九州あちこち歴史散歩★歴史と文化の道(1)照国神社など          サイトマップ

歴史と文化の道(1)照国神社など

   城山公園から降りて、麓にある照国神社や鶴丸城跡を目指しました。
 この一帯は「歴史と文化の道」として多くの施設が集まっていて、歩道などもきれいに整備されており、照国神社、西郷隆盛銅像、鶴丸城跡、薩摩義士碑、私学校跡、小松帯刀像など歴史的な施設や、市立美術館、県立図書館、かごしま近代文学館、かごしまメルヘン館、県立博物館、中央公会堂など文化的な施設が集まっていました。
 このページでは照国神社、西郷隆盛銅像、市立美術館などを紹介しています。




「照国神社」扁額

 照国神社の御祭神は薩摩藩島津家第28代藩主島津斉彬(なりあきら)公(1809-1858,49歳)です。
 島津斉彬公は1851年、43歳で藩主に就き、幕末の多難な状況に対応して国事に奔走しました。
 欧米諸国のアジア進出の情勢を踏まえて日本を強く豊かな国にするため積極的に西洋の科学技術の導入に努め、日本初の西洋式工場群「集成館」や紡績、造船工場などを鹿児島に設置し、「富国強兵」「殖産興業」の理念のもとに近代日本の礎を築きました。
 また、明治維新に活躍した多くの人材も育成しました。
 幕末の討幕運動から明治維新にかけて薩摩藩、長州藩が中心となって活躍しましたが、これらは藩の武力や藩士の魂の強さだけでなく、欧米諸国の強さなども実際に知ったうえで日本をどうするかの具体的な方針、「尊王倒幕」などのビジョン(もちろんそれぞれの時期、状況によって変動していきましたが)を持って行動できたことも大きかったのではないでしょうか。
 勝海舟は現実をよく理解している斉彬を「日本一英邁(えいまい)な藩主」と評していました。
 斉彬公の死後、朝廷はその功績を讃え「照国大明神」の神号を贈り、1864年、鶴丸城西側に照国神社が創建されました。境内や周辺に島津斉彬、久光、忠義公の銅像が建っています。


境内の巨大な植栽オブジェ

 境内には羽根を広げた鳥のような大きな植栽のオブジェがありました。
 神社の前には巨大な鳥居が建っているのですが、大きすぎて写真に収めることができませんでした。


境内の満開の白百合

 境内では美しい百合の花が満開でした。


照国神社にお参りに来ていた姉妹

 照国神社にお参りにきていた家族に会いました。
 かわいい姉妹は元気で聡明な「薩摩おごじょ」に成長していくことでしょう。
 着物はお母さんが着ていたものを子供にあわせて作り直したそうで、お母さんも子どもの頃におばあちゃんにそうしてもらったのでしょう。
 今でも昔からの習慣をしっかり守って、母から子へと手作りの愛情が伝わっているのですね。


「歴史と文化の道」の整備された歩道

「歴史と文化の道」はきれいに整備されていました。


西郷隆盛銅像

西郷隆盛銅像
 西郷さん(1827-1877)は通称吉之助といい南洲と号しました。
「敬天愛人」を人生訓とし、その言葉のままに天を相手に人生を全うした誠心の明治維新の指導者で、江戸無血開城を実現し、日本の内戦の危機を救いました。
 明治天皇の信頼が厚く、日本最初の陸軍元帥兼近衛都督陸軍大将になりましたが、征韓論で意見が合わず下野し、鹿児島に帰省。最後は若者たちに命を預け西南戦争に立ち上がり九州内を転戦した後、城山で自刃しました。
 その誠実な生きざまは、今もなお郷土鹿児島の人たちに最も愛されています。

 西郷隆盛については「城山展望台と西郷洞窟」でも触れています。


県立美術館正面

市立美術館正面
「歴史と文化の道」を進むと「市立美術館」があったので気持ちのいい庭を散歩しました。


「ユスダッシュ・ド・サン=ピエール」ロダン作

「ユスダッシュ・ド・サン=ピエール」
 オーギュスト・ロダン(1840-1917) 1889年製作


「オルフェ」ザッキン作

「オルフェ」
 オシップ・ザッキン(1890-1967) 1959年製作


「歴史と文化の道」の史跡案内板

「歴史と文化の道」の史跡(施設)案内板
 このようにわかりやすい案内板があると史跡を訪ね歩く者にとってはありがたいことです。





「歴史と文化の道」周辺地図

「歴史と文化の道」周辺地図
 この一帯に、鶴丸城を中心とする歴史的施設、市立美術館などの文化的施設が整備されています。
(後で見ると、この地図は非常にわかりやすく描かれているので、歩き回る前にしっかり見ればよかったのに!と思いました。次ページで触れますが、私学校跡の「西南戦争の銃弾跡」も正確な地点が記されています。)


「ウィリス、高木に西洋医学を説く」

「ウィリス、高木に西洋医学を説く」
 交差点に明治時代の二人が立っていました。
 高木兼寛(1849-1920)は医学を志し、18歳の時に鹿児島の近代医学の祖である薩摩藩蘭方医石神良策に師事し、戊辰戦争(1868年)のときには薩摩藩の軍医として従事しました。
 明治2年(1869)開成所洋学局に入学し、英語と西洋医学を学び、明治3年(1870)薩摩藩によって開設された鹿児島医学校に入学し、校長のウィリアム・ウィリスに認められ教授となりました。
 明治5年、海軍に入り軍医として活躍し、日本の医学の発展に貢献しました。


ど根性「アコウ」の木

 大きな「アコウ」の木が石壁にへばりついていました。


ど根性「アコウ」の木

 石壁のこちら側にへばりついて聳えている感じで、「ど根性アコウ」に見えます。
 ここまで大きくなるまでによくも台風に吹き倒されなかったものですね。


「鹿児島県立図書館」正面

「県立図書館」正面


「鹿児島県立博物館」正面

「県立博物館」正面
 入口ではかわいいトリケラトプス(手前の黄色)とティラノサウルス(階段の向こう側の赤色)が歓迎しています。


鯉が泳ぐ「歴史と文化の道」側溝

 歩道の側溝にはきれいな水が流れ、鯉が泳いでいました。




   

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