九州あちこち歴史散歩★城山展望台・西郷洞窟               サイトマップ

城山展望台・西郷(隆盛)洞窟

   5月に鹿児島に行きました。
 小学6年の時の修学旅行以来、今回で6回目になります。
 先ず最初に「城山」の展望台から噴煙を上げる桜島を眺めて、
  「我が胸の燃ゆる想いに比ぶれば 煙は薄し桜島山」(幕末の志士・平野國臣作)
 と歌いたいと思ったのですが、あいにくの曇天で桜島は見えませんでした。
 (これまでの鹿児島訪問で3回が晴れ、3回が曇りです。)
 今回は是非とも城山の中腹にある「西郷(隆盛)洞窟」を訪れたいと思い、今回は車だったのでそこでゆっくりと過ごすことができました。
 (これまでの訪問で最初の2回は汽車、次の2回は自転車(サイクリング)、後の2回は車を使っています。1度は桜島が盛んに噴煙を上げている時にぶつかりました。)




城山展望台からの眺望

「城山」の展望台から眺めると南九州で最大の街、鹿児島市の市街地が目の前に広がっています。


城山展望台からの眺望

 錦江湾は見えますが、桜島は麓がうっすらと見えるだけで、城山をあちこち歩き回って長いこと待ったのですが雲は晴れませんでした。


城山に多い大木

 城山は緑豊かで、たくさんの大木古木が聳えています。
 城山は江戸時代には立ち入り禁止となっていたため、原生林が残り、600種余りの植物が繁茂しているそうです。


城山自然遊歩道の案内図

「城山自然遊歩道」の案内図
 鹿児島市のすぐ背後にある123メートルの低山にかかわらず、緑が豊かで格好のハイキングコースとなっています。


城山に多い大木

 市街地のすぐ近くの山ですが、深山の趣があります。


噴煙を上げる桜島

 噴煙をあげる桜島を見たかったのですが、今回はお預けです。
 (かわりに展望台にあったポスターをどうぞ)

「我が胸の燃ゆる想いに比ぶれば 煙は薄し桜島山」幕末の志士 平野國臣

 しょっちゅう激しく噴煙を上げる桜島の風景は自然の営みの激しさをわからせてくれますが、噴煙を浴びて毎回大量の火山灰の後始末を余儀なくされる市民の生活は大変です。


城山の展望台にある「城山茶屋」

 展望台にある「城山茶屋」で缶コーヒーを飲みながら天気の回復を待ちました。
「城山」は14世紀(南北朝時代)豪族上山氏の山城の跡で、明治23年、鹿児島市最初の公園として開設され、雄大な桜島、美しい錦江湾、市街地を眺める展望台(高さ107メートル)、緑豊かな遊歩道、林間で遊べるドン広場、鶴丸城の二の丸庭園であった探勝園などがあります。
 明治10年、西南戦争(西南の役)の最後の激戦地となりました。


城山の展望台にある「城山茶屋」

 周辺には遊歩道が整備されており、気持ちのいい緑の中を2時間くらい歩き回りました。


城山で出会ったお地蔵さん

 お地蔵さんに出会いました。

 


展望台に建てられている「行幸記念碑」「皇太子殿下御手植公孫樹」の碑

右側の碑は「行幸記念碑」
左側の碑は「皇太子殿下御手植公孫樹」
 昭和天皇が皇太子のときに来県された記念碑だそうです。


「城山ドン広場」

「城山ドン広場」
 明治30年以来、城山の頂上付近から正午の時報がわりに大砲の空砲が撃たれ、長い間市民に親しまれたそうです。
(昭和12年にサイレンに取って代わられた。)


城山で実っていた枇杷

 ちょうど枇杷が実をつけていました。


城山中腹にあるみやげ物店「せごどん」の挨拶文

 20歳の頃、サイクリングで九州一周をしたときに鹿児島で畑で仕事をしていたおばあちゃんに道を尋ねました。親切に説明してくれたのですが、内容は一言もわかりませんでした。純粋な鹿児島弁だと隣県の者でも全くわかりません。
(真偽の程はわかりませんが、江戸時代に島津藩では幕府の隠密を防ぐために、言葉を独特なものにしたとよく聞きました。藩で言葉を変えることまではしなかったと思われますが、他藩、他地域との交流がほとんどない地方で、古くからの言葉や言い回しがそのまま伝わってきたのでしょうね。
 どの地方でも同様ですが、現在では多くの若者たちは方言は使わずテレビ共通語(?)を使うようになり、純粋の方言はだんだん聞かれなくなる運命のようです。)


城山中腹にあるみやげ物店「せごどん」の西郷隆盛像

 城山の中腹にあるみやげ物店「せごどん(西郷どん)」の店前に建つ「西郷隆盛像」です。
 すぐ近くに「西郷洞窟」があります。





城山中腹にある「西郷隆盛洞窟」

 城山の中腹に「西郷隆盛洞窟」がありました。
 ここをどうしても訪れたかったのです。
 西郷さん(1828-1877)も最初から大人物だったわけではなく、低い身分からだんだん藩政に携わるようになりましたが、若い頃はかなりの激情家で、過激派の危険人物とみなされ、島津藩で二度までも島流しの刑を受けています。
 当時の封建主義のなかで2回も藩にたてつき、とがめられると普通は自分の身の安全を先ず第一に考えるものですが、その後も西郷さんは自分の損得ではなく、世の中の何が正しいのか、何をやらないといけないのかを先ず考えそれを実践していきました。「黒船が攻めてくる」といって国中が右往左往しているときに、このようなおおらかで柔軟な発想ができる志士は少なかったのでしょうね。


「西郷隆盛洞窟」の説明文

 幕末から明治維新にかけて日本を救った最大のできごとは、西郷隆盛と勝海舟の「江戸無血開城」だったでしょう。
 戊辰戦争を戦っていた新政府軍(官軍)大総督府参謀・西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁・勝海舟は1868年(慶応4年)3月14日、江戸高輪において会見し、江戸無血開城が実現しました。
 日本が内戦に突入すれば、当時のほかのアジア諸国のように日本も欧米列強諸国の植民地になっていた可能性も大きかったのですが、それを救ったのが自分の立場に固執せず大所からの決断を下し、決戦に向かってひた走っていた両軍を説得した西郷、勝の政治的手腕でした。
 西郷隆盛は維新三傑の一人とされています。


城山中腹にある「西郷隆盛洞窟」

 緑が茂る崖に二つの洞窟が見えます。
 西南戦争最後の司令部として、この洞窟で西郷隆盛は最後の5日間を過ごしました。

 明治6年(1873)、明治新政府の要職にあった西郷隆盛は政治方針の違いから政府を離れ、鹿児島に戻っていました。
 西郷さんも一括りに、板垣退助などの武力による「征韓論」と同じグループとされていますが、西郷の主張は「朝鮮との国交樹立問題を礼を尽くして話し合いで解決すべきで、自分が代表になって朝鮮に出向く」というもので、武力で侵攻する意図はありませんでした。いったんは閣議で了承されたのですが、「今は外国との交渉に力を注ぐべきではなく、国内の産業育成などに専念すべき」との岩倉具視や大久保利通らの「内治優先策」の主張に敗れ、西郷は新政府を離れ鹿児島に戻りました。


西郷洞窟の広場の「南洲翁洞中記念碑」

「南洲翁洞中記念碑」
 西郷洞窟のある広場に建てられています。

 西郷隆盛は生涯無私無欲を貫き通し、自分の命さえ若者たちに与えました。
「命もいらず名もいらず、爵位もいらず金もいらぬ」西郷隆盛
 自分の懐を肥やすことしか頭にない現代の政治家に爪の垢を煎じて飲ませたいですね。


西南戦争の終焉の地となった「西郷隆盛洞窟」

西郷隆盛が最後の5日間を過ごした「西郷洞窟」

 明治10年(1877)2月、鹿児島の「私学校」を中心とする士族の反乱を恐れた明治新政府は、鹿児島に数十名の密偵を潜入させ(不審者として逮捕された)、また鹿児島市内の弾薬庫から夜間に武器弾薬を大坂に移送しようとしたが、それを知った私学校の生徒たちは怒って移送中の武器や他の弾薬庫などの武器を奪取しました。
 ここに至って「私学校の首謀者を新政府に差し出すか、新政府と対決するか」を問われた西郷は、自分の命は「おはんらにやった命」として若者たちと行動を共にすることを選びました。
 西郷は最初から新政府と戦いを起こす意図はなく、各地の士族を糾合して新政府に「訊問の筋これあり」と政策の非を訴え交渉に赴こうとしたようですが、当時武士の特権を次々に奪われ新政府に不満を持つ士族が各地から加わり、熊本城を取り囲んだ時期には最大で3万人ほどの軍勢になりました。

 行動を起こした後も西郷の「おはんらにやった命」の信念は全く揺らぐことなく、新政府側からの誘いには一切応じませんでした。。
 西南の役の間中、西郷軍(薩軍)の指揮は私学校の幹部、桐野利明、別府晋介などが執り、西郷は自らは指揮せず常に陣の後方に待機していたようです。
 大久保利通らの新政府は反乱が全国に波及することを恐れ、直ちに徹底した鎮圧の方針を採りました。(鎮圧にあたり当時のわが国の年間予算の85%にあたる金額を戦費につぎ込みました。)


薩軍の幹部西郷隆盛、桐野利明、別府晋介の肖像

 幕末期、勝海舟は幕臣として軍艦奉行を勤めていたが、坂本龍馬は勝に師事していました。
 勝は龍馬を西郷隆盛に引き合わせ、後日龍馬に西郷の印象を尋ねました。
 龍馬は「われ、初めて西郷を見る。その人物、茫漠としてとらえどころなし。ちょうど大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る。」と答えました。
 勝は「知言なり。」と感心し、「評価するものが第一級の人物なら、評価される者も第一級の人物だ」と日記に書き残しています。
 一方、西郷は龍馬についてこう評しています。
 「天下に有志は多く、自分はたいていこれと交わっているが、度量の闊大なること、龍馬ほどの者はいまだ見たことがない。龍馬の度量は計り知れない。」
 お互いに相手の人となりをよく理解していますね。

「西郷は自分の主義主張を貫いたわけでもない」といって西郷を評価しない人もいますが、自分の主義主張だけに固執しなかったからこそ、勝海舟との話し合いで「江戸無血開城」が実現したのではないでしょうか。
 官軍が倒幕を掲げて江戸のすぐ手前まで到着し、戦えば勝つのは明らかな状況(幕府側で戦いを決意していたのは、会津藩と奥羽越後のいくつかの藩のみであった)で、勝てる戦いを中止し徳川家を残す方策を呑み、この方策で内戦を避けることが日本を救うことになると信じて、血気にはやる味方官軍を説得することは、西郷でないとできなかったことだと思います。他の者がそのような方策を決めたらおそらく抹殺されていたことでしょう。
 私は西郷がこうして日本の内戦を避け、外国列強の植民地になることを防いだことだけで十分西郷を尊敬します。
 西郷さんは国を救った乱世の英雄であり、実直な政治家ではなかったといえばその通りでしょう。
 西郷自身も倒幕が実現した後、大久保利通に「ここまでが軍人としてのわしの仕事。後のことはおはんに頼み申す」と言ったと伝えられています。(高杉晋作も同じことを言いました。)

 西郷隆盛は写真嫌いで一度も写真を撮らなかったといわれています。
(フルベッキ写真に写っているとの説も出されましたがどうも別人のようです。)
 西郷隆盛の肖像として流布しているものはすべてイタリア人銅版画家キヨッソーネが隆盛の死の翌年に描いたものが元となっていますが、この肖像は(隆盛に会ったこともなく写真もなかったので、兄弟や従弟なら顔が似ているだろうと)弟の西郷従道と従弟の大山厳の顔を合成したモンタージュとの説が有力です。
 隆盛の妻イトも、浴衣姿で犬と散歩している上野公園の銅像の除幕式で「こげなお人じゃなかった」と言ったと伝わっています。これが顔のことなのか、浴衣姿で散歩などしなかったという意味なのか不明ですが・・
 本当の顔はどんな顔だったのでしょうか。
 でも西郷隆盛の顔としてすっかり私たちの脳内に刷り込まれている表情は、猶予迫らざる大人の風格を感じさせてなかなか立派な表情ですよね。


西郷隆盛が最後の5日間を過ごした「西郷洞窟」

西郷隆盛が最後の5日間を過ごした「西郷洞窟」

 明治10年2月15日、薩軍は1万3千人の兵で鹿児島を出発し、熊本鎮台のある熊本城を目指し、各地から新政府に不満を持つ士族が集まり最大で3万人の軍勢となりました。
(明治9年に新政府は廃刀、俸禄支給の廃止を定め、旧武士階級の最後の特権を奪い、全国各地で士族の反乱が起こっていました。)
 熊本城を守る新政府軍(官軍)は創設されたばかりで農民、町民の二男、三男が中心の軍隊で、実戦では本物の侍にはとても相手にならないと世間には思われていました。
 (これらの官軍は西郷が下野する前に陸軍大将として創立した軍隊でした。)
 新政府は士族の反乱が全国に波及することは絶対阻止しないと政府が崩壊する恐れもあるため、直ちに熊本城を固め薩軍の前進を阻むことを決定しました。(この決定の迅速さが官軍勝利の決定的要素の一つとなった。)
 薩軍も熊本城から攻撃を受けることは想定しておらず、攻撃を受けた後に戦略会議が開かれ、「城の回りに小規模の抑えの兵を残し主力は北上する」との案は退けられ、「全軍で熊本城を攻撃する」との方針が採用されました。
(薩軍は誰もが短期間に一蹴できると考えたのでしょうが、この経過は中山道で真田昌幸らが籠る上田城を一蹴しようとして苦戦に陥り、世紀の一戦・関ケ原の戦いに遅れた徳川秀忠軍の動きを連想させます。)
 薩軍の総攻撃が始まる22日の3日前の19日昼ごろ、熊本城内から原因不明の出火が起こり、大小天守閣、本丸御殿、多くの櫓や周辺の民家1千軒などが焼失しました。(今から思うと、二度と造ることのできない貴重な財産が失われ、なんとも残念なことです。)
 籠城した4千人の官軍城兵は鎮台指令長官谷干城(たにたてき)のもと(世間のうわさに相違して!)よく戦い、薩軍はどうしても城内に入ることができませんでした。

 全く剣の素養はないが新式のスナイドル銃を持ち集団で戦うように訓練された官軍が、従来の個人で戦う武士集団に勝利したといえるのではないでしょうか。薩軍の銃はある程度のスナイドル銃はあったが多くは旧式のエンフィールド銃で、一対一の剣では負けなかったが、銃で戦う集団としての訓練は十分とはいえなかったようです。
(幕末(1862)の薩英戦争で近代兵器の強さを経験しており、明治7年に鶴丸城内に、篠原国幹が監督する「銃隊学校」、村田新八が監督する「砲隊学校」が開設されているので、銃や大砲に対応していなかったわけではありませんが、発送の基本はあくまで武士として刀で戦うことが基本で、銃を持って集団で戦う訓練の度合いは官軍より小さかったと思われます。)

 西郷さんは「官軍に負けたのではなか。加藤清正公に負けたのだ」と言ったと伝えられています。熊本城の壮大な城壁に囲まれた守りの鉄壁さを考えるとある程度うなづけます。
(そもそも熊本城を包囲して攻める薩軍の戦略が間違っていて、熊本城の官軍は籠城しかできないので、押さえの兵だけを残してそのまま北上するのが最善だったと思われます。
 西郷さんはは戦略戦術の決定には加わらず、戦いの遂行は私学校の幹部たちに任せ、自分は常に後方に待機して戦争の責任だけはすべて自分で負ったようです。
 薩軍にとっては、熊本城を落として各地の士族を糾合しながら京・東京へ進軍して、その力を背景にして士族に有利な条件を引き出すという戦略が、最初からつまずいたのは大きな誤算となりました。


西南戦争の経過説明図

 熊本城内に籠城する官軍が必死で持ちこたえるうち、2月下旬には小倉、福岡方面から官軍の応援部隊が近づき、薩軍はそれを阻止するため熊本周辺で戦い、3月に入ると官軍の援軍を防ぐため熊本市北方の「田原坂(たばるざか)」に厚い陣を敷きました。
 官軍も武器弾薬を運ぶための他の道はなくこの陣の突破を目指し、植木、田原坂において正面衝突、西南戦争で最大の激戦が3月4日から17日間にわたって繰り広げられ、この地で両軍合わせて一万人を越す犠牲者が出ました。
 官軍は最初苦戦しましたが、増援部隊が次々に到着し、遂に薩軍の田原坂の陣を突破しました。
 4月になると兵員が増強され兵器の質量に勝る官軍が各地で徐々に優勢理に戦いを進めるようになり、田原坂の戦いに敗れた薩軍は人吉から都城に退き、遂には都城も7月24日に官軍に奪取されました。
 薩軍は敗色濃い中、宮崎、佐土原、高鍋、都農などで体勢を立て直そうとしましたが敗走を余儀なくされ延岡に追われ、8月16日、包囲された延岡で「解軍(解散布告令)」を決定しました。


西郷隆盛終焉の地となった「西郷洞窟」。ここを出て銃で撃たれ、しばらく進んだ後自刃した。

西郷隆盛が最後の5日間を過ごした「西郷洞窟」

 明治10年8月16日、延岡で官軍に包囲され「解軍」を決定した薩軍は、戦いの中心となってきた精鋭1,000人の兵が残り、西郷隆盛以下全員が延岡北方の可愛岳(えのだけ)によじ登って官軍の包囲を突破し、郷土鹿児島への南進を開始しました。
 平野部は通れないため、九州山脈の山中を進み、米良、小林を通り、南進を阻もうとする官軍と戦いながら山中で迂回を重ね、9月1日、鹿児島市内に潜入しました。
 この時西郷に従う兵力は約400名で、城山に主力が布陣し当初は市内の制圧に成功しましたが、官軍は直ちに軍勢を送り込み、短期間に4〜5万の兵で城山を包囲しました。
 9月24日、それまで5日間を過ごしたこの洞窟を出た西郷隆盛は降伏の勧めを断り最後の戦いに挑み、西郷は流れ弾に当たり「もうここでよかろう」と別府晋介に介錯を頼み自刃、介錯を済ませた別府もその場で切腹。桐野利明、村田新八など他の志士たちも全員突撃し、西南戦争は終結しました。

 西南戦争の犠牲者  (別資料)
  官軍死者 6,403人 (6,923人)
  薩軍死者 6,765人 (7,186人)

 日本が封建国家から近代国家に生まれ変わるための礎だったのでしょうか。
 鎌倉幕府から始まって700年続いた武士階級が打ち建てた社会は明治維新で倒され、残った武士たちもこうして社会から消えていきました。




   

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