二十六聖人の逮捕・処刑を命じ、全国のキリシタンに対する弾圧が始まりました。また貿易相手国も布教を条件にしないオランダに変わりました。)
 秀吉は同年12月に、京都奉行の石田三成に京都・大坂に住むキリスト教信者を捕らえ処刑するよう命じ、外国人宣教師(司祭・修道士)6名、日本人修道士・信者18名の合計24名が捕らえられました。彼らは全国のキリシタンに対する見せしめとして「長崎へ連行し、処刑せよ」との命令を受けて、1597年1月10日に大坂を発ち、大坂・京都で引き回しのうえ左の耳たぶを切り落とされ、厳冬期に歩いて長崎へ向いました。
 途中で一行の世話をしていたイエズス会、フランシスコ会の世話役も捕らえられ、殉教の列は合計26名となりました。
 一行は同年2月4日、長崎の時津に到着、舟中で一泊し、翌5日の朝、浦上街道を進み、午前10時頃西坂の岡に到着。すぐに十字架に掛けられ、槍で両脇を突かれて処刑され、この地で殉教しました。

 一行の中には3名の少年もいました。

 12歳の少年ルドビコ茨木に対して、役人は少年を助けようと思い信仰を捨てるよう言ったが、少年はこれをはっきり断り、二人の叔父とともに殉教しました。(レリーフの向かって右から9番目)

 アントニオ某(13歳)は、西坂に泣きながら出迎えた両親に、微笑みながら「泣かないで。私は天国に行くのだから。」と慰め、賛美歌を歌いながら殉教しました。(レリーフの右から10番目)

 トマス小崎(14歳)は連行の途中、安芸の国三原で母への手紙を書きましたが、京都に届ける手段がなく、手紙を懐に持ったまま父とともに殉教しました。(手紙は残っています。)(レリーフの左から7番目)

 日本人修道士パウロ三木は処刑場の周囲を取り囲む4,000人を越える群集の前で、十字架に掛けられたまま最後の説教を行いながら殉教しました。

 最年長は聖ディエゴ喜斎で64歳だったようです。(他に年齢不詳の殉教者もいます。)

 26聖人のレリーフでは全員正装となっていますが、実際は着替えなどは許されず貧しい身なりのまま処刑されました。
 身体(足)が浮かんでいるのは、昇天していることを表しているそうです。


 坂の町、長崎。


 西坂公園から大きな観音様も見えました。



 西坂公園を下りたところに「勝海舟寓居の地」の碑がありました。
 長崎は史跡に溢れています。


「勝海舟寓居の地」の説明文です。
 軍艦奉行となって神戸海軍操練所を開設したのは、去年の「龍馬伝」を見て知っていましたが、若いときに長崎の海軍伝習所で4年間も訓練を受けたのですね。


 きれいな花が咲いていました。
 花に詳しい友人が「コバノセンナ」と教えてくれました。


 西坂公園から数分ほど坂を下ると長崎駅前です。
 数分前まで400年前の世界大航海時代、日本にも世界の文化やキリスト教が入ってきた時代のできごとにしばしの間浸っていましたが、またせわしない現代に帰ってきました。




   

    ◆このページの先頭に戻る ◆次のページ 
    ◆和華蘭文化の港町・長崎 ◆平和公園 ◆眼鏡橋(1) ◆眼鏡橋(2)ハート石 ◆眼鏡橋(3)ハート石はどこ?
    ◆オランダ坂 ◆グラバー邸 ◆諏訪神社 ◆崇福寺 ◆興福寺 ◆日本二十六聖人殉教地 
    ◆風頭公園(1)楠本イネ・上野彦馬の墓 ◆風頭公園(2)坂本龍馬像・近藤長次郎の墓
    ◆トップページに戻る