九州あちこち歴史散歩★大宰府政庁跡(都府楼址)             サイトマップ

大宰府政庁跡(都府楼址)

   6世紀ごろは現在の福岡市博多区近辺に、朝鮮半島および大陸との交流拠点がありました。
 663年の白村江の戦いで大敗し、唐・新羅の日本侵攻に備えるために、現在の大宰府政庁跡の地にその防衛拠点が移ったと考えられています。
 大宰府政庁は、西方からの侵攻に備える防衛、西街道(九州)の統治(隼人族の制圧など)などの拠点として、また外国との交渉との窓口として重要な役所で、大伴旅人(大宰帥(長官)をつとめ、帰京後すぐ大納言になった)などの有力者も配置されました。
 また、奈良・平安の都で当時激しかった政争に破れた者が、中央から遠ざけられ、大宰府に左遷されることもありました。

 政庁は12世紀ごろにはその役割を終え、政庁跡はだんだん荒野となっていきました。

 大伴旅人が太宰師
(そち)だったとき(727-730頃)、筑前守・山上憶良、造観世音寺別当・沙弥満誓(笠麻呂)、大宰少弐・小野老(おゆ)、大伴坂上郎女(いらつめ)、大宰大監・大伴百代らが相次いで筑紫国に任命され、遠の朝廷(みかど)・大宰府で万葉文化が華開き、筑紫歌壇と称されています。これらの歌は、万葉集の中でも輝いています。



冬(12月)の大宰府政庁跡

大宰府政庁跡(都府楼址)

  東南側の小川から中央付近を望む。

 「世の中は空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり」大伴旅人
 (神亀5年(728)、旅人は大宰府にいるとき、愛する妻(大伴坂上郎女)を失いました。)

 旅人は720年、征隼人持節大将軍として九州に下り、隼人の反乱を制圧し帰京。727年末か728年に大宰師として赴任し、730年末帰京しました。大納言を拝命、従二位に昇り、当時臣下で最高位となりました。



万大宰府政庁跡の万葉歌碑

   小川の畔に万葉歌碑があります。

 この歌は、神亀5年(728)、小野老が大宰少弐(次官)として大宰府に着任したとき、大宰師大伴旅人が開いた歓迎の宴で歌われたものといわれます。

 



  大宰府政庁跡の小野老の万葉歌碑
 
 「あおによし寧楽(なら)の京師(みやこ)
    咲く花の薫(にほ)ふがごとく 今さかりなり」 小野老(おゆ)



大宰府政庁跡(都府楼址)

   東側中央から西方向を眺める。

 「橘の花散る里のほととぎす 片恋しつつ鳴く日しぞ多き」 大伴旅人
 (橘の花が散る里のほととぎすは、散った花を恋慕いながら鳴く日が多いことです。)



大宰府政庁跡(都府楼址)

   南東部から北方向を眺める。

 「湯の原に鳴く葦鶴(あしたづ)は我が如く 妹(いも)に恋ふれや時わかず鳴く」 大伴旅人
 (湯の原で鳴く葦鶴は、私と同じで妻が恋しいのだろうか、絶えず鳴いている。)

 



大宰府政庁(都府楼)の回廊跡


  大宰府政庁(都府楼)の中門跡
   
 「回廊跡」と「中門跡」

 「いざ子ども香椎の潟に白妙の 袖さへ濡れて朝菜摘みてむ」 大伴旅人
 (さあ皆の者よ、この香椎の干潟で、袖まで濡らして、朝餉(あさげ)の海藻を摘みましょう。)



大宰府政庁跡(都府楼址)。正面から望む。

   南側の入口から北(本殿)方向を眺める。

 「験(しるし)なき物を思はずは 一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし」 大伴旅人
 (くよくよと甲斐のない物思いにふけるよりも、一杯の濁り酒を飲むほうがよいらしい。)



大宰府政庁跡(都府楼址)の礎石

   南西部の礎石群。後方は四王子山で、中央の出っ張った部分が岩屋城跡。

 「値なき宝といふとも一坏(ひとつき)の 濁れる酒に豈(あに)まさめやも」 大伴旅人
 (値のつけようのない宝であっても、一杯の濁り酒にどうしてまさろうか。)





大宰府政庁跡(都府楼址)の礎石

   南西部の礎石群

 「いかにあらむ日の時にかも 声知らむ人の膝の上(へ)我が枕かむ」 大伴旅人
 (いつになったら、この声を聞き分けてくれる人の膝の上を、私は枕にすることができるのでしょうか。)



大宰府政庁跡(都府楼址)の正殿周辺

   冬の夕暮れです。公園に人影もほとんどなくなりました。
 中央の説明板の奥、3基の石碑が建っているあたりに、巾28.5メートルの正殿が建っていたそうです。

 「我が岡に盛りに咲ける梅の花 残れる雪をまがへつるかも」 大伴旅人
 (私の住む岡に真っ盛りに咲いている梅の花、と思ったら、枝に消え残った雪を見間違えてしまったのだなあ。)



大宰府政庁跡(都府楼址)正殿跡の説明板

   正殿の説明板

 「億良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむ それその母も我を待つらむぞ」 山上憶良
 (私たちはもうこれで宴を失礼したしましょう。家では子どもたちが泣いていることでしょう。
  ええ、その母も私たちの帰りを待っていることでしょう。)

 山上憶良(660-733?)は702年第7次遣唐使に随行し、数年後に帰国。神亀3年(726)筑前守として赴任、731または732年帰京。帰京後(732)「貧窮問答歌」を作った。万葉集に約80首選ばれている。

 



大宰府政庁跡(都府楼址)の正殿周辺の石碑

   正殿跡付近に3基の石碑が建っています。

 「荒れはてし西の都に来てみれば 観世音寺の入相の鐘」 博多・聖福寺 仙崖和尚
 12世紀頃に大宰府政庁が廃絶した後は、荒野となってしまった。江戸時代、軽妙洒脱な絵や、「○△□」の絵で有名な禅僧仙崖和尚が大宰府政庁跡を訪れたときももちろん往時の繁栄ぶりはなく、明治時代になっても礎石や瓦などが持ち去られるままになっていた。
 政庁跡が忘れ去られていくことを恐れた地元の人々が、明治初めに左側2基の大宰府顕彰碑を建てました。

 



大宰府政庁跡(都府楼址)の正殿周辺の石碑

  中央(写真右)の顕彰碑:「都督府古址」
 明治4年(1871)、地元の(大野城市)乙金村の大庄屋高原善七郎が自費で建てたもので、善七郎は都督府古址の保存にも尽力しました。

左側の顕彰碑:
 明治13年(1880)地元の御笠郡の人々が、福岡県令渡辺清(西郷隆盛と勝海舟とで行われた江戸城無血開城の会談に立会った)に大宰府由来の文を撰してもらって建てました。

 歴史を感じるのは、3基のうちの一番右の背の高い石碑です。
 ことの発端はこれが一番古く、寛政元年(1789)にさかのぼります。
 福岡藩西学門所「甘棠館(かんとうかん)」の学長亀井南冥が、大宰府政庁跡を顕彰するため碑文を作ったが、その文章の中に勤皇精神を表した部分があるとの理由で、藩は建立を許可しませんでした。

 (亀井南冥は、志賀島で発見された金印(「漢委奴国王」印)を調べ、漢の光武帝から下された金印と鑑定した学者です。この印の発見、印文、鑑定書などを全国の学者に送り、金印は当時から全国的に有名になりました。「漢の属国になったことはないのだから、すぐ鋳潰してしまえ」という意見に対して、「歴史的に重要なものだから、大事に残すべきだ」と主張して後世に残したのは彼の功績と思われます。
 (しかし、金印の発見の過程(発見場所や途中経過など)には大きな謎(!)が残っています。))

 寛政2年(1790)、幕府は朱子学以外の学問を禁止しました。これにより開学当初から張り合っていた福岡藩東学門所「修猷館」からの攻撃も激しくなり、儒学者の亀井南冥は寛政4年(1792)藩により学長の解任、蟄居閉門の処分を受けました。(原因として、@幕府が公布した異学禁止の影響、A勤皇的行動が警戒された、B酒のうえで醜態を重ねた、C金印についての鑑定の経過が疑われた、などが言われますが真相はわかりません。)
 さらに寛政10年(1798)に「甘棠館」が焼失し、そのまま廃止され、生徒はすべて修猷館に編入されました。
 失意に沈んだ南冥でしたが、やがて息子昭陽を中心に私塾亀井塾が開かれ、南冥も指導に加わりました。塾には九州はおろか全国から弟子が訪れ、広瀬淡窓ほか優れた人材が育ちました。
 文化11年(1814)、72歳で亡くなりました。晩年は静かに余生を送ったと思いたいところですが、息子昭陽は「老いた父が(精神的に落ち着かず)発作を頻発し、どうしたらよいかわからない」と学窓の秋月藩士原古処に書き送り、ついに南冥は自ら自宅に火をつけ、合掌しながら焼け死んだといいます。長寿時代となった現代にも共通する家庭の悩みがあったようです。

 それから百年後の大正3年(1914)、南冥の門下生の尽力により石碑がようやく建てられました。南冥が顕彰碑文を撰して、実に130年後のことでした。

 



大宰府政庁跡(都府楼址)

   北の正殿跡側から南方向を眺める。

 『子等を思ふ歌』 山上憶良
 (長歌)「瓜(うり)(は)めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲ばゆ
      いずくより来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとなかかりて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ」 
     (瓜を食えば、子どもにも食わしてやりたいと、子どものことが思われる。
      栗を食えば、まして偲ばれる。いったいどこからやってきたものなのか、
      子どもの面影が目の前にちらついて、夜もおちおち眠れない。)

 (反歌)「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも」
     (銀も金も真珠も何になろうか、大切な宝といったら子にまさるものなどありはしない。)



大宰府政庁跡(都府楼址)

   北東側から南西方向を眺める。
 礎石だらけです。

『貧窮問答歌』 山上憶良
(長歌)
 風まじり 雨降る夜(よ)の 雨まじり 雪降る夜(よ)は すべもなく 寒くしあれば
 堅塩(かたしほ)を 取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜(すす)ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに
 しかとあらぬ 髭掻き撫でて 我(あ)をおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば
 麻衾(あさふすま) 引き被(かがふ)り 布肩衣(ぬのかたぎぬ) ありのことごと 着襲(そ)へども 寒き夜すらを
 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ひて泣くらむ
 この時は いかにしつつか 汝(な)が世は渡る

 天地(あめつち)は 広しとえへど 我が為は 狭(さ)くやなりぬる 日月は 明しといへど
 我が為は 照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを
 人並に 我も作るを 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)のごと 乱(わわ)け垂(さが)れる
 かかふのみ 肩に打ち掛け 伏(ふせいほ)の 曲(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて
 父母は 枕の方に 妻子(めこ)どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ

 竈(かまど)には 火気(ほけ)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯炊(いひかし)く ことも忘れて
 ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると 云へるが如く
 笞杖(しもと)執る 里長(さとをさ)が声は 寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ
 かくばかり すべなきものか 世の中の道

(反歌)
 世の中を憂しと恥(やさ)しと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 山上憶良は高級官僚という立場にありながら、生活に喘ぐ農民や防人に取られる夫を見守る妻など、社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人です。貴族や高級官吏などと一般庶民との生きる世界がまったく異なっていた時代に、このような歌を詠んだ憶良は時代を超越した異能の人にも思えます。



  (参考資料)
「太宰府の本」太宰府市発行

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