九州あちこち歴史散歩★仙巌園(磯庭園)(2)磯御殿など           サイトマップ

仙巌園(磯庭園)(2)磯御殿など

  薩摩島津家ミニ歴史(1)
 島津家の南九州支配は、文治元年(1185)に源頼朝画が惟宗忠久を当時日本最大の荘園・島津荘(宮崎県都城市)の下司職に任じたことに始まった。その後、地頭職になり(1186年)、また薩摩・大隅守護職に(1197年)、さらに日向国の守護職も兼任するようになった。
 忠久は惟宗の姓を現地地名の島津に変え、島津家の祖となり、島津家は鎌倉幕府の成立以前からこの地で生き続けてきた。(薩摩では忠久は源頼朝の子と信じられ、誇りとされている。)

 建仁3年(1202)比企氏が北条氏によって滅ぼされた際(比企の乱)、比企氏の縁者であった忠久も連座してすべての所領を北条氏に奪われましたが、建保元年(1213)に和田合戦の戦功で薩摩国守護・地頭職のみを回復した。
 島津氏は祖・忠久が薩摩・大隅・日向三か国のの守護職に任じられていたため、この三か国(三州)を本貫地とみなし、その統治、旧領回復が島津氏の宿願となった。




示現流の稽古用の木刀

 稽古用の木刀を誰でも実際に手に取って示現流の稽古の体験ができます。

 ここに「ジゲン流展示室」があり、詳しい内容や歴史のパネル、稽古風景などのビデオを見て示現流に触れることができました。


示現流の稽古用の横木

 示現流の稽古では、走り寄って裂帛の気合とともに横木を数回叩き続けます。多くの藩士はこれを毎日数千回繰り返したそうです。

示現流の教え
 一.刀は抜くべからざるもの
 一、一の太刀を疑わず、二の太刀は負け
 一、刀は敵を破るものにして、自己の防具に非ず
 一、人に隠れて稽古に励め

 無益な殺生を戒めるとともに、危急の際には無念無想に打つという極意と、いったん刀を抜いたら最初の一太刀に全てをかける厳しさを伝えています。


示現流の説明文

 江戸時代を通じて薩摩武士の精神的支柱となったのが薩摩に今日まで伝わる剣法「示現流」です。
「示現流は、流祖東郷重位が江戸初期に誕生させた薩摩独特の兵法で、代々薩摩藩主に重用され、門外不出の「御流儀示現流兵法」と称されてきました。
 東郷重位は、天正16年(1588)豊臣秀吉から「聚楽第」造営の命令を受けた島津義久公に従い上洛した際に、京都にある曹洞宗万松山天寧寺の僧善吉から「天真正自顕流(てんしんしょうじげんりゅう)」という剣術の技を授かり、帰国後厳しい修行と創意工夫を重ね、自らが修めていた「タイ捨流」と「天真正自顕流」の精髄を合わせて「示現流」を誕生させました。
 (慶長9年(1604)に藩主島津忠恒公の御前試合に勝利して薩摩藩兵法師範となり、大龍寺の和尚の命名で「自顕流」から「示現流」と改称しました。)

 


野太刀自顕流(薬丸自顕流)の説明文

もうひとつのジゲン流「野太刀自顕流(薬丸自顕流)」の説明文
 薬丸家は野太刀の技を伝えており、代々東郷自現流の高弟でした。
 江戸後期、薬丸兼武のときに示現流に野太刀の技を加えたものを新しい流派として打ち立てようとしましたが、藩内の規律を乱すものとして流刑となりました。その後、武芸を向上させるものとして調所(ずしょ)笑左衛門に認められ、薬丸家は剣術師範家として藩に公認されました。
 野太刀自顕流(薬丸自顕流)は薩摩藩の郷中教育にも取り入れられ、主に明治維新の中心を担った下級藩士の間に広まりました。
 幕末の動乱期や明治維新で活躍した薩摩の志士の多くは薬丸自顕流の達人でした。


見学に来ていた修学旅行生

 この日は薄曇りで格好の行楽日和で、たくさんの観光客や修学旅行生が見学に訪れていました。
 (5月ともなると晴天だといっぺんに日に焼けてしまいます。)


「島津家水天渕発電所記念碑」

「島津家水天渕発電所記念碑」
 江戸時代、島津家は佐渡金山と並び称された山ヶ野金山(現霧島市・さつま町)を所有していました。明治以降も島津家が採掘を続けていましたが、明治40年(1907)、近代的な技術で採掘するために電気が必要となり、現在の霧島市隼人町に水天渕発電所を建てました。
 昭和58年に九州電力から建物の一部を譲り受け、記念碑とされました。


園内に配水するための水道施設「高枡」

「高枡(たかます)
 水の分岐と水量を調節するための水道施設で、園内の湧き水を石造りの水管で集め、この高枡を用いて磯御殿前の池などに配水しているそうです。


明治28年に建てられた「正門」

正門
 正門は明治28年に建てられたもので、薬医門という形式だそうです。
 裏山で採れた樟を建材として用い、門内上部には島津家の家紋の丸十紋と桐紋が配置されています。


磯御殿の庭園「仙巌園」

 中国江西省の景勝地・竜虎山仙巌の名前をとって「仙巌園」と名づけられました。


松の新芽

 五月、木や花の緑が目に沁みます。


江戸時代の正門として用いられた「錫門」

「錫(すず)門」
 錫門は江戸時代に正門として用いられ、屋根は錫の板で葺かれています。
 江戸時代の初めに藩内で錫鉱山が発見され、以後、鹿児島の特産物として知られるようになりました。
 かつて朱色の門を建てることは位の高い人だけに許されており、この錫門は江戸時代には藩主とその世継ぎしか通ることができなかったそうです。


江戸時代の藩主の別荘だった「磯御殿」

 江戸時代、藩主の別荘だった「磯御殿」


江戸時代の藩主の別荘だった「磯御殿」

「磯御殿」
 中に入って説明を受け、お茶を頂くことができます。
 殿様の気分になれます。


江戸時代の藩主の別荘だった「磯御殿」

 建物は贅を凝らしたものではありませんが、座敷に座り、目の前の錦江湾と桜島を眺めれば、これ以上の贅沢は必要ないでしょう。ここに来ては雄大な風景を眺め、気宇壮大な心を養ったことでしょう。





磯御殿の庭園「仙巌園」

 庭園の池やそのまわりには花菖蒲やサツキの花が咲いています。 
 左奥に「タイサンボク」の白い花が見えます。


磯御殿の庭園「仙巌園」

 池や花があると心が和みます。
 あちこちでみんなゆっくりとこの景色を楽しんでいました。


磯御殿の庭園「仙巌園」

 心が洗われます。
 私もゆっくりいすに腰掛けて心の洗濯をしました。


ナツメヤシの幹

 なんじゃ、こりゃ? ナツメヤシ?
 幹の下を見ただけではどんな木かわかりませんね。


ナツメヤシ

 上を見ると誰でも知っている「ナツメヤシ」です。
 ナイル河畔に多いヤシです。(と、エジプトに行った気分…)


傾いた大木

 傾いた大木が数本の柱で支えられています。


庭に立てられた幟

 庭には高い幟(のぼり)が立っていました。


庭に立てられた幟

 いろいろなパターンの絵柄の幟がはためいています。


庭園の石灯篭

 庭園のあちこちに趣のある石灯篭が置かれています。


庭園の石灯篭

 上の石、こんなに薄く広い石は見たことがありません。よくも長いこと割れないものですね。
(歌心のある人はこのような風景を見てサラサラと歌を詠むのでしょうが、風流心のない私は石のことしか頭に浮かびません。こういうのを石頭というのでしょうね。
 園内で手帳にメモをしながら歌を作っている風流を解する何人かの人に出会いました。)


庭園の石灯篭

 この石灯篭の上には獅子が乗っていました。


庭園の木々

 下に落ちている実は何の実でしょうか。
 5月下旬、梅の実には早過ぎるし… アンズの実?


裏山の巨岩に彫られた「千尋巌」の文字

「千尋巌」
 裏山の中腹に巨岩が露出しており、大きな字で「千尋巌」と彫られています。
 この文字は文化11年(1814)に延べ3,900人の人員で、3か月をかけて彫られたそうです。




   

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