九州あちこち歴史散歩★福岡市志賀島・志賀海神社(1) サイトマップ
志賀島は博多湾の北部に位置し、昔は島でしたが砂洲で本土とつながり、現在は海の中道と陸続きになっています。古代日本の大陸や朝鮮半島への海上交易の要地として、歴史的に重要な位置を占めています。 志賀島の入口にある式内社「志賀海神社」は「万葉集」にもうたわれる漁猟と航海運輸に活躍する志賀海人が祀る歴史の深い神社で、その由来は2世紀にさかのぼります。御祭神は綿津見(わたつみ)三神で、全国の綿津見神社の総本宮です。宮司は代々阿曇(あずみ)氏が務め、日本書紀や古事記にも阿曇氏に関する記述が見られます。「筑前国風土記」には神功皇后が三韓征伐の際に志賀島に立ち寄り、阿曇族の祖神・阿曇磯良(あずみのいそら)が海底から現れ、航海の案内者になったとの記述があります。 天明4年(1784)には近くの「叶(かね)の崎」で「漢委奴国王」の金印が発見されました。 志賀島は「鹿の島」ではなく「近島」から志賀島になり、志賀島の海人族が各地に広がり、滋賀(県)や志賀(高原)などは志賀島由来の地名といわれます。また、安曇川や渥美半島、信州の安曇野、諏訪神社なども阿曇族と関係が深いといわれています。 |
東側の浜から見た志賀海神社の神域の山 |
志賀海神社の参道入口 |
参道入口の石碑には「官幣小社志賀海社」と刻まれています。 |
志賀島は海からすぐ山になっているので、階段が続いています。 |
志賀海神社の説明文 |
境内にある末社「印鑰(いんやく)社」 |
「印鑰(いんやく)社」の説明文 印鑰は朝廷から渡された印と鑰(かぎ)のことで、神功皇后の時代に朝廷の内蔵−大蔵の管理者であった蘇我石川宿禰(武内宿禰の三男。九州で亡くなった)を祀ることが多い。 |
参道野」両側には木々が生い茂っています。 |
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「石造宝篋(ほうきょう)印塔」 |
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「石造宝篋(ほうきょう)印塔」の説明文 |
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「石造宝篋(ほうきょう)印塔」 貞和3年(1347)の造立とありますので、室町時代に造られたものですね。 |
頭上でうぐいすがずっと鳴いていました。 |
楼門を望む |
境内の「山の神」 |
「楼門」 |
楼門の前に石の太鼓橋がありました。 神域と俗界を分ける橋でしょうか。 |
「楼門」 |
「志賀海神社 略記」(説明板の右半分) 御祭神は底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神の三神です。 「古事記」「日本書紀」にはともにイザナギノミコトが「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(あわきがはら)(福岡県を指しているのか宮崎県なのか見解が分かれています)」で海に入り禊(みそぎ)をしたときに、この綿津見三神が生まれたとされ、いわば皇室の祖神アマテラスの兄にあたり、皇室の祖先と近い関係にあったと語られています。 (同じ海人族の宗像三女神は、アマテラスが高天原(たかまがはら)でスサノオと誓約(うけい)をしたときに、アマテラスが剣から生んだ女神であるから、アマテラスの子供ということになります。) |
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「志賀海神社 略記」(説明板の左半分) 綿津見三神を祀るようになる以前には、阿曇族の祖神・阿曇磯良神を祀っていたのであろうとの説もあります。2,000年近く前のことです。 |
拝殿の扁額 志賀海神社で昔から演じられてきた「君が代」の神楽が、国歌「君が代」のもとになったという説があります。 |
志賀海神社の大漁旗 |
拝殿の正面 |
遥拝所 境内から玄界灘が望めます。 |
「亀石」の説明文 |
「亀石」 泳いでいる亀にそっくりです。神功皇后に招かれ、亀に乗って阿曇磯良が海底から姿を現しました。 (神功皇后はその実在を疑われてますが、九州北部には神功皇后に関する多くの伝承が残っているので、その基になった人物がいたことは間違いないと思われます。) |
「海の中道」(右上)と玄界灘 |