「歴史と文化の道」を照国神社から歩いていくと東北の区画に鶴丸城、薩摩義士碑、私学校跡などの史跡がありました。 戦国時代、江戸時代、幕末、明治維新の時代の流れで島津藩の動向は、九州や日本の進む道に大きな影響を与えました。 それらのできごとを思い出しながら、先ず、鶴丸城跡から散歩を始めました。 |
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「史跡 鶴丸城跡」の碑 正面入り口に島津藩の歴史を感じさせる書体の石碑が建っていて、私たちの入城を待っていました。 |
鶴丸城を取り巻く堀には蓮が茂っています。 島津軍の関が原の戦いエピソード(1) 関が原の戦いに際して、島津家当主の島津義久は出兵すべきでないとの考えで島津家としての出兵はなかった。 しかし、木崎原の戦い(vs伊東義祐)、耳川(高城)の戦い(vs大友宗麟)、九州全土制圧戦(高橋紹運、立花宗茂ら)、豊臣秀吉の九州征伐軍との戦い、朝鮮出兵など常に戦争の前線で戦ってきた義久の弟義弘は、天下がだんだん統一されつつあるときに、天下を二分する戦いに出ないで生き延びることはできないと考え兄義久に何度も出兵を要請したが意見は通らず、結局義弘の部下だけを関が原に呼び集めた。急を聞いた部下たちは三々五々と駆けつけた。甥の佐土原城主島津豊久(義弘の末弟家久の嫡男)も数百の兵を引き連れて馳せ参じてきたが、それでも島津軍は最終的に1,500人という寡兵で戦うことになった。島津軍というより島津義弘義勇軍というべき軍兵である。 戦うといっても島津軍には豊臣秀吉か徳川家康のどちらかのために戦う恩義はなく、どちらか一方に加担する気はなかった。(どちらかといえばそれまでの薩摩の内乱(庄内の乱)などに際して家康の配慮に恩義を感じており、石田三成には数年前の薩摩大隅の太閤検地の際の横柄な指図で苦労を味わされていた。) |
鶴丸城の説明文 鶴丸城は1606年、島津家久(忠恒。島津四兄弟の四男の家久ではなく、四兄弟次男義弘の次男)が建造した天守閣のない屋形づくりの城です。 77万石の大藩の城としては実に簡素なものですが、これは「城をもって守りとなさず、人をもって城となす」という薩摩藩の思想によるものだそうです。 島津軍の関が原の戦いエピソード(2) 最初、島津義弘は徳川方鳥居元忠が守る伏見城に赴き、城の守備に加わりたいと伝えた。(以前に義弘は家康に依頼されていたともいわれている)。しかし、元忠は家康から何も聞いていなかったのでこの申し出を断り、義弘は再三元忠とも親しい重臣を遣わしたが追い返され、最後には鉄砲を撃ちかけられた。 もちろん、家康から島津のことを聞いていない鳥居元忠としては当然の対応をしたのであって、非があるわけではない。家康が今川の人質になっていたときから付き従っていた忠臣元忠は、石田三成の決起を予期していた家康が会津討伐に向かうに先立ち伏見城の守りを託され、水杯を交わして別れた。元忠は1,800名の兵で、4万の兵で包囲した西軍に対し13日間伏見城を死守し、最後は甲賀衆の裏切りにより雑賀孫一に首を打たれたといわれる。 その首は京橋口に晒されていたが、その武勇に感激した町衆によって盗み出され、知恩院にひそかに葬られた。 入城を拒まれた島津軍はやむなく西軍に属するしかなく、伏見城が落ちると大垣城に進んだ。 島津義弘・豊久は作戦会議で「家康が遠路到着した夜に奇襲攻撃をかけるべき」と主張したが、三成らに「そのような田舎の小さな戦い方ではなく、堂々と戦うべし」といって反対された。 三成は家康の「関が原を抜けて佐和山城を攻める」との情報に踊らされ、大垣城を捨てて関が原において東軍を迎え撃つ策を取り、9月15日の前夜に雨の中を全軍が関が原に移動した。 義弘は戦いを知らない三成らといっしょに戦う気にはなれなかった。 (3週間前、前哨戦の墨俣城近辺の戦いにおいて、最前線で戦っていた島津軍を見殺しにして石田三成軍は勝手に撤退してしまったこともあった。このときは後陣にいた義弘が最前線の豊久軍の救援に駆けつけ、対陣には黒田長政軍が攻めてきていたが、島津の「釣り野伏せ」の怖さを知っている長政は追撃を行わず、島津軍は辛うじて帰陣することができた。) |
鶴丸城の正面の石橋 城は明治6年(1873)に炎上し、この石橋と城壁だけが残ったそうです。 島津軍の関が原の戦いエピソード(3) 島津軍は関が原の戦いに際しては陣地から一歩も動かず、戦いの最中に三成が「出陣を」と言ってきたときに豊久は「今日の合戦はおいどんなはおいどんなで武名をかけもす。面々切りに手柄次第にお働きもっせ。勝敗は天地の間。石田どん、おさらばでごわす」と答えた。 島津勢は島津勢のやり方で戦うから、みんなもそれぞれのやり方で手柄を立てたらいい、と突っぱねたのである。三成は何も言わずに帰っていった。 義弘は「どちらに恩義もないが、東軍で戦うつもりがなりゆきで西軍に陣をしいている。これも神仏の思し召しであろう。西軍に組した以上、東軍が優勢になっても寝返ることだけは絶対しない。だが、意味のない戦いはしない。島津の誇りをどういう形で天下に示そうか」と考えていた。 天下分け目の戦いは西軍の大谷吉継軍や島左近らの石田勢、宇喜田勢らの奮闘で西軍が有利に戦いを進めていた。 正午過ぎになって西側の小松山に陣していた1万5千人の西軍小早川秀秋が突如裏切り西軍の大谷軍を目指して突進してきた。次いで脇坂・朽木・小川・赤座の4隊5千人の兵も裏切り西軍に突っ込んできた。これで大勢は決した。西軍は総崩れとなった。 義弘は「島津の兵が5千あれば、今日の戦いは勝ったであろうに…」と悔しがったという。もし5千の兵がいたら戦いの様相はどのようになっていたであろうか。 |
一重の城壁に囲まれているだけですが、正面は小型ながら枡形虎口になっています。 島津軍の関が原の戦いエピソード(4)「島津の退き口」 西軍の敗戦濃厚になった午後2時頃、島津軍は「敵に背中は見せない」と東軍の中央を突破して退却するという破天荒の作戦を取った。それまで陣を一歩も動かなかったとはいえ、西軍総崩れの中ですでに四方から攻められており、兵数は半分になっていた。 命令一下、退却を開始した島津軍は前面にいる松平忠吉隊、井伊直政隊を一気に突破した。戦いの中ごろに桃配山から前線近くの陣馬野に前進していた家康本陣の前を猛烈な勢いで駆け抜けていった。そのあまりの凄まじさに福島隊は一瞬たじろいだ。しかし、松平、井伊隊がすぐに体制を建て直し追撃にかかった。 島津隊は烏頭坂(うとうざか)にさしかかるころには兵数はさらに半減していたが、それまでずっと殿(しんがり)を守っていた島津豊久は2,30人の鉄砲を持った兵とともに走るのを止め、道に防御線を張った。島津の決死「捨て奸(がまり)」で、自分たちの命を捨てて防戦し大将が逃げる時間を稼ぐ作戦である。 豊久らは勇敢に戦い時間を稼いだがやがて圧倒的な大軍勢に粉砕された。島津軍はこのような「捨て奸」を繰り返しながら伊勢路を南へ進んだ。 島津義弘を守っていた重臣阿多盛淳は「大将の陣羽織をお借り申す」といって自分がそれを羽織り、殿に戻り「我こそは島津義弘なり」と大声で呼ばわり「捨て奸」の陣を敷き、命をかけて大将を守って討ち死にした。このとき義弘主従はわずか数十人になっていた。 松平、井伊隊も中央を突破された恥を注がんと武士の面目にかけて大将が先頭に立って必死に追いすがってきたが、井伊直政は落馬し、松平忠吉は鉄砲で腰を撃たれて負傷、やがて家康の追撃止めの命令が届いた。 |
鹿児島県歴史資料センター「黎明館」 城は炎上したため、現在は歴史資料センターが建てられていました。 島津軍の関が原の戦いエピソード(5) 敵中突破した島津義弘の軍勢(というよりわずか数十名の主従)は落ち武者狩りの連中と戦いながら、伊勢路から伊賀の山中を一週間かけて越えて堺に出、堺から船で大坂に入り、大坂で人質となっていた義弘と忠恒の夫人を救い出し、大坂屋敷の家臣をまとめ数十艘の船で薩摩に帰った。 帰路でも豊後水道で黒田官兵衛の軍船に攻撃され38人が討ち死にし、侍女7,8人が生け捕られた。日向細島に着き、佐土原城に寄り城主豊久の戦死をその家族に伝え、東軍方からの攻撃を避けるため山越えで薩摩にたどりついた。 島津義弘の軍勢で薩摩に帰り着いたのは、遅れて生還した者を含めわずか100人前後だったといわれる。 しかし、退却にあたり堂々「敵中突破」で敵将徳川家康の面前をかすめて脱出したという戦闘は全国に知れ渡り、その勇敢な「薩摩の退き口(のきぐち)」は長く国民の喝采を浴びた。 この後、西軍側だった島津氏は義久を中心に徳川家康と2年近くにわたって粘り強く折衝を続け、従来の土地を安堵された。 西軍に属した武将は(東軍家康に内応して一人の兵も自陣を動かなかった)毛利氏を初め重く罰せられ、領土の没収、削減移封が行われた中で、薩摩大隅日向諸県(もろかた)の領国を支配する島津氏がそのまま安堵されたのは島津氏の粘り勝ちであった。 毛利氏に続いて島津氏の領土の縮小を狙った家康も、島津軍の勇猛果敢さにうかつに手を出せなかったのであろう。 当主の義久と義弘は意見は相違したが、ともに島津家をどうしたら存続できるか、強くできるかという前向きの意見の違いであり、仲が悪かったわけではない。 戦国時代は領地や相続を求めて兄弟で争う例が多かったが、島津義久、義弘、歳久、家久の「島津四兄弟」は仲が良く、戦いの方針で意見が相違するときはあったが、それまで各家の勢力が分立して島津本家の力がそれ程強くなかった薩摩大隅で島津本家の力を強大にすることに尽力した。 当主義久が島津家が生き延びるための深謀遠慮の戦略をたて、義弘は戦国時代の真っ只中、常に戦いの最前線に立って戦い続けた。兄弟が(戦いの半ばにして斃れていった者を含め)力を合わせ、島津の力を削ぎたかった秀吉、家康に対抗し、ついにその領国を守ったまま島津藩として継続することを認めさせた。 歳久、家久も戦術に巧みで、歳久は豊臣秀吉の九州征伐に際して最後まで徹底抗戦を主張し、配下に秀吉の乗る籠に矢を射掛けさせ、これが原因で後に秀吉に切腹を命じられた。 佐土原城主家久は沖田畷の戦いで肥前の熊・龍造寺隆信を破り、島津が九州を席巻する大きな契機となった。後に秀吉軍との和睦の会議から帰った直後に急死したことから毒殺説が取り沙汰されている。 1602年、領土を安堵された島津家は義弘の次男忠恒が18代として家督を相続し(長男久保は朝鮮で戦死)、後に家康から家の字をもらって家久と名乗り、島津藩の初代藩主となった。 |
南東側から臨む鶴丸城城壁 島津軍の関が原の戦いエピソード(6) 「薩摩の退き口」で「チェスト!」の声がこだましたか? 「チェスト!」は示現(じげん)流の掛け声とされる。(「きぇー」「ひぇー」などの絶叫(猿叫)を「チェスト!」と表現しているだけで、実際に「チェスト!」と発声するわけではない。) 示現流の開祖東郷重位(ちゅうい、じゅうい)は、九州全土制圧を目指して北上した「岩屋城の戦い」の翌年(1587)に藩主島津義久のお供をして京に上り、善吉和尚と出会って、天真正自顕(じげん)流の教えを受けている。天正16年(1588)6月に自顕流の免許皆伝を受け、さらに郷里に帰って数年間研鑽に努めた後、小さな道場を開いた。 流派は次第に広まり、慶長9年(1604)(1597とも)、藩の剣術師範となり流派名も示現流と改めた。このあと島津藩内では示現流が中心となっていく。(藩外不出の御留流となった)。 関が原の戦いの行われた1600年にはすでに示現流は藩内で主流になっていたので、示現流の絶叫は関が原にこだましたことであろう。この時、野太刀兵法の達人であった薬丸壱岐守も参戦し生還しており、後にその孫薬丸兼陳(東郷重位の五高弟の一人)が示現流に野太刀兵法を加え、分派の薬丸自顕流(野太刀自顕流)を興し、そのさらに実戦的な流儀が受け入れられ主に下級武士の間に広まった。(幕末、新撰組が「なんとしても一の太刀を外せ」と恐れたのは、薬丸自顕流の志士たちの太刀筋である。) また、示現流が広まる以前は、人吉藩の丸目蔵人佐(くらんどのすけ)の創始したタイ捨(しゃ)流が主流だったが、こちらの掛け声も大きいので(絶叫ほどではないが)、どちらの流派であろうと「薩摩の退き口」に際しては全員の掛け声が相手を圧倒したと思われる。 |
「天璋院(篤姫)」(1836-1883) 2008年のNHK大河ドラマで一躍有名になりましたね。 薩摩藩島津家支族の今和泉領主の娘として生まれ、幼少から聡明利発な子でした。幕府と島津藩の思惑が一致し将軍との政略結婚のため本家島津藩主斉彬(なりあきら)の養女となり、さらに公家近衛家の養女となって体裁を整え、1856年江戸城に入り江戸幕府第13代将軍徳川家定の正室となりました。病弱だった家定は2年足らずで没したので落飾して天璋院と称しました。 1868年の戊辰戦争では朝廷や新政府軍に対して、14代将軍家茂夫人(静寛院宮=皇女和宮(かずのみや))とともに徳川家存続のために尽力しました。 「私は徳川家に嫁いできたからには生命あるかぎり徳川家の人として生き、当家の土となる覚悟です。自分の生きている間に徳川に万一のことがあれば、亡き夫家定に合わせる顔がありません。寝食を忘れ嘆き悲しんでいる心中を察して、私どもの命を救うことより、徳川家をお救い下されば、これ以上の喜びはありません。これを頼めるのはあなた様をおいてほかにいません。」 徳川家の人間として新政府軍(官軍)を率いていた東征大総督府下参謀・西郷隆盛に徳川家存続を願う長文の嘆願書は心を打つものがあります。西郷もこの手紙を涙を流しながら読んだと伝わっています。 天璋院は島津藩の帰省の申し出を断り、結婚してからはずっと江戸で過ごし、郷里鹿児島の土を踏むことは二度とありませんでした。 江戸城退去に際しては城に詰めていた大勢の侍女たちの身の振り方を手配してやり、自分はずっとつましく生きました。 13代将軍夫人天璋院は武家出身、14代将軍夫人皇女和宮は皇室出身で生活習慣の違いもあり、大奥ではこの嫁姑は不仲だったようですが、大政奉還後は二人は時々会ったりして和解していたと勝海舟は「海舟座談」で述べています。 天璋院は犬が好きで結婚前は多数の狆(ちん)を飼っていましたが、夫家定が犬嫌いだったので、結婚後は猫を飼っていたそうです。 日本で最初にミシンを使った人物といわれています。ミシンはペリー提督が持ってきたようです。 明治16年(1883)病没。享年49歳。 「立ち迷う雲もそなたに吹き晴れて さやかに昇る山の端の月」 (生前、夫家定を偲んで詠んだ歌とされています。いっしょに過ごしたのはわずか2年足らずでした。) |
鶴丸城の裏側から城外に出ると、「薩摩義士碑」の案内幟が続いていました。 |
「薩摩義士碑」 城山の麓に建てられています。 |
「薩摩義士碑」の説明文 江戸時代中頃(1753年)に幕府から木曽川改修の難工事を命じられた薩摩藩は1,000人の武士を派遣しましたが、困難な工事が続き、84人の犠牲者を出し、工費も予算を大幅に上回り、完成後に総奉行・家老の平田靱負(ゆきえ)は責任を取って自刃したそうです。 各藩に大工事や参勤交代を命じて藩の力を弱めるのが幕府の方針だったので、どの藩もこうした犠牲者が出ていますね。 |
鶴丸城の東側に「私学校跡」があり、「西南戦争の銃弾跡」を見に行きました。 「私学校跡」の正面側(南西側)に案内板が立っていました。 左側の説明文 「明治10年(1877)5月から、鹿児島の争奪をめぐり、政府軍と西郷軍の間に激しい攻防が繰り広げられました。 特に、この私学校周辺では同年9月に、主として政府軍によって放たれた銃弾の跡が今でも生々しく残っています。」 |
私は案内板の立っている南西側石垣を見て歩きました。 上の写真のようにあちこちに銃弾の跡が見られますが、それほど多くはありません。直径20センチ前後で深さ1センチくらい掘れている跡もあちこちにあり、これも砲弾か何かの跡かなあ、と考えながら正面入り口の方まで10分くらい行ったり来たりしながら見て歩きましたが、パラパラと見つかる程度でした。 坂本龍馬や近藤勇などの柱への刀傷なら一か所あればそれで十分だが、銃弾の跡ならもう少し跡があってもいいのだが…と石垣を眺めていると、勤め帰りのお嬢さんが近寄ってきて「銃弾の跡ならこちら側が多いですよ」と教えてくれ、そこまで案内してくれました。 私の頭は単細胞で案内板のある面の石垣しか念頭になく、他の区画かも知れないなどという柔軟な発想は全く起こらなかった(生まれつきのものだが、まあ歳のせいにしておこう!)ので、銃弾跡はこんなものだと誤解してそのまま帰るところでした。 (案内板に図示してあったらすぐわかったのだが…。その点、前ページのこの一帯の案内地図には銃弾跡の的確なポイントが明示されていた。よく見ておけばよかった!) |
「銃弾跡は(「歴史と文化の道」に面した)南東側の石垣にたくさんあります」とお嬢さんが教えてくれ、どのあたりが一番多いかわざわざ向こうの端まで行って調べてくれました。 銃弾跡を知らないまま帰ろうとしていた私にとって実にありがたいことでした。 (激戦跡の銃弾跡を知らないでそれ程でもないなと誤解したまま、もう二度と見る機会がないかもしれなかったのですから…) |
ありました。こちらの石垣にはそれこそたくさんの銃弾が撃ち込まれていました。 9月の戦いの跡とのことですから、西郷隆盛軍が3月の田原坂の戦いで官軍に敗れ、九州一円を敗走し、最後に残った数百人が鹿児島市に戻ってきて主力が城山や私学校に籠もり、それを包囲する4〜5万人の官軍と戦ったときの激戦の跡ですね。 9月24日、ここから数百メートルほどの城山の麓で西郷隆盛が自刃したとき、ある者は青春を過ごしたこの私学校に籠もり、最後の戦いに臨み多くが戦死しました。 西南戦争の最後の数日の戦いで、銃弾が雨霰と降り注いだのがよくわかりますね。 |
私学校跡の説明文 西郷隆盛は若者たちに自分の命を預けました。 |
鶴丸城の正面側城壁 年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず |
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