九州あちこち歴史散歩★水郷柳川の川下り                    サイトマップ      

水郷柳川の川下り

   柳川の風情に心ゆくまでひたれる川下り。
 どんこ舟に揺られ、赤レンガの並倉、白いなまこ壁、水草やくもで網、四季おりおりの花々など、まさに詩の世界。
 沖端
(おきのはた)までの1時間10分あまりの詩情ゆたかな川下りは、優雅さを存分に感じさせてくれます。
 (柳川市観光協会パンフレットより)
 看板に偽りはなく、堀端を散歩するだけでも、十分心を癒すことができました。

柳川市の観光地図
柳川市の観光案内

 私は3月15日に、川下りとひな祭りを楽しみに出かけました。
 この日は「おひな様水上パレード」も行われます。
 また2月11日〜4月3日は柳川雛祭り(「さげもんめぐり」)が開催されていました。

 駐車場は「市営筑紫町観光駐車場」を利用しましたが、ここは百台以上駐車でき、平日無料(土日祝は300円)で、何よりも御花、水天宮、北原白秋生家などから数分のところにあるので、非常に便利でした。
 水天宮の近くに、柳川市観光案内所があり、そこで「柳川まち歩きマップ、エリアマップ」(B3版)、「さげもんめぐりマップ」(A3版)をもらって、堀端でゆっくりと散歩コースを調べました。
 「柳川まち歩きマップ、エリアマップ」は柳川の観光案内と詳細な案内地図がついているので、これさえあれば道に迷うこともなく散歩を楽しめる優れものでした。

 川下りは昭和30年代の中頃より始まり、長い苦節の時期を経て、みんなが楽しめるようになったようです。




柳川の川下り:数隻のどんこ舟が行き交う

   数隻の舟が行き交っています。
 川のほとりの花を眺めながら、行き交う「どんこ船」を眺めるのも楽しい。

 川下りは約4キロのコースを70分でゆっくり進み、1500円の料金で命の洗濯ができます。
 (他に30分のコースもあるようだ)
 乗船場は、西鉄柳川駅から歩いて5〜10分のところに5か所、車で5分のところに1か所あります。  
 乗船客が10人程度集まれば、出発します。一人でも気楽に乗れます。

 今日は「おひな様水上パレード」も行われ、パレードに参加している白い衣装姿の船頭さんも目に入ります。普段は下の写真のような久留米絣に菅笠スタイルです。


柳川の川下り:けやきの木とどんこ舟

   川岸には多くの花が咲いていました。
 ケヤキの木もあと1、2か月もすれば青々と茂り、初夏ともなれば、新緑の中で川下りを楽しむ観光客もさらに増えることでしょう。


柳川の川下り:しだれ桜の下を進むどんこ舟

   3月15日、すでに桜が咲いていました。この桜は枝がかなりしだれています。
 ふつうしだれ桜は、染井吉野や大島桜より開花が遅いものが多いが、このしだれ桜は他の桜に先駆けて美しく咲いて、観光客を迎えていました。まだ冷たい朝もあるだろうに、なんと柳川思いの桜ではないだろうか。


柳川の掘割:気持ちよく歩ける遊歩道

   遊歩道には、腰をおろしてゆっくり休めるところがどこにでもあります。
 観光客は多かったが、それでもゆっくり、のんびりできました。
 堀端に、立花藩の重臣の住居「十時(ととき)邸」が保存されていて、江戸時代の雛飾りとさげもんを見ることができました。
 (「さげもん」は柳川観光案内所をはじめ、多くの場所で見ることができます。)
 堀端には、多くの中年の観光客にまじって若い人たちの姿も結構見られたが、喫茶店などは見当たらず、私は飲み物を持参してぶらぶらと歩きました。
 途中で、地図でもゆっくり広げて一服できる喫茶店でもあれば、と思ったが、まわりには遊歩道、掘割とどんこ舟、それに緑と花があるだけでした。しかし、堀端でゆっくりしていると、堀端に店が並ぶよりもそののんびりした風景がいいのだと気がつきました。

 
 柳川(当時は柳河)は戦国時代の頃までは、筑後川と矢部川にはさまれた、海の近くに広がる湿地帯だった。湿地帯の中に造られた柳川城は難攻不落で、戦国時代の名将、立花道雪や高橋紹運もこの城を攻めあぐねた。
 戦乱が収まり、関ケ原の戦いの後、柳川に入封した田中吉政公が、それまでの柳川城に天守閣を築き、城のまわりの堀を防御用に大改修して何重にもめぐらした。上流の矢部川の堤防を切れば、城のまわりは湖となり、水の中に城だけが浮かび、外から攻めることのできない「水の城」の設計がなされていた。また、吉正公は、積極的に土地造成や干拓事業を行い、現在の町割の基礎を作った。このような土木工事を、関ケ原の戦い後、奇跡の復活をなし遂げた立花宗茂以降の立花藩が引き継ぎ、その後数百年にわたって、湿地を乾燥させ、土地を造成し、田畑の続く平野が作られた。
 市内の大小の掘割の総延長は、なんと470キロに及ぶという。市の周辺部の掘割を入れると、約1,000キロになるが、これでも数十年前に比べると長さが半減したとのことである。
 江戸時代、柳川は柳川藩立花家12万石の城下町として栄えた。


柳川の川下り:橋の下をくぐる舟

   柳川は湿地帯に掘割を通し、土地を乾燥させて作った平野なので、道路はどこも水面よりやや高い程度です。
 ということは、そこに橋を渡せば、橋の下はせいぜい1メートルくらいしか余裕がないということになります。約70分の川下りのコース(内堀コース)に、11個の橋が架かっています。
 この写真くらいの余裕があれば、船頭さんも自分の定位置(やや高いところに立って漕いでいる)で身をかがめて、通り抜けることができます。

 しかし、低い橋になると4、50センチしか余裕のないものがあります。どうするのでしょうか。
 乗船客も船底にへばりついて、橋の下を通り過ぎるのを待たないといけません。いつの世にもせっかちな人はいるもので、必ず2,3人は途中で頭を上げて橋の下側のコンクリートに頭をぶつけています。それを見るのが楽しみで、橋の上に一日中立っている人もいるらしい?。(マサカ。でも私は3人のゴッツンコを見ました。)
 船頭はいったいどのようにして橋の下を通るのだろうか。すぐ近くに空いた席があれば、そこに移って客といっしょに船底にへばりつけばいい。しかし、困ったことに満員御礼(この不景気な時代になんとありがたいことであろうか)のときには、船頭は身をかわすスペースがない。その時は「義経の八艘とび」よろしく、さっとばかりに(目にとまる程度の早業で)橋の欄干に飛び移り、橋の上を横切って向こう側の欄干につかまり、橋の下から出てきた船に飛び降りるのです。(ホント。私も目撃しました。)
 従って、船頭になるときは、「八艘とび」の実技試験も受けなければなりません。(受けたことがないからホントかウソか知りません…。)

 先日、高潮警報が出ているときに見に行ったら、水が橋の下すれすれで、乗船客は全員水に飛び込んで、泳いで舟を押して橋を通り過ぎていきました。(もちろんウソです。)
 川下りを行う掘割は、三つの水門で、潮の干満にかかわらず水位はほぼ一定に保たれています。(「御花」の近くの沖端川のすぐ下流は有明海で、有明海は潮の干満の差が大きいことで有名です。) 従って、舟の進む方向によって「上り」、「下り」と称する(駅近くの「三柱神社」一帯が上流、「御花」一帯が下流)が、堀の中は、実際の川と違って、ほとんど大きな水の流れはありません。
 毎年1回、2月になると10日間掘割の水が落され、堀を空っぽにして、関係者の協力で掘割の清掃が行われています。そして2月下旬にまた、新しい川下りのシーズンが始まります。


柳川の川下り:花婿・花嫁を乗せて進むドンコ船

   この日、花婿・花嫁を乗せたどんこ舟にも出合いました。
 前日、婚姻届けを出し、晴れて夫婦となって、今日は記念の川下りだそうです。
 水郷柳川にぴったりの、なんとすてきな風景だろうか。





柳川の川下り:緑の中を進む舟

   緑の生い茂った中を進んでいきます。

 船頭さんの操る竹の竿一本でゆっくり進んでいく舟に身をまかせ、まわりの花や緑、鴨やうぐいすの声、風の音に心を浸せば、ややくたびれがちな現代人の心も、少しは癒されることだろう。
 今どき、人力で進む乗物にゆっくり乗れるなんて機会は他にあまり思いつきません。(人力車くらい?)

 水郷潮来・佐原(霞ヶ関周辺)や水郷近江八幡(西の湖周辺)の舟は艪(ろ)を使うので、いつも左右に揺れながら進みます。その点、水郷柳川のどんこ舟は竿で進むので、左右の揺れはほとんどありません。酔いにくく、乗り心地は楽です。


柳川の川下り:うなぎ供養碑

   柳川市で年間100万匹のうなぎを消費するらしい。
 ということは、一日3,000匹。
 毎日、雨の日も、雪の日も、3,000人もの人が、あのすこぶる美味という「柳川名物うなぎのせいろ蒸し」を食している計算になります。
 あー、いつの日か私も3,000人の一人になりたい(なみだ目)、というほど贅沢なものでもありません。ちょっとばかり奮発すれば、誰でも楽しめます(3千円前後)。
 十数軒の老舗がおいしいうなぎを提供していますが、有名店はそれなりに待ち時間の覚悟が必要なようです。

 「うなぎ供養」が7月中旬に開かれます。
 地球からこれ以上うなぎの稚魚が減らないように供養碑に祈っておきました。
 私達が小さい頃は、近くの小川にも、うなぎの稚魚が群れをなして遡上して来て、いくらでも手で掬って遊べたものですが、それが今ではまるで高級魚扱いです。時代は変わるなあ。
 アジアが発展していけば、現在行われている東南アジアのうなぎ養殖は減っていくのでしょうか。マグロと同じ運命をたどるのかなあ。
 ともかく、今のうち柳川のうなぎを食べに行っておこう。


柳川の掘割:堀に仕掛けられた「くもで網」

   掘割のなかに「くもで網」が仕掛けられてありました。
 昔は自然も豊かで、掘割の中でも漁ができたのでしょう。
 国内の自然の残っている川や海では、今もこの漁法がかろうじて残っているようです。
 日本だけでなく、東南アジアで同様な漁法が行われているのを、テレビでたまに目にします。


柳川の川下り:「殿の倉」のなまこ壁の横を進む舟

   「殿の倉」の白い「なまこ壁」の横を進む。
 昔のいなかの倉の壁は、こんな漆喰塗りの塗装で、頑丈に造られていたのを思い出します。


  柳川の川下り:竿を操る船頭さん  

 曲がり角では、船頭さんは舟の外に身を乗り出す程、力を込めて竿を押しています。もっとも腕力だけではなく、体と竿のバランスで舟を進めています。
 さすがに無駄のない、きれいな姿勢だなあ。いや、感心している場合ではない。もし、この姿勢のとき、竿が底にめり込んで抜けなくなれば・・・。(ウッシッシッ、と何かを期待する。船頭さんがベテランぞろいなのは百も承知。川底にどこか一か所でも粘土の層があれば……。私は中学生の頃、竿が抜けなくなって、たった二度しか川に落ちたことがありません。)


  柳川の川下り:竿を操る船頭さん

 何かを期待して、夕方まで待ったが、何も起こらなかった。残念。

 ひょっとして、北原白秋の「待ちぼうけ」は、こんな情景を歌ったのではないだろうか?
 えっ、白秋の活躍した時代には、川下りはまだ行われていなかった? 
「待ちぼうけ」は、中国の古典にある話を題材にしたもので、そのような、人の失敗を見て喜ぶような次元の低い発想ではない? あっ、そう。ゴメン。
 それにしても、船頭さんの姿勢は無駄がなくて、粋だねえ。


水郷柳川の掘割

   柳川は水郷の町です。
 市内を数分も歩けば、大きな掘割に出合います。小さな掘割も含めると市内の掘割の総延長は470キロになるそうです。今もあちこちに、ゆったりとした風情を残しています。


   しかし、水郷柳川の掘割も存続の危機があったのだという。
 昭和30〜40年代、水道の整備や住宅地の拡大で、それまで家庭や田畑で使用していた掘割の水の用途がなくなり、また当時の日本の高度経済成長に伴って家庭の出すごみが飛躍的に増えたが、その対策は追いつかず、掘割はだんだんゴミ捨て場の様相を呈した。(当時の日本の川は、程度の差はあっても、どこも同様に汚くなっていった。)
 柳川市でも、400年かけて構築された掘割の生活用水、農業用水としての使命は終わったと判断し、埋めたてたり、暗渠にしたりする方向にほとんど決まっていたが、「掘割をつぶしたら柳川はだめになる」と発言する勇気ある人たちがいて、最後の一線で踏みとどまって、掘割は生き残った。
 でも、掘割を残すといっても、ゴミ捨て場となり、ヘドロがたまった川を、誰がどうするのか。
 大体、どこの自治体でも、住民と役所が責任のなすりあいをして、何もしないまま時だけが過ぎて行くケースが多い。
 しかし、柳川市は違った。住民と役所が協力して、両者が共にヘドロのたまった川に入っていった。そして、力を併せて清掃を続け、少しずつ川をきれいにしていった。それに協力する市民も増えていったという。
 言うのは簡単だが、いったん汚れた掘割をきれいに再生するのに2,30年はかかったのではないのだろうか。その間ずっと信念を持って、これらのつらい作業、運動を支え、引っ張っていった人たちが存在したということは、なんともエライことだ。
 社会環境はいろいろ変化していくので、現在市内に残っている470キロの掘割が、そのまま残っていくのかどうかはわからないが、少なくとも大きな掘割はこれからもずっと残して、水郷柳川の風物を今後も楽しませて欲しいと思う。他の町がどんなにお金をかけても、もうどこもマネすることのできない、日本で柳川だけの風物である。

 市民の献身のおかげで、私たちは水郷柳川のゆったりとした風情を楽しませてもらうことができる。
 また今度、だんだんきれいに復活しつつある掘割で、命の洗濯をしてこよう。




   
  ( 参考文献)
「柳川まち歩きマップ」柳川市観光課
   

    ◆このページの先頭に戻る ◆次のページ
    ◆水郷柳川の川下り ◆柳川・沖端の町と北原白秋 ◆おひな様水上パレード ◆ひな祭り・さげもん 
    ◆柳川市沖端水天宮大祭(1) (2) (3) (4)
    ◆トップページに戻る