中世には西都原台地は笠狭(かささ)と呼ばれ、中笠狭の三宅神社のある三宅郷は古くは「可愛田原(えのたばる)」、男狭穂塚は「可愛塚(えのつか)」と呼ばれ、三宅郷内には「日向(ひむか)、可愛田原、指長、上園、大尾」の五邑がありました。(1173年、石貫神社申上口上書」 景行天皇が「丹裳小野(にものおの)」の地に遊び、日の出づる方向に向かっているので日向(ひむか)と名づけたといわれるこの伝承地も古墳群の南端に現存しているそうで、この一帯は神話伝承に満ち溢れています。 西都原古墳群の中の日本最大の帆立貝式古墳の「男狭穂(おさほ)塚」、九州最大の前方後円墳の「女狭穂(めさほ)塚」は伝承によれば「男狭穂塚」はニニギノミコトの墓、「女狭穂塚」はコノハナサクヤヒメの墓とされてきました。 正確なことは古墳の発掘による埋葬主体部や副葬品の調査によらないとはっきりしないのは当然ですが、現在のところ両古墳は5世紀前半の築造と考えられ、この時代を想定すると、女狭穂塚には仁徳天皇の妃となった「髪長媛(かみながひめ)」が葬られており、男狭穂塚には髪長媛の父親・諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)が葬られているとする説が主流となっているようです。 神武天皇以降の天皇の妃には日向の豪族の娘が選ばれ、5世紀前半の仁徳天皇の妃「髪長姫」まで大王家と婚姻関係で強く結ばれた一時期を持っていました。 しかし、この時期を過ぎると日向の名前はあまり現れなくなります。 日向の古墳からほとんど青銅器は出土していません。 弥生時代から古墳時代にかけて日向王朝とも称される日本の神話の主力を成した豪族たちは、神武天皇が部下たちを引き連れて東征したという記紀の記述のとおり、だんだん九州北部や瀬戸内、近畿地方へと移っていったようです。 邪馬台国の比定地として現在、北部九州説と畿内・奈良の纒向説が主流となっていますが、その他の地域も全く可能性がないわけではありません。南九州の西都説のファンも女狭穂塚が卑弥呼の墓でなくてもまだ夢は残ります。 「卑弥呼以って死す。大いに?(ちょう)を作る。径百余歩、徇葬(じゅんそう)する者、奴婢(ぬひ)百余人」 (魏志倭人伝) 径百余歩の古墳は西都原古墳群かその周辺(近くの生目(いきめ)古墳群は大型古墳の築造が3世紀後半から始まっている)にあって、卑弥呼はこの地に眠っているかもしれないと想像しながら散歩するのも楽しいものです。 あるいは、卑弥呼も一族とともに北部九州へ移っていったのでしょうか。 (径百余歩は約140m前後(大きいという表現?)。卑弥呼が亡くなったのは西暦248年。) |
日本最大の帆立貝式古墳の「男狭穂(おさほ)塚」、九州最大の前方後円墳の「女狭穂(めさほ)塚」のある区域は宮内省の陵墓参考地に指定されており、域内への立ち入りは認められておらず、調査に際しての発掘も認められていません。 この右側(東側)の広い区域(古墳群の中央部分)には一つの古墳もなく、祭祀が執り行われたスペースではないかとも考えられています。(大正時代にはここに競馬場が造られていたそうです。) |
木々の向こうに見えるのが「女狭穂塚」です。 |
女狭穂塚の上部にも木が生え大きく成長しています。 |
陵墓参考地の入口。 一般の立ち入りはできない。 |
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(図面は『古代日向・神話と歴史の間』北郷泰道著 より転載) 男狭穂塚が前方後円墳とすると細い前方部分が壊されたように見えるので、以前は女狭穂塚を作る際に一部が壊されたと考えられていたが、最近(2004-2007)の古墳表面や地中レーダー調査などにより、前方部分の一部とされてきた女狭穂塚に近い細長い盛り土(図の「謎の細長い堤」部分)が古墳の墳丘の土質とは異なる構築物で、土地の伝承と合わせると16世紀戦国時代に都於郡城を本拠地とした伊東氏が弓の練習の的場として構築したものらしく、古墳本来の構築物とは関係ないことが判明しました。 最近ではこの二つの古墳は当初から現在の形で作られ、男狭穂塚は帆立貝式古墳と考えられています。 正確なことは古墳の発掘による埋葬主体部や副葬品の調査によらないとはっきりしないが、両古墳は5世紀前半の築造と考えられ、この時代を想定すると邪馬台国の女王「卑弥呼」やニニギノミコトの妻となった「コノハナサクヤヒメ」の墓と言われてきた女狭穂塚は、仁徳天皇の妃となった「髪長媛」が葬られており、男狭穂塚には髪長媛の父親・諸県君牛諸井が葬られているとする説が主流となっているようです。 |
宮内庁の陵墓参考地の掲示。 |
陵墓参考地内の男狭穂塚、女狭穂塚への参道。 参道の突き当たりの左側が女狭穂塚。右側が男狭穂塚です。 |
木々の向こうに男狭穂塚が横たわっています。 男狭穂塚の近くの陪塚169号墳(飯盛塚、径44mの円墳)から子持家形埴輪、家形埴輪、舟形埴輪、(衝角付き、眉庇(まびさし)付き)甲形(かぶとがた)武具埴輪などが出土し、このうち子持家形埴輪、舟形埴輪は全国でも類例のない形状の埴輪です。 |
西都原台地の北端に位置する第3古墳群の案内板。 88基の古墳が存在し、前方後円墳は1基(船塚、265墳)のみで、他は円墳です。 |
111号墳 上に登って周りを見渡すことができるようになっています。 |
第3古墳群の風景 |
111号墳の西隣の古墳 |
第3古墳群の風景 |
第3古墳群の風景 |
111号墳の西隣の古墳 |
西都原台地の東端に位置する第2古墳群の案内板。 「前方後円墳10基、円墳29基があり、この他に地下に埋葬施設を設ける地下式横穴墓が5基確認されている。 これらの古墳が作られた時期は、4世紀初めから5世紀頃までの間と考えられています。」 |
このゾーンは広々とした草原で、緑にあふれた気持ちのいい空間でした。 |
天気の良いゴールデンウィークにかかわらずまわりには人の姿もなく、時間がゆっくり流れるすばらしい空間を独り占めしてしばらく過ごしました。 |
広場にそびえる楠の木。 |
大木となったセンダンの木 |
新鮮な若葉や花のつぼみが広がっています。 |
2本のセンダンの木はあと2,3日で薄紫の花の満開になりそうでした。 |
公園内の畑にはサツマイモなどが植えられています。後方は女狭穂塚のある森です。 周辺の畑には春(3月下旬〜4月上旬)には菜の花、秋(10月頃)にはコスモスが植えられ、あたり一面がお花畑になります。 西都原古墳群は古代のロマンを思い、緑あふれる広場のフィトンチッドを全身に浴び、心身ともにゆったりと癒された散歩道でした。 |
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(参考資料)
「古代日向の国」日高正晴 NHK Books
「古代日向・神話と歴史の間」北郷泰道 鉱脈社
「天皇家の"ふるさと"日向をゆく」梅原猛 新潮社
「邪馬台国への旅」邪馬台国探検隊・編 東京書籍
「新説邪馬台国」はるかなる西都原への道 清水正紀 徳間書店
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