加治屋町は西郷隆盛や大久保利通など幕末から明治維新、明治新政府で活躍した多くの逸材を生み出した町です。 町の横を流れる甲突川(こうづきがわ)の北岸は「歴史ロード・維新ふるさとの道」として整備されており、史跡を訪ねながら甲突川の周辺を2,3周し、夕方3時間ほどの散策を楽しみました。 |
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鹿児島中央駅の広場に「若き薩摩の群像」がありました。 1865年、まだ徳川幕府による鎖国中に、19名の若き薩摩藩士がヨーロッパを目指して旅立っていきました。 新しい日本を作るために、ロンドンで学ぶという燃えるような志を持った若者たちです。 |
幕末に新しい世界を学ぶために西洋に渡った若者たちは、西洋と日本の圧倒的な国力の差を自分の目で見て、帰国後に日本の近代化に取り組んでいきました。 しかし、いかに藩命とはいえ鎖国時代の国禁を犯しての海外渡航ですから、まさに決死の覚悟が必要でした。(藩の力が弱まれば国の掟に背いた者として厳罰を受けることになります。幕末はまだ日本がどのようになるのか全くわからない時代でした。また、攘夷論者の中には外国に行った者を排斥する者もいました。) 薩摩藩、長州藩などはいつまでも鎖国のままでは日本は弱体化し、外国の植民地にされると危惧し、幕府の禁令を犯して若い藩士たちを西洋に送り込みました。 (この19名の一行は1865年に出航しています。徳川幕府の大政奉還は1867年なので、薩摩ではその2年前には新しい日本を見据えてすでにその対応を始めていたことになります。藩として幕府に対峙して行動する気概や行動力を持っていたことがわかります。) 長州藩でも1863年に5名の若い藩士たちを密出国させてロンドンの大学で学ばせています。(初代首相となった伊藤博文、政府元老の井上馨など。) 高杉晋作も1862年に藩命で上海に行きましたが、このときは幕府随行員としての視察でしたが、欧米列強の強さや植民地とされていた上海の現実、太平天国の乱など国内の混乱に苦しむ清国のようすなどを体験し、大きな影響を受けたと日記に記しています。 坂本龍馬も(確証はありませんが)海援隊の時代に上海に行ったとの説もあります。 こうして新しい世界を体験した若者たちは、帰国後、明治維新後の日本の近代化のために政治や経済などの分野で中心的役割を果たしました。 |
九州新幹線の始発駅となっている鹿児島中央駅。 |
観光交流センターはみごとなブーゲンビレアの花で取り巻かれていました。 観光交流センターの東側に駐車場があったので、そこを利用できて助かりました。 この周辺の観光案内地図は入手できなかったので、川のまわりを3周しました。史跡を探しながら歩き回るのも旅の楽しみのひとつです。 (事前に地図を調べることが多いのですが今回は急に決め飛び出して来たので、資料は全くありません。 私は割と方向音痴の方ですが、地図がないときでも大体8,9割は目的地にたどり着きます。案内地図があると効率はいいのですが、地図だけを眺めながらそこに行き着いて「写真といっしょだわ」ということにもなりかねません。 地図がないとあちこちの道を探しながら、土地の人に道を尋ね、家並みや道端の草花にも目を配りながら歩くので、何か新しい発見が生まれます。ただ時間は余分にかかります…。 今回行けなかったのは日露戦争の日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎の記念碑でした。見ておきたかったのですが、午後7時過ぎ、道路で見つけた看板を見ると生誕地だけが表示してあり、そこは高校の構内になっていたのであきらめました。そろそろその日に泊まる宿も探さないといけないし…。 後で調べると、記念碑(石碑)は道路のすぐ横に建てられていました。記念碑などの位置も案内図にちょっと描いてあると観光客は助かるのですが…。) |
甲突川にかかる西郷橋 右側は観光交流センター |
夕日が射すとブーゲンビレアの花はさらに輝きました。 |
鹿児島中央駅から東に伸びる「ナポリ通り」は、並木の楠木が大木となっています。 それを許容できる道路はゆったりとして広さに余裕があるということですね。 |
東洋のナポリと称される鹿児島市は、イタリアのナポリと姉妹都市なのですね。 |
南洲橋 向こう側(北岸)にある西郷隆盛誕生地にまっすぐ行けました。 |
西郷隆盛誕生地 隆盛は下級藩士が住む下加治屋町に生まれました。 この町に幕末から明治維新にかけて活躍する藩士が輩出しました。 |
西郷隆盛誕生碑 |
西郷隆盛誕生碑 「西郷隆盛君誕生之地」と彫られています。 |
西郷従道(つぐみち)誕生碑 石碑の横に弟の「西郷従道誕生之地」の碑も建てられています。 |
西郷隆盛の器量の大きさは、鹿児島の独特の教育組織「郷中(ごじゅう)教育」で培われたようです。 |
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明治新政府側の東征大総督として江戸無血開城を実現し、日本を内戦の危機から救った西郷隆盛も、若い頃に二度も島流しの刑に処せられています。 長い鎖国の後、黒船が来航し、日本はどう進むべきかの激論が交わされ、島津藩の内紛も絡んで、当時がいかに激動の時代だったかがうかがえますね。 |
西郷隆盛誕生地の近くに大山巌誕生地の石碑がありました。 |
加治屋町に住んでいた藩士たちの中から幕末や明治維新で活躍する志士たちが輩出しているのがわかります。 |
郷中教育が日本を拓いた 明治維新で新しい政府が作られ、国内の新制度策定、外国との交渉などすべての分野で新しい人材が必要になりました。国家が立ち止まることは許されず、常に走り続けることを要求された時代でした。立ち止まったり、政府が不安定になると、外国の干渉が始まり、最悪の場合には周辺のアジア諸国のように西洋の植民地とされる可能性もありました。 この時代に郷中教育で幼少の時から鍛えられていた鹿児島の藩士たちは活躍しました。 郷中教育ではそれぞれの郷(方切)で年長の先輩たちから、学問だけでなく、「議を言うな(理屈を言うな)。長老衆には従え」「負けるな、うそを言うな、弱い者をいじめるな」などの人間や社会人としてのあるべき姿を徹底的に教えられました。 こうした社会に生きる者としての常識を持ち、どんな状況でも歯を食いしばってがんばることのできる人材が揃っており、仲間が助け合って明治維新の時代に活躍し、日本の近代化に尽力しました。 |
「加治屋町ゆかりの偉人たち」(生年順) 西郷隆盛、伊地知正治、大久保利通、篠原国幹、村田新八、黒田清隆、大山巌、西郷従道、黒木為驕A井上良馨、東郷平八郎、山本権兵衛、田代安定、山本英輔、橋口五葉、安藤照 |
「二つ家(ふたつや)」 下加治屋町の当時の典型的な家屋 |
「二つ家」の説明文 |
甲突川 南洲橋から高麗橋を望んだ眺めです。 河岸のプロムナードの他に、川面の近くも歩けるようになっていました。 |
甲突川の高麗橋から高見橋の間を3周しました。 途中、鴨にも道を尋ねました。シベリア訛りの鹿児島弁で半分はわからなかったが、高見橋の「母と子供の群像」のところまで案内してくれ、鹿児島は自然が豊か、人情が豊かで住みやすいと言っていました。 |
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