九州あちこち歴史散歩★太宰府市・水城跡                     サイトマップ

太宰府市・水城跡

   太宰府市の西側に1300年以上も前に造られた「水城」が、今も昔のままの姿で残っています。(交通の要衝なので現在は一部切断されて道路や鉄道が通っていますが・・)
 これは一体いつごろ、なぜ造られたのでしょうか。

 7世紀初め、朝鮮半島は高句麗
(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)の三国が鼎立していたが、新羅は中国を平定した唐の援助を得て、660年に百済を滅ぼしました。
 百済の遺臣たちは大和朝廷に救援を求め、中大兄皇子
(なかのおおえのおうじ)は天智2年(663)に大軍を派遣したが、白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の戦いで唐・新羅連合軍に大敗を喫して退きました。
 (大和朝廷を駆逐した新羅は668年ついに高句麗をも滅ぼして朝鮮半島を統一した。)
 敗戦にあわてた中大兄皇子は唐・新羅連合軍の来襲を恐れ、西日本各地に城を築き、対馬、壱岐、筑紫に防人
(さきもり)(兵士)を配置し、烽火台(のろしだい)を設け、警戒にあたらせました。

 当時朝鮮半島や中国との交流の窓口は那津
(なのつ)(博多の那珂川河口)にあったが、太宰府に軍事司令部を設け、その周辺に防衛網を築きました。
 天智3年(664)、太宰府に水城の大堤を造り、翌年には近くに大野城、基肄
(きい)城を造り、またその頃、大宰府や基肄などの後方基地として山鹿に鞠智城も造られ、来襲に備えました。
 対馬の金田城、讃岐の屋島城、奈良の高安城などもこの時代に防衛のために造られました。





水城見学用の駐車場

 県道112号線沿いの、水城のすぐ北側に水城見学用の大きな駐車場があります。
 (県道574号線沿いの、展望台のすぐ下にも駐車場があります。)



大宰府の水城北側

水城の北側。
水城の大堤には林が茂っています。



大宰府の水城北側の小さな祠

 3月下旬、ヤマザクラが咲き始めていました。
 人も少なく、格好の散策エリアです。



大宰府の水城周辺の案内図

付近の案内図(上が南です。)
 中央の大きな道路が県道112号線で、「現在地」と記してある場所が駐車場です。
 小さな道路が県道574号線で、展望台下の「東門礎石」と記してある場所に駐車場があります。



大宰府の水城の説明文

「土塁はほとんど人口の盛土で、全長1.2km、巾77m、高さ約9m」だそうです。
 平野の一番狭くなった部分に造成されているので、現在、水城の東側(県道)、中央部分(九州自動車道、国道3号線)、西側(電車)の3か所で切断されて、道路や電車が通っています。しかし、水城の大部分は昔のまま残っています。



大宰府の水城の説明文

 大堤の北側(博多側)には水が溜められ、大きな堀となっていました。



大宰府の水城跡

展望台近くの案内標識



大宰府の水城東側の展望台

 東側の展望台。
 写真右側奥に県道574号線に面した駐車場が見えています。



大宰府の水城東側の展望台からの眺め

 展望台から水城を望んでいます。
 ずっとむこうに一直線に続いているのですが、同じ高さのため見通せません。
 (もっと高いところから水城が向こうまで見通せる場所を、と思って山の中腹の国分小学校周辺に行ってみましたが、適当な場所を見つけることができませんでした。)



大宰府の水城周辺の桃の花

 展望台周辺に桃の花が咲いていました。



大宰府の水城の説明文

「東門礎石」の案内板



大宰府の水城北側

 水城の北側。的の来襲を防ぐために北側には水が溜められて、大きな堀となっていたようです。
 堤が二段になっています。

水城が造られた前後のできごと(1)
622年2月 聖徳太子亡くなる。(聖徳太子が実在したという確証はありません。)

皇極2年(643)11月 山背大兄王(やましろおおえのおう)(聖徳太子の息子)とその一族が自害。
     蘇我入鹿が王に謀反の罪をかぶせて一族を死に追いやったといわれている。
     聖徳太子の一族郎党は生駒山から斑鳩寺に戻り全員自害し、一族は滅亡した。
    (この出来事も確証はありません。)

皇極4年(645)6月 乙巳(いっし)の変。大化の改新。
     中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが大極殿で蘇我入鹿(いるか)を暗殺。
     父の蘇我蝦夷(えみし)も翌日自害し蘇我氏宗家は滅んだ。
    (蘇我氏は悪くなく、「日本書紀」で意識的に悪者にされているとの説も強いようです。)



大宰府の水城北側

 堤の北側。ヤマザクラの並木になっていて、桜の花が咲き始めています。

水城が造られた前後のできごと(2)
斎明6年(660) 唐・新羅連合軍によって百済が滅ぼされた。
 百済とつながりの強かった大和朝廷は67歳の斎明天皇が皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)らを率い、百済救援のために良く7年3月に筑紫の那津に移った。
 筑前の朝倉に移った斎明天皇は朝倉宮で亡くなり、皇太子の中大兄皇子は朝倉から那津に戻り、後に飛鳥に戻った。

天智2年(663)8月 白村江の戦いで大敗北
 大和朝廷は百済の要請を受け入れ2万7千人の救援軍を派遣した。大和朝廷の水軍は錦江付近の「白村江」で唐・新羅連合軍の水軍と戦い完敗を喫し、制海権を失った。百済王は高句麗に逃れて国は滅んだ。日本にも唐・新羅連合軍が日本に侵攻するかもしれないという非常事態に追い込まれた。
 大和朝廷は海岸から少し内陸に入った大宰府の地に軍事司令部や防衛網を設けることにした。

天智3年(664) 対馬、壱岐、筑紫などに防衛のため防人(さきもり)や烽(とぶひ)(=烽火台(のろしだい)を置いた。
 大宰府には水城の大堤を築いた。

天智4年(665) 大宰府の周辺に広大な大野城、基肄(きい)城を築いた。(この後に山鹿市の鞠智(きくち)城も造られたようです。)
 (大宰府政庁が設けられたのは8世紀初め頃のようです。)

天智6年(667) 都を近江の大津宮に移した。
 防衛のため対馬に金田城、讃岐に屋島城、大和に高安城を築いた。



大宰府の水城北側

 大堤が二段になっているのがよくわかります。

水城が造られた前後のできごと(3)
 万葉集の女流歌人、額田王(ぬかたのおおきみ)が活躍したのもこの時代です。

 「あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る」(額田王)
  (紫草の茂る野原を、狩場の標を張ったその野を行きながら、そんなことをなさって……。
   野の番人が見るではないですか、あなたが私の方へ袖を振っておられるのを。)

 天智天皇が群臣たちと蒲生野で狩りをしたときに、額田王が歌ったものです。
 額田王は15歳で大海人皇子の妃となり、娘・十市皇女(とおちのひめみこ)を生みましたが、後に天智天皇の寵愛を受けその妃となりました。(正妻ではなく側室(愛人)みたいな立場。当時、宮中では妃を何人も持つのが普通でした。)
 天智天皇の寵愛を受けていた額田王が狩場で、前の夫・大海人皇子に贈ったのが上の歌です。

 「紫のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋いめやも」
  (紫草のように美しいあなたを、人妻になってしまったからといって憎くおもったりしませんよ。
   今でも恋しく思っています。)
 これは大海人皇子が糠田王に返した歌です。

 額田王の歌は恋しく思う大海人皇子に贈った相聞歌(そうもんか)とも、狩りの宴で座興に歌われたものともいわれていますが、はたしてどちらでしょうか。
 大海人皇子と額田王との間の娘(十市皇女)は、天智天皇の皇子・大友皇子と結婚しますが、後に壬申の乱で大友皇子は大海人皇子に滅ぼされることになります。

 「熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
 これも額田王の歌で、道後温泉近くの港で歌われたものです。道後温泉はこの頃からすでに有名でした。





大宰府の水城北側

 右側は中央部分の切れ目で、九州自動車道などが通っています。

水城が造られた前後のできごと(4)
672年6月 壬申(じんしん)の乱。
 古代における最大の内乱。天智天皇が亡くなった後、その皇子・大友の皇子と大海人皇子(おおあまのおうじ)が近畿、尾張、美濃を戦場として戦い、大海人皇子側が勝利した。飛鳥で即位し天武天皇となった。

大和朝廷が恐れた唐・新羅連合軍の侵攻はどうなったのでしょうか。
 侵攻はありませんでした。
 唐はまず高句麗を攻めることを選択し、高句麗を滅ぼしました。
 唐と新羅は直接国境を接することになり、やがて争いが起き、二国間で戦いが始まりました。

 8世紀になると日本は国際的な軍事的危機から解放され、安定した平和の時期に移りました。大宰府政庁が設けられ大伴旅人などを長官に迎え、大宰府の黄金時代の幕が開かれました。



大宰府の水城周辺の風景

 九州自動車道と国道3号線が通っています。



大宰府の水城周辺の風景

 道路の向こう側には水城が続いています。



大宰府の水城南側

 大堤の北側。東方面(四王子山)を望む。
 四王子山の山頂を囲んで、広大な大野城が造られました。



大宰府の水城南側

 大堤の中央部分の切断面。



大宰府の水城より岩屋城を望む

 水城より岩屋城(左上の小高くなっている空中舞台の如き部分)を望む。
 岩屋城は戦国時代、高橋紹運以下763名の兵が籠城し、5万の島津軍を相手に2週間に渉る死闘を繰り広げ、遂に全員討死にするも島津軍に甚大な被害を与え、島津軍の九州制覇を食い止めた城として有名です。



大宰府の水城南側

 大堤の南側。3月下旬、菜の花はすでに盛りを過ぎていました。



大宰府の水城南側

 水城の南側。こちら側にも桜並木が続いています。



大宰府の水城南側

 今も1300年以上も前に作られた大堤がそのまま残っています。



大宰府の水城のヤマザクラ

 3月下旬、大堤にはヤマザクラが咲き始めていました。



大宰府の水城のヤマザクラ

 水城には楚々として静かに咲くヤマザクラがぴったりです。



大宰府の水城北側の小さな祠

 水城の東端にある「賽の神」
 いつの時代から祀られているのでしょうか。



大宰府の水城の石碑

「水城大堤之碑」



大宰府の水城付近の駐車場

 大きな道路(県道112号線)沿いに広い駐車場が設けられています。
 水城の北側百メートル前後の地点で、ダイハツの手前です。



大宰府の水城付近の駐車場案内

 ダイハツの手前のこの案内標識の場所に広い駐車場があります。



大宰府の水城周辺の案内図

 付近の史跡の案内板



大宰府の水城北側の風景

 1300年も昔に作られた水城の大堤がほぼそのままの姿で残っています。



  (参考資料)
「大宰府の歴史1」古都大宰府を守る会編 西日本新聞社
「早わかり日本史」河合敦 日本実業出版社

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