筑紫の戒壇院は761年に鑑真によって設立され、天下三戒壇の一つです。 鑑真(688?-763)は中国揚州の生まれで唐の高僧でした。日本からの入唐僧の要請を受けて742年に渡日を決意しましたが、5度の渡航に失敗しました。その後の失明にも屈せず、753年、6度目の渡航でついに日本に上陸できました。正式な戒律を伝え、東大寺の戒壇において、聖武上皇、光明皇后、孝謙天皇などにはじめて授戒し、のちに唐招提寺を創建、亡くなるまで日本で戒律普及に努めました。 観世音寺戒壇院は、江戸時代に藩命により観世音寺を離れ、現在は博多の聖福寺の末寺となっています。 拝観料は無料です。 |
冬(12月)の戒壇院周辺
戒壇院の前の草地も茶色になり、冬の訪れです。 この草地に立つと、防人、山上億良らの歌人、菅原道真、南北朝時代の戦士、高橋紹運、坂本龍馬、などの息遣いが聞こえてきそうです。千数百年間のそれぞれの時代の空気を共有できる空間です。 |
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戒壇院入口の案内。 |
大宰府戒壇院入口 冬の夕方の戒壇院。影が長く伸びてきました。 |
春(3月)の戒壇院
まわりは緑が少しずつ増えてきました。 |
赤い塀が春の陽に照らされています。 |
正門。 |
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戒壇石 「葷酒(くんしゅ)肉 境内に入るを許さず」 |
天下三戒壇 戒壇とは、正式な僧となるため高僧から戒律を授かる儀式を行う場で、日本最初の戒壇は754年に東大寺に臨時に設けられ、天皇などに戒律を授けました。 翌年東大寺戒壇院が建立され、761年には筑紫観世音寺と下野薬師寺にも戒壇が築かれました。 これらが「本朝(天下)三戒壇」と呼ばれ、いずれかの戒壇で授戒しなければ正規の僧と認められないことになりました。 |
大宰府戒壇院正門 風格のある文字ですね。 |
戒壇院正面。 |
戒壇院。 |
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右側 鑑真和上の供養塔 左側 変形宝筺(ほうきょう)印塔 |
聖武天皇は唐に仏教の正しい戒律を授戒できる僧の派遣を求めました。 唐の高僧鑑真(688?-763)は、弟子に日本に渡る者を求めましたが、航海が危険なため応じる者がおりません。このため鑑真は自ら日本へ行き、正しい教えを広めようと決意しました。 しかし、唐の朝廷は高僧鑑真の出国を認めず、742年からの日本をめざした旅は、あるときは役人に阻止され、船に乗れても暴風で海南島に流されるなど5回とも失敗しました。ついには失明するに至りましたが、753年、6回目の挑戦で日本にたどり着きました。(6回目の渡航も、暴風で屋久島に漂着しました。その後、薩摩坊津に上陸し、太宰府に赴きました。)最初の挑戦から実に10年目のことでした。こうして日本に仏教の正しい戒律が伝わりました。 753年末に太宰府観世音寺に隣接する地で日本初の授戒を行いました。その後、平城京の東大寺に拠って授戒を行い、後に唐招提寺を創建しました。 761年には日本の東西で登壇授戒が可能となるように、太宰府観世音寺と下野(しもつけ)国薬師寺に戒壇院が設置されました。 |
戒壇院の瓦。 |
庭にはきれいな渦巻き模様が描かれています。 |
梵鐘 元禄14年(1701) 壇主 福岡 白木玄流 鋳物師 博多 磯野七兵衛正慶 鐘身には、金剛界四佛、四天王、十二神将の各種子、光明真言二十四文字あり と、案内板にあります。 |
菩提樹 鑑真和上が中国から請来したと伝えられる、とこれも案内板にあります。 |
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大宰府戒壇院の扁額 なんと美しい文字でしょう。 もっともなんと書いてあるのか読めません。 花の名前はわからなくても、美しいものは美しいと感じます。 (と、読めない言い訳を・・・) |
東側(観世音寺側)の門です。 |
観世音寺金堂の西隣にこの門があり、ここからでも入れます。 左手にまわれば正門にすぐいけます。 どちらから入っても、戒壇院の1,300年余の歴史を感じることができます。 |
(参考資料) 「太宰府の本」太宰府市発行 |
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