九州あちこち歴史散歩★維新ふるさとの道(2)大久保利通誕生地など サイトマップ
鹿児島市の中心地を流れる甲突川の北岸(左岸)に、歴史ロード「維新ふるさとの道」がありました。 川縁やその周辺がきれいに整備されていて、戦国時代や明治維新などの歴史に触れながら歩く格好の散策道になっています。 |
歴史ロード「維新ふるさとの道」 日新公いろは歌や江戸時代の下級武士の屋敷、歴史上のできごとの説明パネルなどが展示されていて、歴史にふれながら散歩のできる快適なエリアになっていました。 |
日新公(じっしんこう)島津忠良(ただよし)は義久、義弘など「島津四兄弟」の祖父で島津中興の祖といわれています。号は日新斎(じっしんさい)で、人の道、生き方、人の上に立つ者の心得などを歌の形にまとめた47首は「日新公いろは歌」と呼ばれ、薩摩武士の毎日の行動や判断の規範となりました。 い 古への道を聞きても唱へても わが行にせずばかひなし (昔の立派な教えを聞いたり唱えたりしても、自分の行動にしないと意味がない。実行実践が最も重要である。) ろ 楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそは高き卑しき (高楼の豪邸であっても粗末な小屋であっても、住む人の心次第で高貴か卑しいかが決まる。) は はかなくも明日の命を頼むかな 今日も今日もと学びをばせで (今日は都合が悪いといって学ぶことをしないで、明日やりますとあてにするのは心得違いである。) に 似たるこそ友としよけれ交わらば 我にます人 おとなしき人 (自分とよく似た者を友にしがちだが、自分を向上させるためには自分より優れた立派な人を選ぶべきである。) |
「日新公いろは歌」の真髄は、「古への道を聞きても唱へても わが行にせずばかひなし」の歌に示されているように理屈より実際の行動を重んずる実践主義で、義や誠を重んじた薩摩武士の魂の根源となったようです。 |
ほ 仏神ほかにましまさず人よりも 心に恥ぢよ 天地よく知る (仏や神は外におられるのではない。他人ではなく自分の心に恥じなさい。天地は何でも知っておられる。) へ 下手ぞとて我とゆるすな稽古だに つもらばちりも やまとことのは (下手だからといって稽古で適当に手を抜くな。ちりもつもれば、という言葉があるではないか。) と とがありて人を切るとも軽くすな 活かす心も ただ一つなり (罪があるから決裁するといっても軽々しく裁いてはならない。部下を活かすも殺すも主人の心一つで決まる。) 公園内には47首のすべての碑が建てられていました。 |
「郷中教育」の説明文 郷中(ごじゅう)はそれぞれの地域の青少年が集まり、先輩(二才(にせ)=10代半ば〜20代半ば)が後輩(稚児(ちご)=6,7歳〜10代半ば)を教育する薩摩藩独自の教育システムで、武士のあるべき姿や学問、武術などを学んでいきました。 武術、特に剣道の修練は激しく、子供の頃から徹底的に自分を鍛えていきました。 剣道の代表的な流派は、東郷重位を祖とする「示現(じげん)流(東郷示現流)」、それに野太刀戦法を加えた薬丸兼陳(または兼成)を祖とする「野太刀自顕(じげん)流(薬丸自顕流)」があります。前者は主に上級武士、後者は主に下級武士の間に広まりました。 示現流の特徴は「一の太刀」に全てをかけ、二の太刀や防御は一切考えない、というものです。 と説明してあります。 実際、薩摩の示現流(自顕流)は恐れられました。日ごろの練習も他人との打ち合いよりも、写真のように一人で横に置かれた木や立ち木に向かって走り寄り、裂帛の気合とともに全力で木刀を叩きつける練習を毎日数千回繰り返すというものです。 新撰組も「島津兵の一の太刀はなんとしても外せ」と恐れたといわれ、また明治維新で活躍した志士や新政府の中心となった島津藩士たちは薬丸自顕流を学んでいた者が多かったため「明治維新は薬丸流で叩きあげた」ともいわれました。 |
高麗橋 欄干柱の飾りが豪華でユニークです。薩摩切子のガラスが使われているそうです。 |
この界隈に幕末や明治維新、明治新政府で活躍した偉人たちの史跡が集中しています。 |
「朝東風に緋の大傘のたわむなり 祇園会はるる鹿児島の夏」冷明(貴島黎明) 祇園会は鹿児島の町民の最大の祭りだったそうで、その行列は長さ2キロも続いたそうです。 大傘は高さ7メートル、柄の周り25センチ、重さ10キロもあり、それを力自慢の若者が腕や肩、頭などに載せて歩いたとか。古き良き時代の祭りの風景ですね。 |
書の石碑 「碧水忽開新鏡面 青山都是好屏風」堀井鶴畔(1897-1975) (鹿児島県書道会初代会長) 碧水忽ち(たちまち)開く新鏡面 青山都て(すべて)是れ好屏風 (緑に澄んだ水は磨きたての鏡のようで 青々とした一帯の山は屏風を引き回したかのようである。) 中国の史蕭の詩です。(市河米庵の『新註墨場必携』夏類十四字に収録) この後に「禽聲依竹自然楽 風吹過松無限C」と続き、自然のすばらしさをうたっています。 堀井先生は甲突川と周りの城山の風景がこの詩にぴったりなので、この詩がお好きだったのではないでしょうか。 これまで書を落ちついて味わう機会もほとんどなかったのですが、心静かにゆっくり眺めると本当に美しいですね。 |
維新ロードの中に建てられていましたが、5時前後には館内には入れませんでした。残念。 |
「山之口馬場」跡 甲突川周辺に馬場があったようです。 |
鹿児島市の中心の一画ですがきれいに整備してあり、散歩には絶好のエリアになっていました。 |
甲突川に架かっていた五つの石橋は、家老調所広郷(ずしょひろさと)が肥後の石工岩永三五郎を招いて架けさせたものだそうです。 平成5年8月の集中豪雨で大きな被害を出し、武之橋、新上橋の石橋も流出したのはなんとも残念なことでしたね。 その時残った高麗橋、西田橋など三橋は石橋公園に移設保存されているのですね。 九州では多くの石橋が架けられました。石橋の宝庫です。今度は石橋公園にも行ってみよう。 |
![]() |
「二本松馬場」跡 ここにも馬場がありました。 多くの武士が懸命に乗馬に励んでいたことでしょう。 |
「戦災復興記念碑」 太平洋戦争(もう70年になるのですね)の戦災からの復興を記念して作られたモニュメントです。 平和な時代がずっと続くといいですね。 |
薩英戦争(1863)の説明文 幕末や明治維新がブームの今日でも、薩摩藩が英国と戦ったことを知る人はそれほど多くはないでしょう。 (長州藩が外国列強と戦ったことも同様です。) 横浜の生麦事件から始まった薩摩と英国の確執は、鹿児島の錦江湾に英国艦隊が進入して戦闘が始まりました。 薩摩藩士は勇敢に戦い、英国側に63名の死傷者(艦長を含む13名の戦死者、50名の負傷者)を出したが、薩摩藩側は死傷者は少なかった(戦死者8名など)ものの町が焼かれるなど被害は当然のことながら格段に甚大でした。文明や軍事力に大きな差があったのです。 英国艦隊は戦闘の翌日、錦江湾から撤退し、横浜へ向いました。 実際に外国の艦隊と戦った薩摩藩、長州藩は日本の技術や軍備などの圧倒的な遅れを実感し、幕府の鎖国政策のままではやがて日本は外国に滅ぼされると考え、倒幕が必要と考えるようになりました。 |
![]() |
薩摩藩はやがて英国と講和するのですが、軍事力など圧倒的な差を痛感した薩摩藩主や藩士たちは英国をいつまでも敵視することはせず、通商を求め、新しい武器などの購入を進め、また若い藩士たちをロンドンに送り込んで新しい世界を学ばせました。(まだ鎖国時代で、幕府の力も強かった時にすでに新しい時代に対処しようとしていたのです。) 英国も同じ兵士として薩摩藩士の勇猛果敢さに感心し、薩摩藩の要望を受け入れ、通商や留学生の受け入れを開始しました。2年後には英国公使パークスが薩摩を訪問し、アーネスト・サトウも多くの薩摩藩士と交流しています。 敵対国であった英国に通商を持ちかけるなどということは、薩摩に英邁な藩主、行動力のある藩士がいたからこそできたことでしょう。藩内でこうすべきという意見を戦わせ、方針が決まればそれを(幕府を恐れず)実行するということは数少ない藩を除いてとてもできないことでした。多くの藩は黒船来航の幕末に右往左往して手をこまねいているだけで、幕府に睨まれるようなことは何もしないのが上策と考えていた時勢です。 当時、世界最強であった(七つの海を支配していた)英国が事実上戦闘を放棄して横浜に逃げ帰ったことは、世界に大きな驚きを与えました。 当時のニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり、西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった。西欧が戦争によって日本に汚い(不平等の)条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう。」と評しました。 幕末の薩長と徳川幕府の抗争、戦いにおいて、英国は薩長側を応援し、フランスは徳川幕府側を応援しました。欧米の列強諸国はチャンスがあれば日本を当時の他のアジア諸国のように植民地化や一部地域の割譲などを狙っていたのは当然のことですが、それをあきらめさせるような日本の武士たちの勇敢な戦いがあったのも忘れてはならないでしょう。 |
高見橋から鹿児島中央駅方面の風景 |
「大久保利通誕生地」碑 文政13年(1830)ここ高麗町に生まれました。 幼少の頃、川をはさんだ加治屋町(下加治屋町方限)に移り、西郷隆盛らと共に郷中教育や藩校造士館で学び、二人は親友となりました。 |
大久保利通生誕地の説明文 47歳で生涯を閉じたのは残念ですね。激動の時代だったので、多くの人が志半ばで命を落としました。 |
大久保利通生い立ちの地 大久保利通は幼少の頃、川向こうの誕生地・高麗町からこの下加治屋町に移り、西郷隆盛などと共に郷中教育などで育ちました。 (西郷隆盛が3歳年上です。) |
生い立ちの地に「大久保利通君誕生之地」の石碑が建っています。 |
大久保利通の説明文 西郷隆盛とともに明治維新に活躍し、長州の木戸孝允を加えた三人が「維新三傑」とされています。 |
23歳のときに薩摩藩のお由羅騒動(高崎崩れ)に巻き込まれ、斉彬派とされた父利世は遠島処分、子の利通も謹慎の身となって職を失い、それまでの下級藩士の生活苦に輪をかけた困窮生活の日々が続き、この時期にたくさんの借金依頼の手紙が残っています。 (遠島に2回流された西郷隆盛と似たような失脚、生活苦の境遇を経験しています。) 西郷隆盛の自刃から1年後、大久保利通もまた47歳の若さで残念ながら凶刃に倒れました。 大久保利通の私生活は質素で、亡くなった時には借金が残っていたそうです。 ただ、当時は多くの士族が仕事につけず生活苦にあえいでおり、困窮した士族を代弁(士族を従来のまま残せ、というのではなく、生活できるような方策を考えて欲しいとの要望)した西郷隆盛を死に追い込んで(各地の士族の反乱や西南の役などに際して、大久保利通は自ら鎮圧の指揮を執ったのでそのように思われてしまった)、自分たちは政府高官となって西洋風の豪勢で贅沢な生活をしていると思われることが多かったようです。 (大久保利通としては、やっと徳川幕府を倒したのにここで士族の不満を抑えきれずに新政府が瓦解でもすれば、西洋列強の餌食となって日本は植民地化されるかもしれないとの懸念があり、日本を守るためには士族を抑え新政府を守り抜くしかないと決意していたのだと思われます。) また、何十年か経って(大久保のまわりの薩長出身者の多くが)政府や軍部の高官となった後、明治維新の志から離れ、多くの志士たちの犠牲の上に維新が成り立ったことを忘れ、その既得権を守るためにお手盛りで華族になり自分たちだけが特権階級になっていったのは残念なことでした。 彼らが明治維新後の日本の近代化に大いに尽くしたにかかわらず、西郷隆盛(明治維新最大の功労者にもかかわらず権力・富貴を望まず敬天愛人を貫いた)に比べて人気が薄い一因のようです。 |
![]() |
西郷隆盛、大久保利通の二人は、同じ町にほぼ同時期に生まれ、同時期に亡くなり、日本激動の時代を駆け抜けていきました。 |
ライオンズ広場の象徴のライオン像 |
「母と子供の群像」 母像・・・強さと厳しさを秘めながら優しく子供たちを見守る母の姿を表現しています。 |
「母と子供の群像」 子供の群像・・・子供達が健やかでたくましく育つ姿を表現しています。 |
幕末や明治維新の時代に西洋を見聞した使節団やジョン万次郎などのルートが描かれていました。 こうして世界地図を見ると、普段あまり意識しない広い世界に心が開かれますね。 |
![]() |
![]() |