九州あちこち歴史散歩★仙巌園(磯庭園)(3)曲水の庭など           サイトマップ

仙巌園(磯庭園)(3)曲水の庭など

  薩摩島津家ミニ歴史(2)
 島津家第5代貞久のときに鎌倉幕府(北条家)の力が衰えてくると、1333年貞久は後醍醐天皇の討幕運動に参加し、九州の御家人と共に鎮西探題の攻略し、鎌倉幕府滅亡後に大隅・日向の守護職を回復した。
 後醍醐天皇の建武の新政が崩壊すると、後醍醐天皇に離反して九州に逃れてきた足利尊氏を少弐氏らと共に助け(武士方)、筑前国の多々良浜の戦いで菊池氏らがついた後醍醐天皇方(宮方)を打ち破り、足利尊氏は再び京に進軍し楠木正成などの軍を破り、1336年足利幕府(北朝)を樹立した。
 しかし、後醍醐天皇側も吉野に拠って抵抗を続け(南朝)、九州に征西将軍として懐良
(かねよし、かねなが)親王を派遣し一時は九州を勢力化に納め、このため島津軍も一時は南朝側に属するなど苦戦を強いられた。日向国では伊東氏が勢力を拡大して1461年足利幕府から日向国の守護職を得た。
 島津貞久は三男の師久(上総介だったので総州家と呼ばれた)に薩摩、四男の氏久(陸奥守だったので奥州家と呼ばれた)に大隅の守護職を分与し分割継承させ、南北朝の内乱期を乗り切ったが、その後、総州家、奥州家など島津家内部の対立抗争が続き、応仁の乱、室町時代中期まで島津家は弱体化していった。

 南北朝の内乱や応仁の乱以降、それまでの貴族社会の経済的基盤であった荘園制が崩壊し、天皇の政治的権威は失墜して、室町幕府による守護体制へと変化していった。各地でもその土地の守護や地頭が実権を持つようになり、土地の支配をめぐって下克上といわれる時代に突入した。薩摩・大隅国においても各地の島津分家や国人(その土地の豪族)の争いが相次ぎ、苦しんだ島津家当主が自害する(1508年)ということも起きた。

 やがて島津一族の中から伊作家の伊作忠良・嫡男貴久が台頭し、対抗勢力の薩摩大隅守護家の島津勝久や薩州家の島津実久を武力で退け、その後、岩剣城の戦い(1554)など島津氏三世代を結集した総力戦で蒲生氏を破り、薩摩大隅を制圧した。
 島津家第15代貴久の嫡男第16代義久のときに百年にわたるライバル伊東氏を木崎原の戦い(1572年)で壊滅させ、島津氏の悲願であった三州の再々統一を成し遂げた。
 戦国時代の義久、義弘ら「島津四兄弟」の活躍は目覚しく、この後、耳川の戦い(=高城の戦い,1578年)で大友軍を破り、さらに沖田畷の戦い(1584年)で龍造寺氏を破り九州制圧の寸前まで勢力を拡大したが、豊臣秀吉の九州征伐戦(1586年)に敗北。しかし、薩摩・大隅と日向諸県の領土は安堵された。
 関が原の戦い(1600年)では西軍に属したが戦闘には参加せず、最後に「島津の退き口」として有名な敵中突破で徳川家康本陣に向かって切り込んでいき退却するという破天荒な作戦を敢行し、薩摩武士の武の心を天下に示した。
 その後、家康との二年間にわたる粘り強い折衝でそれまでの領土を安堵された。

 同じ領主が鎌倉時代から明治時代まで治め続けたのは、島津氏、その北隣の相良氏、奥州の相馬氏の三氏のみ(これは世界的にも稀有な例)で、ほとんどは戦国時代の下克上の戦いで他の氏族にとって代わられた。




仙巌園の庭園

 仙巌園の一番東側は曲水の庭や竹林のゾーンになっていて、美しい緑を心行くまで楽しむことができました。


曲水の庭に通じる石段

「曲水の庭」に通じる石段


仙巌園の「曲水の庭」

「曲水の庭」
 きれいなせせらぎが流れています。


仙巌園の「ばくちの木」

「ばくちの木」
 名前は聞いたことがありますが、初めて見ました。


「ばくちの木」の説明文

「ばくちの木(はだかの木)」
 川が剥げ落ちて裸になることからバクチ(博打)の木と名づけられたそうですが、ぴったりの表現ですね。
 博打で丸裸にならないようにしましょう!


裏山のネズミモチの花

 ネズミモチ(タマツバキ)が茂っている山は一面真っ白になることもあります。


「ヤツデ」の葉

「ヤツデ」
 天狗のうちわ。昔、天狗はこのやつでを打ち振って大風やつむじ風を起こしていました。


「江南竹林」の孟宗竹

「江南竹林」の孟宗竹
 元文元年(1736)、島津家第21代吉貴は中国の孟宗竹(江南竹)を琉球王国から2株取り寄せ、仙巌園に植えました。
 おいしい筍(たけのこ)で知られる孟宗竹はここから全国に広まったそうです。
 孟宗竹はそれ以前に道雄上人や道元禅師が持ち帰ったとの説もありますが、全国に広まったのは仙巌園からのようです。


竹林の中の水神様

「水神様」
 竹林の中に水神様が祀られていました。


仙巌園の「江南竹林」

 竹林はいつ見ても美しいですね。





仙巌園のアジサイ

 5月下旬、あじさいも咲いていました。


仙巌園の「曲水の庭」

「曲水の庭」


仙巌園の「江南竹林」

 竹の節は視覚的にいいリズムを作り出しています。節がなくのっぺらぼうだったらそれほど美しく感じないでしょうね。
 竹材は以前は建築材料や台所用品などに多く用いられ、身の回りに竹製品がいくらでもありましたが、プラスチックが普及するようになり、また、この2,30年で安価な筍(たけのこ)が中国から輸入されるようになったこともあり、放任された竹林がまわりに広がって他の木々を放逐しているところも増えているそうです。


仙巌園の「江南竹林」

 わずか1か月で十数メートルも伸びていき、3か月で最大径になる竹の生命力はすごいですね。それ以降は径は硬くはなっても太くなることはなく、各節から出る枝が多くなっていくそうです。
 百年に一度花が咲いて枯れると昔から言われていますが、花が咲くのは78年ごととも言われ、現在でもよくわかっていないようです。
 無数に稲穂が下がっているような竹の花は何度か見たことがあります。


仙巌園の「水力発電用ダム跡」

「水力発電用ダム跡」
 明治時代、仙巌園内の電気は集成館から送電されていましたが、明治25年(1892)、ここにダムを築いて水力発電を行い、就成所や園内の照明に利用していました。この水力発電用ダムは日本における草創期の水力発電施設だったそうです。


仙巌園の庭園

 つつじの花も咲いています。


仙巌園の茶室「秀成荘」

「秀成荘」
 明治25年(1892)、第29代島津忠義は仙巌園の隣接地に就成所という施設を造り、集成館事業の一部を継承しました。 ここでは鉱山採掘用の器材の製造、小銃や刀剣の製作、陶器製作などを行いました。
 現在、就成所跡には秀成荘という茶室が建てられています。園内の施設の東端にあり、この東側の芝生の広場は絶好の桜島・錦江湾の展望ポイントになっています。


仙巌園の和風喫茶「竹経亭」

 磯御殿の北側にあり、お茶やお菓子をいただける和風喫茶です。
 玄関では篤姫がお出迎えをしていました。


仙巌園の庭園

 薩摩藩が幕末に必死に外国に追いつこうとして造った集成館の諸施設や、殿様の別邸・磯御殿、緑がたっぷりの庭園をゆっくり楽しむことができました。




   

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