鵜戸(うど)神宮は風光明媚な日南海岸国定公園の日向灘に面した洞窟内に建造されています。 創建は第十代崇神天皇(4世紀前半の存在といわれる)の御代と伝えられ、その後第五十代桓武天皇の勅命により「鵜戸山大権現」として神殿が再興され、ある時は西の高野と称され隆盛を極めていたそうです。 ご祭神は「ウガヤフキアヘズノミコト」で、この洞窟はご祭神の産屋の址と伝えられています。 日南海岸の群青の海や、絶壁の中腹にある洞窟、神社の前の奇岩群などの眺めもすばらしく、ここで愛児ウガヤフキアヘズを産んだトヨタマヒメにあやかって幸せな縁結び、安産、育児などを祈願する参詣者が絶えません。 鵜戸神宮の歴史や由緒などの詳しい説明は 鵜戸神宮の公式ホームページ に掲載されています。 マイカーの駐車場は2箇所あります。(ともに無料) (1)観光バスが駐車する大きな駐車場 山越えの道で神社入口まで歩いて往復20分前後かかります。 時間のある人、ゆっくり江戸時代の参拝路の風情を楽しみたい人、階段を歩ける人はこちらをどうぞ。 (2)鵜戸港のある海岸沿いの道を車で走り、神社入り口近くの駐車場 時間があまりない人 階段を歩くのが苦手な人はこちらをどうぞ。 上記ホームページの「境内散策」のページに案内地図があります。 海岸近くの鳥居をくぐって鵜戸港を通り海沿いに進む(海岸参道。地図の17番、千畳敷奇岩側を進む)と、神 社入口の近くに駐車場があります。 |
鵜戸神宮は日向灘に面した断崖の中腹の岩窟内に本殿があるので、洞(うろ)を意味する「うど」に、主祭神のウガヤフキアヘズノミコトの鵜が当てられているそうです。 |
「鵜戸山八丁坂由緒」の石碑 鵜戸への入口だった吹毛井の港から、鵜戸山を越えて鵜戸神宮の神門までの8丁(約800メートル)の間に、上り438段、下り377段の石段が続き、江戸時代にはその両側に18の寺坊が並んでいたそうです。 (明治初めの神仏分離令の騒動で、寺坊はすべて棄却されたとのことです。 山越えの道は延暦年間(782-806、平安時代の当初)に、一人の尼僧が築いたものだそうです。 (大昔は海岸伝いか川伝いに道ができたが、ここは絶壁になっているため海伝いでは行けず、山越えの道しか作れなかったのでしょうね。) |
鵜戸山八丁坂の入口に昔の風情を残す石に階段が残されていました。 |
途中にはあちこちに花が植えられていました。 ダチュラがたくさんの花をつけています。 (この花をなめたり噛んだりしてはいけません。結構強い毒性があります。) |
八丁坂も現在は新参道ができて尾根を越える必要はなくなっていました。 参道の途中からは平坦なトンネルと堀切になって歩き易くなっています。 |
トンネルを出ると掘切の道です。 |
風が吹くと風車がいろいろな模様を描いて回っていました。 |
アマリリスが満開です。 |
5月下旬、あじさいも咲き始めていました。 |
淡い色合いがなんともいえません。 |
こちらは紫系の色合いです。 |
淡い青色も、派手な色の花が多い中で、清楚な感じでいいですね。 |
![]() |
「剣法発祥の聖地」記念碑 この地で念阿弥慈恩と愛洲移香斎久忠が剣道の修業に励み、奥義を極めたと伝えられています。 念阿弥慈恩(1351-? 室町時代初期の人) 剣道の流儀でもっとも早く史実として姿を現すのは、念阿弥慈恩が創始した「念流」で、鹿島の松本備前守正信(1466-1523)や塚原ト伝(1490-1571)が活躍する百年前のことです。 慈恩は奥州相馬の人で、父の仇を討つために日夜武道に励み、京都の鞍馬山、鎌倉の寿福寺、筑紫の安楽寺など各地を廻国して修業を重ねました。 鵜戸神宮の洞窟に籠って「念流」を創始したと「武芸小伝」や「撃剣叢談」には記されています。 慈恩は父の仇討ちを果たした後、晩年には信州の浪合に長福寺を建立し、念大和尚と称して毎日を仏道に過ごしたといいます。 「念流」の正統は「馬庭念流」として、今日も継承されています。 愛洲移香斎久忠(1452-1538 戦国時代前半の人) 愛洲移香斎は伊勢の愛洲氏の出身といわれ、修験者や熊野海賊(倭寇)だったとの説や、愛洲氏は有力な氏族であり海の民の棟梁一族だったともいわれています。 (当時、各地の海の民は東南アジアの各地に出かけて交易を行い、時には明国などの沿海で密貿易や略奪を行うなど倭寇として恐れられていました。) 36歳のときに日向国鵜戸の岩窟に参籠(一説には3711日)して、満願の日の未明に神が蜘蛛の姿になって現れ奥義を示したといわれ、「陰(影)の流」という流派を創始しました。 中国の兵法書「武備志」という本に、移香斎の死後20年くらい経った頃の出来事で倭寇が「陰流之目録」という巻物を落としていったとして、猿の絵を用いて剣法を示した内容がそのまま詳しく載せられており、「陰の流」がすでに剣法として確立していたことがわかります。 「陰の流」は子の小七郎を通じて、上泉伊勢守信綱(はじめは秀綱)(1508-1577?)に伝わり、「新陰流」へと繋がっていき、剣道流派の主流となっていきました。 上泉伊勢守は、永禄9年(1566)に免許皆伝として柳生石舟斎宗厳(むねよし)(1527-1606)に与えた「新陰流目録」の前書きに、「自分は諸流の奥義を究めたが、なかんずく陰流の妙意を取り出して「新陰流」と号した」と述べています。 移香斎は晩年に再び日向国で過ごし、鵜戸明神の神職になって日向守と称し、天文7年(1538)87歳で亡くなりました。 |
ハイビスカス 南の島の原色の花です。 |
アメリカデイゴ |
ハマヒルガオ |
ハマヒルガオ |
坊主頭の蘇鉄 |
駐車場から歩いて10分か15分くらいで神門に着きました。 (神社に近い方の駐車場からは歩いて数分です。) |
社務所 |
楼門 |
楼門の正面には大きな絵馬が掲げられています。 「是の漂える国を 修理(つくり)固め成せ」 天つ神のご命令『古事記より』 千年、2千年前には国は生まれたばかりで漂っていたでしょうが、現代ではせめて普通に仕事ができて、毎日の生活の心配はしないで済む世の中になって欲しいですね。 「記紀編纂1300年ゆかりの地」 鵜戸神宮も古事記や日本書紀に記された神話の中心舞台の一つです。 失くした釣り針を探して海神宮(わだつみのみや)を訪れた山幸彦(ホオリノミコト=ヒコホホデミノミコト)は、そこで海神の娘トヨタマヒメと結ばれた。 海神国から帰ってきた山幸彦は兄の海幸彦(ホデリノミコト)を服属させたが、まもなくトヨタマヒメが後を追ってきた。 「私は身籠って出産が近くなったので、やって参りました。天つ神の御子を海原で産むことはできません。早く産屋を用意してください。」 山幸彦は急いで産屋を建てることになり、軽い鵜の羽で屋根を葺き始めたが、すべて葺き終わらないうちに御子が生まれたので、名前を「ウガヤフキアヘズ」と名づけた。 ところで、トヨタマは産屋に入るときに、「私は自分の母国の者の姿になって子を生みます。決して私の姿を見ないでください」と頼んだ。山幸彦はどうしても見たくなり、そっと覗いてみるとトヨタマは八尋もある大鰐(わに)となって身をくねらせていた。山幸彦は恐ろしくなって逃げ出してしまった。 お産が終わってトヨタマは「あなたは私の姿を見ましたね。私は恥ずかしいので、もうここにはおれません」と言って、海神国へ帰ってしまったが、わが子とわが夫への思いに耐えられず、妹のタマヨリヒメを遣わし、養育にあたらせた。このとき夫を想う歌を託し、山幸彦も「ことあるたびに思い出す」と返歌を送った。 ウガヤフキアヘズは叔母のタマヨリに育てられ、すくすくと成長し、やがてタマヨリヒメを妃としてイツセ、イナヒ、ミケヌ、ワカミケヌの四皇子をもうけられた。末子のワケミケヌが後の神武天皇である。 『古事記』より |
崖の上に作られている参道を進みます。 |
右手に日向灘を眺めながら、岩窟の中に建てられた神社を目指して参道を下っていきます。 |
記紀によると天皇家のご先祖が祀られており、多くの皇族方がご参拝されています。 (ご祭神のウガヤフキアヘズノミコトは神武天皇の父にあたります。) |
参道の千鳥橋 |
「鵜戸の海 夕虹明し まさしくぞ 神降り立たす 天の浮橋」北原白秋 |
参道の神橋(玉橋、鵜戸の反り橋) 朱塗りの反り橋を渡って急な崖の階段を下ると本殿のある岩窟に到着します。 |
神橋を渡るとそこからは尊い御神域で、昔は履物を脱いではだしでお参りをしていたそうです。 |
本殿のある洞窟が見えてきました。 |
絶壁の下に大きな洞窟が広がっています。 |
すぐ前には奇怪な形をした大きな岩が屹立しています。 |
岩のてっぺんには堅い岩が残っています。 |
「鵜戸神宮は社伝によると崇神天皇(4世紀前半に存在したといわれている)の代に創建し、桓武天皇の勅令により、光喜坊快久が神殿および仁王護国寺を再興し、中世には「鵜戸六所大権現」、江戸時代には「鵜戸山大権現」として日向国内外から厚い信仰を得ていた。 現在の本殿は、江戸時代1711年に飫肥藩五代藩主伊東祐実が改築したもので、その後、明治、昭和に修理が行われたもので、権現造風の八棟造は往時のまま」とのことです。 |
鵜戸神宮本殿はこの洞窟の中に建造されており、トヨタマヒメはここに造られた産屋でウガヤフキアヘズを生んだと伝えられています。 |
![]() |
![]() |