九州あちこち歴史散歩★福岡市志賀島・金印公園                     サイトマップ

福岡市志賀島・金印公園

   4月中旬、海の中道を西に進み、志賀島(しかのしま)を訪れました。
 島に入ったすぐのところに「志賀海神社」につながる道があり、一方、道を左に取って志賀島の南側の海岸に沿って車を走らせると、数分で「金印公園」「蒙古塚」に着きます。
  (どちらも道路わきに数台の駐車スペースがあります。)
 志賀島は古来海人族の本拠地とされ、海神の総本社・志賀海(しかうみ)神社の歴史は2世紀までさかのぼることができます。神功皇后の三韓征伐に際しては、宮司阿曇(あずみ)氏の祖神阿曇磯良(いそら)が舵取りを務めた、との記録が残っています。(筑前国風土記)

 天明4年(1784)、この志賀島で畑仕事をしていた百姓甚兵衛が偶然「漢委奴国王」と刻まれた金印を掘り出したとされ、以来二百数十年にわたってこの超国宝級の金印の真贋や発掘の経緯などをめぐって論争が繰り広げられてきました。

 金印は現在、福岡市早良区百道浜にある「福岡市博物館」に常時展示されており、いつでも見ることができます。

   「福岡市博物館」のホームページ・・・金印に関するページもあります。

   「しかのしま資料館」・・・金印関係、万葉歌、志賀海神社などの資料が多数展示されています。




「漢委奴国王」と陰刻された金印の印面(公園の模型)

「漢委奴国王」と陰刻された金印の印面。漢字が読めるように、左右を逆にした模型が金印公園に展示されています。
 文字の読み方は各論ありますが、「漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王(こくおう)」とする読み方が現在主流となっています。
(ちゅう)(つまみ)には蛇がかたどられ、一辺2.3cm、重さ108gで、実物は思ったより小さいです。
昭和53年(1978)に黒田家より福岡市に寄贈され、現在、国宝として福岡市博物館で常時公開されています。

 昭和41年(1966)、岡崎敬・九大名誉教授が正確な計測を行い、高さ2.236cm。印面の長さは2.34cmで、これは当時の中国の一寸に当り後漢の初めのころのものであることがはっきりし、その後中国内でも同じ大きさの金印が出土したこともあり、現在ではほぼ本物と考えられています。

 この頃の印は紙に押印するのではなく、粘土に押すためのもので陰刻になっています。
 当時の中国の公式の書類は竹や木に書いてあり、何枚かを束ねて糸を掛け、その糸の上下に粘土を押し付けて、粘土に印を押しました。その文書を読むためには封印された粘土を破らないといけないので、破って中の文書を読んだり偽造したりしても再度封印する印鑑がないので中の文書の真偽がわかる仕組みです。

(国の文字の左側の縦棒中央が窪んでいることに注目! 現在福岡市博物館に展示されている本物とされる金印が忠実に再現されています。
 窪んでいる外枠の部分が欠けている(1、2ミリほど欠損している)金印が別に存在していて、そのどちらが本物なのかわからない可能性があります。)

金印の謎(1) 金印発見の経緯(1)
「百姓甚兵衛の口上書」天明4年(1784)3月16日 (大正4年(1915)に初めて黒田家から公開され、この資料の存在が世間に知られた)

「天明4年2月23日、叶の崎
(かなのさき)にある田の水の流れが良くないので、これを直していたところ、小さな石が出始めました。そのうち、二人で持ち上げる程の石が出てきたので、やむを得ずカナテコを使ってどけたところ、石の間に光るものがありました。水で洗うと金の印刻のようなものであり、私が見たことのないものでした。
 そこで私の兄の喜兵衛が以前奉公していた福岡町家衆の人へ見せたところ、大切にした方が良いといわれ大事に持っていました。ところが、昨日庄屋殿から急ぎ御役所へ差し出すよういわれましたので、この通り差し出しました。」
と記載されている。
 これに続いて、庄屋武蔵が
「甚兵衛の口上書に何らの偽りはこざいません。
 金印が発見されたときすぐに申し出るべきでしたが、結果として届け出が二十日も遅れ、市中に噂がたってしまったことは誠に申し訳ありません。」
と申し添えている。
(文中の「福岡町家衆」というのは米屋の才蔵と判明している。)
 この口上書に村の組頭二人、志賀村庄屋武蔵が署名し、郡
(こおり)奉行宛差し出されている。

 口上書に登場する7人のうち、発見者の甚兵衛とその兄喜兵衛の実在は確認されていない。他の5人は名寄帳やお寺の過去帳などで実在が確認されている。

 甚兵衛は一人で田んぼの仕事をしており、他の人の力を借りたり、いっしょに掘り出したとの記述はない。掘り出したところは誰も見ていない。

金印が発見されたことは博多の町中の評判になっていたのに、志賀島の「叶の崎」に人々が宝探しに、あるいは発掘現場を見学に集まったという記録は全くない。「叶の先」がどこかもわからなくなってしまった。

 博多聖福寺第百二十三世の仙崖和尚は後年書いたと思われる「志賀島小幅」の中で、「金印の発見者は甚兵衛でなく志賀島農民秀治、喜平の二人である」としている。
 また、志賀海神社宮司の安雲家に伝世する「万暦家内年鑑」のメモ(メモの部分の原本は失われている)は「志賀島小路町秀治、大石の下より金印を掘出す」としている。
 このため、「金印を見つけたのは小作人の秀治と喜平だが、二人は金印を地主の甚兵衛に届け、郡奉行へは甚兵衛の名前で提出した」という説や、「甚兵衛の存在が確認されないのは、金印発見の後に秀治と改名したからだ」との説も出ている。
 また、亀井南冥の「金印弁」には出土地付近の見取り図も添えられており、「筑前国続風土記附録」の記録や海岸の絵図なども論争に際して参考にされた。しかし、発見地とされる「叶の崎」には絵図に描かれているような田畑の広さは全くなく、このため出土地は志賀島の他の場所だとする説が次々と出る基となっている。



金印の説明文

「中国の古い書物である「後漢書」に西暦57年(弥生時代)、時の皇帝光武帝が奴国からの使者に印綬を授けたことが書いてあります。
 この印が天明4年(西暦1784年)偶然この地から出土した金印(昭和29年3月20日、国宝指定)であります。印面には「漢委奴国王」と凹刻されており、「委」は日本人に対する古い呼び名で、「奴」は現在の福岡市を中心とする地にあったその時代の小国家の名であります。
 一辺2.3cmの正方形、厚さ0.8cm、重さ108gの純金に近いもので、つまみの部分は蛇がとぐろを巻いたような形になっています。
 ・・・どのようなわけで、ここに埋められていたのか・・・謎とされています。」

金印の謎(2) 金印発見の経緯(2)
 天明4年(1784)3月、福岡藩は金印が差し出されると、直ちに開校したばかりの修猷館(しゅうゆうかん)と甘棠館(かんとうかん)の両校に対して論文の提出を命じた。
 甘棠館は亀井南冥
(なんめい)が一人で「金印弁」を書き上げ直ぐに藩庁へ提出したが、一方修猷館は急には対応できず、館長の竹田定良を筆頭に5名の連署で「金印議」を遅れて提出した。

 金印発見の月に福岡藩の二つの藩校が同時に開校している。
 甘棠館2月1日  修猷館2月6日
 (この頃全国の藩で藩校が続々と開校した)
 東学問所といわれた「修猷館」は城下の大名町に開校し、藩儒筆頭の竹田定良(藩主とも姻戚)が学長(当時は祭酒と称した)。貝原益軒門流の官学朱子学であり、書生は600人であった。 
 西学問所といわれた甘棠館は商人の町唐人町に開校し、民間の儒医・学者から藩主の儒医として採用されていた亀井南冥(1743-1814)が学長。荻生徂徠の門流で儒学を中心とし、書生は200人であった。
 藩校については貝原益軒が藩主黒田重政に説き、開校の予定であったが、重政が亡くなるなど不幸が続いたため立ち消えになっていた。この後、新進気鋭の亀井南冥が「建学の議」を建白し藩校開学を強く訴え、藩主黒田治之の信頼を得て、全国でも珍しい二校の藩校が並立することになった。(熊本の藩校設立から30年遅れてしまった。)
(藩主黒田治之は1782年に亡くなったが、亀井南冥を藩校の学長とするよう遺言していた。)

 黒田藩から鑑定論文の提出を求められた両校には、藩校としての権威と信用がかかっていた。
 甘棠館の亀井南冥は、「後漢書」東夷伝や、当時知られていなかった中国の書籍「集古印譜」他多くの資料を引用し、後漢の建武中元(西暦57年)光武帝から与えられたものと鑑定し報告した。文字の読み方は、委をヤマト、奴を「の」として、「漢のヤマトの国王」と読んだ。南冥の論文は格調高く、委を倭を省略したものと判断し、金印の由来などは完璧に近かった。

 一方、修猷館側のものは、金印については亀井南冥の論を追認するもので、発掘の状況については次のようにかなりお粗末な内容であった。
「金印が志賀島から出土した理由として「源平の乱のとき、三種の神器も移動した。この折、金印もいっしょに運ばれたが、何かのはずみで路に落としたか、それとも安徳帝入水のときに海中に沈んだか、その後、理由は不明だが金印だけが流れ着き、いつの間にか土中に埋もれたと考えられる。」

 藩校の名誉を賭けた論文であり、しかも5名連署で提出したものにしてはお粗末な内容である。しかし、逆にこれから次のことがうかがえる。
 当然発掘されたという現場を調査したであろうが、甚兵衛の発掘の状況も不明で、二人でやっと動かせる大石も確認できていない。大石があれば当然墳墓などの可能性に触れるであろうが、それらには一言も触れず、土中に埋もれたのだろうと抽象的に述べている。
 これは、すでにこの時点で甚兵衛が発掘したという特定の地点も確認できず、古墳や支石墓らしきものが皆無で、修猷館側は解釈に困ったということを物語っている。口上書には大石の下から出た、とあるものの、その確認はできず、確認できないことを書くわけにはいかないので、扱いに困って金印が流れ着いて土中に埋もれたとしか書けなかったのであろう。
 しかし、実はこちらの記述がありのままの状況を述べていると思われる。金印が発掘された直後であるにもかかわらず、この時点ですでに発掘現場や大きな石などは確認できなかったことを示している。
 (江戸時代に多くの学者や文人が金印について論じていて、その中には墳墓や支石墓から出土した、と記述したものがあるが、それらはすべて創作・推論であって、現実には現場で大石ひとつ確認されていない。)

 亀井南冥は米屋才蔵の求めに応じて、二通の金印鑑定書を書いている。しかし、そのどちらにも肝心の発見日、発見地、発見者、鑑定書作成日が記されていない。



金印公園の説明板

金印公園内の説明板

金印の謎(3) 金印発見の経緯(3)
 亀井南冥は、この時期に、金印の印影などを手紙で全国の文人、学者、江戸屋敷などに送ったようで、直ちに江戸、京都、大坂などの当時の日本を代表する本居宣長、上田秋成、藤原貞幹、大田蜀山人、伴信友、仙崖和尚、他多数の学者、文人が論争に参加し、大きな話題となった。

 福岡で百姓甚兵衛の口上書が提出されて一ヵ月後の4月11日、京都で国学者藤原貞幹が金印に関する論文を発表した。その中で4月2日に摸刻したとしてすでに金印の印影を掲載している。
 5月には江戸の上田秋成が論文を発表。
 二人とも「漢のイト国の王」と読んだ。

 文字の読み方と解釈を初め、金印について論争が巻き起こった。金印に璽や印の文字がないので偽物との論など、金印は偽物とする論も多く、真偽論争も白熱した。

 亀井南冥から手紙を受け取った文人学者の調査検討の時間を考えると、南冥は藩に命じられるとすぐに日本各地に手紙を送った可能性が大きい。
 南冥は藩に命じられた金印の鑑定に調査の時間を要したはずである。調べる文献にしても、現在のように大きな図書館やインターネットがあるわけではなく、中国の書籍などは文章の解釈などにも時間を取られると思われる。また、ある程度自分の鑑定も確立してからでないと全国の学者に手紙を送るなどできないであろう。当時、福岡〜京都〜江戸の郵便に20日間程度を要するとしたら、南冥は金印発見のかなり前からすでに金印を調査して自らの鑑定に間違いないとの自信を得ており、藩に調査を命じられるとすぐに自分の論文と印影を全国の多くの学者や江戸藩屋敷などに送ったものと思われる。
(つまり、志賀島で発見されるもっと前から金印はすでに発掘されていて、好事家が保有しており、亀井南冥もそれを調べる機会をすでに持っていたと考えるほうが出来事の流れが自然とする意見もある。私もこの推論が一番スムーズに理解できると思う。)

 江戸時代のほとんどの金印関係の論文には模刻印が押されている。南冥が直接送った印面や、大坂や江戸の黒田藩(ここにも南冥が送った)の藩士より入手した印面を模刻したものである。江戸時代にすでに数十個の模刻印があったと思われる。(現在のようにコピー機がないので、論文に印影を記録するためには模刻印を作って押印した。ほとんどが木製と思われる。)

 明治時代前半までは「漢の委奴(いと)国の王」が有力な解釈だった。
 (しかし、志賀島は伊都ではなく、また伊都が金印を貰った記録もない。)

 明治25年(1892)、三宅米吉氏が委は倭と同じ意味で「漢の委(わ)の奴の国の王」と読み、金印は奴国王が西暦57年に後漢から貰ったもの、と主張し、現在はこの読み方が主流となっている。



金印公園の正面風景

このあたりは平地はなく、道路の横はすぐ公園に入る階段になっています。

金印の謎(4) 奴国とは?
 奴国は福岡市とそれに隣接する春日市の一帯に位置し、その中心は春日市の須玖
(すぐ)岡本遺跡の王墓周辺と考えられている。
 須玖遺跡群には弥生時代中〜後期の集落や墳墓が密集しており、王墓や当時のハイテク技術が結集した青銅器やガラスの工房群などもあることから、奴国の中枢的な集落と考えられている。

 金印が発見された同じ天明年間に須玖遺跡のある丘陵で、百姓の幸作が銅矛を一本発見している。
 須玖遺跡は昔から遺跡として有名で、江戸時代にも多くの資料がその存在に触れている。甕棺などは昭和になってもいくつもむき出しになっていた。

 明治32年(1899)、江戸時代に発見されていた須玖岡本の支石墓が調査され、その中から前漢鏡30余面分、銅剣2、銅矛5、銅戈1など8本、ガラス製の勾玉、壁などが出土した。

 昭和4年(1929)京都大学の調査団が本格的な学術調査を行った。
 昭和37年(1962)九州大学と福岡県教育委員会が調査を行った。
 現在、多くの遺跡群の上に住宅街が広がっている。

 奴国の成立は王が出現した弥生時代後半(紀元前1世紀頃)と考えられ、東アジアの中でも特に有力な国であったと見られている。
  西暦57年、奴国の外交使節団は、おそらく後漢の首都であった洛陽まで初めて出かけ、そこで後漢の光武帝から奴国王としての地位を認証され、また、朝鮮半島の弁韓の鉄を独占交易する権限を認められた。奴国は軍事力や農業生産力で卓越した地歩を築いた。
(それ以前にも倭人は漢が朝鮮半島に設置した楽浪郡を訪れ、絹や鏡を授けられていた。)

 奴国は起源1世紀には倭の国の中心であったが、3世紀には邪馬台国に統合されている。
(邪馬台国は邪馬台国より以北の投馬
(とうま?)、不弥(ふみ)、奴(な)、伊都(いと)、末盧(まつろ)、一支(いき)、対馬(つしま)の7つのクニと余の旁国といわれる21のクニを支配しており、卑弥呼が任命した一大率の統括下に置かれていた。
 奴国、伊都国(前原市)に比定されている地域から大量の前漢鏡や後漢鏡が出土している。(伊都のある神社には「昔、神社に金印があったがいつの間にか紛失した」という伝承があるようです。)

「漢書」・・(弥生時代中期)「・・倭人、百余国に分かれる。」
「後漢書」・・「建武中元2年(AD57)、倭の奴国、奉貢朝賀す、・・・、光武、賜うに印綬を以てす」
「魏志倭人伝(「魏志」東夷伝倭人条)」に現れる奴国は2万戸を数える大きな「クニ」であった。

 奴国王の金印は王墓から西北に18キロあまり離れた志賀島の海岸から出土したとされる。金印出土地の性格については不明な点が多く謎に包まれている。
 いずれにしても、2000年前に異国で下賜
(かし)された金印と、この事実を記した文献資料が揃っているのは奇跡的なことである。



「漢倭奴国王金印発光之處」の石碑

 大正11年(1922)「叶の崎」の地に「漢倭奴国王金印発光之處」の石碑が建立
されました。
 金印が発見された場所は長い間確定していなかったのですが、大正時代の初め頃に、九州考古学の父ともいわれる九州大学の中山平次郎博士が現在の金印公園の場所を、古老や諸資料から金印が発掘された「叶(かな)の崎」と推定しました。

金印の謎(4) 後漢とは? 光武帝とは?
秦(BC221-BC206)  (BCは紀元前、ADは紀元後)
 BC221 始皇帝が中国を統一した。
 BC209 陳勝・呉広の乱。劉邦、項羽などが挙兵。
 BC206 秦滅亡。項羽は楚の覇王、劉邦は漢王となる。
 
前漢(BC202-AD8年)
 BC202 垓下の戦いで項羽に勝った高祖劉邦が建国した。都は長安。
 BC139頃 張騫、西域を探検旅行
 BC91頃 司馬遷「史記」を完成させる

新(AD8-AD25年)
 AD8  王莽が新を建国

後漢(AD25-220)
 AD25 光武帝劉秀が前漢を簒奪した王莽を滅ぼし建国。都は洛陽
 AD57 倭奴国王、光武帝より金印を拝受
 AD74 班超が西域を征討、91年に西域都護となる。
 AD97 班超が甘英を大秦国(ローマ帝国)に派遣した
 AD105 蔡倫が紙を発明し、皇帝に献上した。
 AD166 大秦王安敦(ローマ帝国皇帝アントニウス)の使者が洛陽に到来。
 AD192 曹操が挙兵
 AD208 赤壁の戦い
 AD220 後漢滅亡

三国時代(AD220-280)
 AD220 曹操が195年続いた後漢を滅ぼし、その子曹丕(文帝)が魏を建国した。
(魏、呉、蜀の三国が覇権を争った。)
  魏(220-265) 曹操の息子曹丕が建国。都は洛陽。
  蜀(221-263) 劉備玄徳が建国。都は成都。(諸葛亮孔明、関羽、張飛などが活躍)
  呉(222-280) 孫権が建国。都は建業。
(明代に書かれた小説「三国志演義」では曹操、呂布、劉備、諸葛亮孔明、関羽、孫権など多数の武将が活躍し、現代でも広く読まれています。)
  関羽は現在中国で最も崇敬される神様になっています。

「魏志倭人伝」景初2年(238)の項 「今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮す。」
(「日本書紀」では景初3年のこととなっている。神功皇后摂政39年のことで、神功皇后を卑弥呼としている。)
 邪馬台国女王卑弥呼が魏の明帝から賜った金印には「親魏倭王」の文字があった。

西晋(265-316)

五胡十六国(304-439)、東晋(317-420)

その後、北朝に北魏・西魏・東魏・北周・北斉、南朝に宋・斉・梁・陳の国が興り、やがて589年、隋によって再統一された。

隋(581-618)



金印公園風景

「金印公園」の周辺は自然豊かな丘陵です。

金印の謎(5) 模刻印
 天明4年(1784)に金印が発見されたが、福岡藩は天明5年以降金印を藩庫の奥に仕舞い込み、一切公開しなかった。

 亀井昭陽(南冥の長男)は文政7年(1824)の「題金印紙後」の中で、金印は日本の珍宝だから世の好事家(こうずか)たちに模刻が数多く出回っていると記述している。また、友人の梶原景熙(かげひろ)が金印の精巧な模刻印を自分(昭陽)に贈ってくれた、との記述がある。

 梶原景熙は福岡藩随一の金石学者で、当時の福岡藩主印を刻し、江戸幕府の松平定信にも印を刻している。梶原景熙が精巧な純金製の模刻印を作っていた可能性がある。本物の金印は黒田家から公開されなかったので、後には景熙の「梶原景熙考文」に押された印影が真正の印影とされた。(これについても多くの論争があった。この印影は亀井南冥の実弟で宗福寺住職の曇栄
(どんえい)が所有していた印影と同じものである。)

 明治11年2月、所有者の旧藩主黒田長溥
(ながひろ)の許可で、初めて公の形で模刻印が作られた。(上野の帝室博物館に収蔵された。)もっとも金印は公開されなかった。
 明治20年、当時の彫金名人の加納夏雄に二つ模刻させた。(一つは帝室博物館、もう一つは京都の藤井有鄰館に収蔵された。なお三個とも銅印塗金である。)

 大正3年10月、黒田侯爵家歴史編纂主任・中島利一郎氏(金印保管の責任者)が黒田家金印の印影を発表した。(国の字の左側縦棒に小さな欠損がある印影)
 大正4年2月、中島利一郎氏が前回発表の印影は間違いだったとして別の印影を発表した。(国の字の左側縦棒に窪み傷のある印影)。間違いの理由については全く説明がないままである。

 ただの印影の用紙の取り違えならともかく、藩庫に真印と模刻の二つの金印が並んでいて、そのどちらが真印かわからなくなってしまっていたのだとしたら、現在真印とされている金印の真偽がわからないことになってしまう。

 この件に関して大正2年〜大正4年にかけて、中山平次郎氏と中島利一郎氏の間で論争がかわされた。

 昭和53年(1978)に黒田家より福岡市に寄贈され、現在、国宝として福岡市博物館で常時公開されている。
 100年後に、「こちらが真印です」といって欠損のある方の金印が登場してくるかもしれませんよ。



金印公園風景

公園からは博多湾を眺めることができます。
南に見えるのは能古島(のこのしま)です。

金印の謎(6) なぜ志賀島に?
 金印が志賀島で出土したとしたら、そこは航路安全を祈る祭祀などの埋納遺跡だったのか、あるいは外交使節の一人である大夫の石棺墓だったのか。
 大きな石の下から金印だけが出てきた、という状況からこの可能性は少ないようです。

考古学者 直木孝次郎京大教授の意見
 金印が奴国の中心地とされる須玖地区や那の津の周辺から出土せず、志賀島から出土した理由。
 1.遺棄説(何らかの理由で捨てられた)
 2.漂着説(持って逃げようとしたが船が沈んだりして志賀島に流れ着いた)
 3.紛失説(戦乱などで行方不明になったものが志賀島にあった)
 4.隠匿説(奴国が勢力を失い、略奪や献上を避け、志賀島に持っていって隠した)
 5.墳墓副葬説
 6.箱式棺説
 7.支石墓説
 8.隔離説(神聖なもので畏れ多いから、人里離れた場所にしまっておいた)
 9.磐座
(いわくら)説(神聖なものを奴国に替わった北九州の王が大きな石の下に置いた)

 1,2,3は大きな石の下にあったとする出土状態からいって成立しない。
 5,6,7は墓に副葬されたとする考えであるが、金印以外には出土品がなかったようであるので、成立困難と思われる。
 8,9は王の身辺に置くより、もっと神聖な場所に大切にしまっておく発想である。
 4,9は奴国の勢力が衰えたことを前提としている。

 いずれにしても金印が志賀島に埋められたのは、奴国の政治的地位の変動を示している。
 8の、金印に宗教的な意味を付して、神聖な島に大切にお祀りをしたのだと思う。

  (「奴国の首都須玖岡本遺跡」吉川弘文館 春日市教育委員会編 より要点を抜粋)





「金印公園案内図」の説明板

「金印公園案内図」
 自然の中の公園で、自然そのままの木や草を楽しむことができます。

金印の謎(7) 「叶の先」はどこか?
 金印が発見されたという「叶(かな)の先」がどこなのか、後世にははっきりしなくなっていた。

 大正時代の初め頃に中山平次郎博士が現在の金印公園の場所を、古老や諸資料から金印が発掘された「叶の崎」と推定した。
 大正2年(1913)7月、福岡日日新聞社主催で現場の発掘が行われたが、ほとんど何も出てこなかった。
 この結果、「叶の浜」が出土地なのではないかとする説が出てきた。

 「叶の崎」の西500メートルのところにある「叶の浜」にはある程度の広さの平地があり、江戸時代からここが金印出土の地だとする資料があり、伊能忠敬も「金浜、委奴国王之印出所」と記している。
 (「叶の浜」の地名の由来・・神功皇后がご帰陣の時、この浜にて異国征伐の事叶いたりと宣いし故名づけた。)

 大正4年(1915)黒田家が「甚兵衛口上書」を公開し、初めてこの文書の存在がわかった。
 大正11年(1922)「叶の崎」の地に「漢倭奴国王金印発光之處」の碑が建立された。

 昭和48年(1973)、福岡市は金印公園を建設するに際し、九州大学に委託して「叶の崎」の発掘調査を行ったが、現在の道路面から1,2m下に水田跡が認められた他には何も出なかった。

 平成6年(1994)、志賀島全島4か所で大掛かりな調査が行われたが、「叶の崎」も「叶の浜」も古代遺跡の可能性はなく、めぼしい成果はなかった。唯一、島の西北の勝馬地区で積石塚古墳が発見された。
 金印の出土地は勝馬地区ではないかとの説が出された。

 志賀島は古来海人族の本拠地であり、海神の総本社・志賀海
(しかうみ)神社の歴史は2世紀までさかのぼることができる。ふつう、貴重なものが地中から出土したときはその地の神社に奉納されることが多く、志賀島には由緒ある志賀海神社があるのに、神社に金印保有を示唆する社伝はない。



福岡市と広州市の友好都市締結を記念した碑

福岡市と広州市の友好都市締結を記念した碑

金印の謎(8) その後の甘棠館と亀井南冥は?
 天明4年(1784)、金印の出土に際して「金印弁」でみごとな論文をまとめ、開校したばかりの藩校「甘棠館」と南
冥の名を高めた。

 寛政2年(1790)5月、江戸幕府から「寛政異学の禁」が出され、幕府の昌平坂学問所で朱子学以外の学問が禁止された。その後、各藩もそれに倣うようになった。
 町人出身の儒学者南冥に対して朱子学派の「修猷館」側からの攻撃も強まった。
 
 寛政4年(1792)亀井南冥、学長を退役処分となり、閉門蟄居
(ちっきょ)を命じられた。
   理由は明らかにされず、酒に溺れたためとも、朱子学でなかったからともいわれているが真相は不明である。
 寛政10年(1798)1月 唐人町の商家より出火し、甘棠館や南冥の居宅などを類焼。
    同   6月 甘棠館は廃校とし、塾生はすべて修猷館に移ることを藩より命じられた。

 町人出身者が作った藩校が、それを快く思わない藩役人側によって結局倒されたともいえる。
 失意の南冥だったが、長男の昭陽が郊外に私塾・百道社を開き、やがて南冥も参加し指導にあたった。
 南冥は原古処、広瀬淡窓など多くの人材を世に送り出した。

 しかし、晩年には不幸が続いた。
 寛政12年(1800)南冥の新築したばかりの家が全焼。
 文化11年(1814)自宅が全焼。猛火の中で端座して焚死したともいう。72歳。



金印公園風景

自然の中の公園は野草観察にも最適です。

金印の謎(8) もう一つの金印「親魏倭王」は?
「魏志倭人伝」景初2年(238)の項 「今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮す。」
(「日本書紀」では景初3年のこととなっている。神功皇后摂政39年のことと記述し、神功皇后を卑弥呼としている)
 邪馬台国女王卑弥呼が魏の明帝から賜った金印には「親魏倭王」の文字があった。

「親魏倭王」の金印が卑弥呼に授けられたのは間違いないこととされている。
 さて、この金印はどこに埋まっているのでしょうか。もし、「親魏倭王」の金印が出土したら、そこが卑弥呼のいた邪馬台国である可能性が大きくなります。



金印公園風景

この細い枝はムクノキでしょうか。

金印の謎(8) 作家明石散人氏の推論
 金印は百姓甚兵衛が掘り出したとする口上書が提出されるずっと以前からすでにあって、骨董品収集の好事家の手に渡っていた。南冥もそれを目にして調査しており、あるいは手に入れていたのではないだろうか。
 南冥も、竹田側も最も重要な金印が発掘された場所について具体的に触れていないのはおかしい。
 南冥は全国の文人学者に論文や印影を送ったが、発見の直後に各地の文人が論文を発表したことを考えると、南冥は以前から金印について調べていて、藩から調査を命じられると直ちに自分の鑑定書と印影を各地に送ったのではないだろうか。
 南冥の鑑定書で驚くのは、その後二百年近くも多くの学者を悩ませた「(ちゅう)」(つまみ)の形を、最初から「蛇」と断定し、さらに印文の「委奴国王」をいとも簡単に「唐土の書に本朝を倭奴国これ有りそうろう。委は倭を略したるものと相見申しそうろう。」と今日の通説と全く同じ解釈を提唱した事実・・・これは不思議である。短時間でこれだけの鑑定ができたと考えるのは難しい。
 南冥は親しい仲間で既に出土していた金印を志賀島にいったん埋めてそこから出土したことにした。もともとどこから出土したかはわからないが、口上書に登場するメンバーはすべて南冥と旧知の間柄である。南冥と郡
奉行津田源次郎、福岡町家衆の米屋の才蔵は学問や骨董品収集の仲間であり、郡奉行の息子は甘棠館の書生、才蔵の孫と南冥の孫は後に結婚している。                                              百姓甚兵衛は村の庄屋を後見に仕立て「自分は金印を見つけました」と、郡奉行に届けたっきり消息不明である。最初の発見者は口上書以外の文献に一切名前が出てこない。この甚兵衛は○○○の実の父の甚兵衛であろう。
(詳しくは「七つの金印」をお読みください。非常に面白い本です。)

 私は明石散人氏の、金印は志賀島で出土する前からすでに存在していたという推論が妥当と思います。
 「甚兵衛口上書」の出土地点は現在の金印公園ですが、そこにずっと埋まっていたのではなく、そこから出土したことにされただけのことです。従って、直後の調査から平成の調査に至るまで、この土と石ころだけの場所には出土に関係するようなものは何もなく、みんな出土したことに半信半疑の状況が続いてきたのだと思います。
 この金印が実際に出土したのは奴国の王都・須玖遺跡周辺が最も可能性が大でしょう。ここの遺跡は江戸時代には広く知られており、遺跡はむき出しになったところも多く、甚兵衛が金印を見つけたという同時期に、須玖遺跡の周辺でも百姓が銅矛を掘り出すなどしています。

 また、亀井南冥は金印を後世に残してくれた最大の功労者です。金印の鑑定などを開校したばかりの藩校・甘棠館の名を高めるために利用したところもあったかもしれませんが、好事家の手中に隠れていた金印を世の中に出して後世に残すべきと信じ、説得するか自分に譲ってもらうかしてそれを実行したものと思います。
 郡奉行所で金印がどこに保管されるかはっきりしない時には、「自分に百両で譲って欲しい」と申し出て、結局は黒田藩で保管するように仕向けています。
 かりに甚兵衛口上書のとおり志賀島から出土したものとしても、一部の藩士たちの「漢の属国などになったことはない。こんな金印など鋳潰して刀の飾りにでもしてしまえ」という論に負けずに、「歴史的に重要なもの、後世に残すべき」との信念を通して金印を守ったことは賞賛すべきことです。

 おかげで現在、2000年の時空を越えて歴史上貴重な金印と対面することができます。

                                                     



金印公園の古代地図

南を上にした東南アジアの地図です。いつも見る地図とはイメージが違いますね。
九州と交流が深かったのは、朝鮮半島や広州などの南中国でした。



金印公園内のグミの実

春グミもありました。



金印公園風景

 春の日に「春の海 ひねもす のたりのたりかな」の博多湾を眺めながら、金印の謎について考えるのもまた楽しいひとときです。



金印公園風景

公園にはお地蔵さんも祀られていました。



金印公園風景

お地蔵さんは金印がはたしてこの地で発掘されたのかどうかご存知かもしれません。



「金印公園」のすぐ前の海岸

「金印公園」のすぐ前の海岸。
 この付近は平地がなく、山がそのまま海に落ちている感じです。
 海沿いに道路が作られています。



「金印公園」の前の海岸を東側から眺めた風景

「金印公園」の前の海岸を東側から眺めた風景。



「金印公園」の前の海岸を西側から眺めた風景

「金印公園」の前の海岸を西側から眺めた風景。



「金印公園」正面の海岸

「金印公園」正面の海岸の全景です。
 田畑があったとはとても思えないのですが、ある程度あった土も流失したのかもしれません。
 道路の1.2メートル下に田の跡が認められたそうですが、狭い田んぼがあったのでしょうか。道路の巾が平地と思ってしまいますが、道路を作る前は45度くらいの斜面だったように見えます。江戸時代の海岸線とどの程度ずれているのでしょうか。

 暖かい春の日にうとうとしながら考えました。 
 百姓甚兵衛が金印を見つけたという場所は、この地であろうと考えますが、それは長い間そこに眠っていた金印を偶然掘り当てたものではなく、以前から誰かの手元にあった(既に他の場所で発掘されていた)金印をここで発見したと報告したにすぎないと推察します。ついでに推察を重ねると、金印は奴国の首都・須玖岡本遺跡から江戸時代に出てきていた可能性が大と思います。



金印公園の近くにある「蒙古塚」

 すぐ近く(車で2,3分)に「蒙古塚」があります。
 元寇の時に亡くなった蒙古兵を弔っています。



「蒙古塚」全景

「蒙古塚」
 文永の役(1274)、弘安の役(1281)といわれる蒙古・高麗軍との戦いで双方に多大の犠牲者が出ました。



「蒙古塚」

「蒙古塚」
 2回の戦いとも、神風が吹いて蒙古軍はほとんど全滅したといわれています。
 志賀島の住民は戦いで犠牲となった蒙古兵も手厚く弔いました。



「海の中道」の海岸

海の中道は志賀島につながる部分は陸地の巾が数十メートルの狭さです。正面が志賀島、右は玄界灘。左側の道路のすぐ向こう側は博多湾です。



「海の中道」の海岸

海の中道の北側は玄界灘に面し、きれいな砂浜がどこまでも続いています。



  (参考資料)
「七つの金印」講談社 明石散人
「謎ジパング」講談社文庫 明石散人
「博多町人と学者の森」葦書房 朝日新聞福岡本部編
「奴国の首都須玖岡本遺跡」吉川弘文館 春日市教育委員会編
「古代九州」平凡社 別冊太陽 小田富士雄監修

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