九州あちこち歴史散歩★太宰府天満宮          サイトマップ

 太宰府天満宮

   2月下旬に太宰府天満宮にお参りし、満開の梅を楽しみ、ついでに梅ケ枝餅もいただきました。(花よりだんご、だったかも。)
 天神様にあまり急速にボケないよう脳内安全もお願いしましたが、こちらはたぶん手遅れかもしれません。
 前回、3月上旬に訪れたときには、八重の梅などは楽しめましたが、多くは盛りを過ぎていたので、今年はもう少し早めに行ってみました。
 あいにくこの日は曇っていましたが、境内に6,000本植えてある梅は満開で、いろいろな形の紅梅、白梅が迎えてくれました。梅のシーズンとあって、多くの観光客で賑わっていました。
 毎年、初詣には約200万人、年間では650万人の参拝者が詣でるそうです。

 詳しい説明や境内の地図は、太宰府天満宮HP に掲載されています。



太宰府天満宮の表参道

  大宰府天満宮の表参道
 西鉄電車の太宰府駅に「太宰府観光案内所」があります。駅の前はすぐ表参道です。
 私は車で、表参道の西端、御笠川べりにある千台収容できそうな「太宰府天満宮駐車場」を利用しました。ここは東の天満宮にも、西の観世音寺や太宰府政庁跡(都府楼跡)にも歩いて10分くらいで行けるので、利用しやすいし便利です。(それぞれの名所の周辺にも多くの駐車場があります。小規模ですが近いので、慣れた人には役立ちます。)
 太宰府天満宮に向かって最初の鳥居のある交差点の左側に市の「太宰府館」があります。最初にここに寄って、観光資料や地図などを入手すると計画が立てやすく、史跡への道もわかります。大宰府観光の情報基地で観光ルートなどの相談もできます。



太宰府天満宮境内の「東風ふかば」の歌碑

  太宰府天満宮・「東風吹かば」の歌碑
 天満宮に入ってすぐのところに、菅原道真公の有名な歌が刻まれた石碑が建っています。
   「東風(こち)吹かばにほ(匂)ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ(春をわするな)」

 道真公が都を離れるときに、庭の梅を見て詠んだと伝えられています。

 



太宰府天満宮参道の神牛

  太宰府天満宮・神牛
 道真公が亡くなられた後、御遺骸を牛車に乗せて進んだところ、まもなくその牛が伏して動かなくなりました。それは管公の御心によるものであろうと、その地に御遺骸を葬って墓を造ったと伝えられます。
 神牛と自分の身体の同じ部分を撫でると病気全快し、神牛の頭を撫でると頭がよくなるそうです。
 参道入口に伏しています。



大宰府天満宮境内の太鼓橋

  太鼓橋
 この右手の奥一帯は「東神苑」で梅が多く茶店もあり、「曲水の庭」や「だざいふ遊園地」に続いています。また、「九州国立博物館」にエスカレーターで通じるトンネルがあり、数分で行けます。



大宰府天満宮神字池に架かる太鼓橋

  心字池と太鼓橋
 心の字の形をした池に三つの橋が架かっていて、過去、現在、未来を表しているそうです。



太宰府天満宮境内にある「志賀社」

  大宰府天満宮境内の「志賀社」
 心字池の畔に建つ檜皮葺きの末社で、海の神綿津見(わたつみ)三神を祀ってあります。室町時代に再建されたそうで、国の重要文化財です。
 (綿津見神の子が海人集団である阿曇(あずみ)氏の始祖となりました。綿津見神社の総本宮は福岡市志賀島にある志賀海(しかうみ)神社で、代々阿曇氏が祭祀を司っています。)



太宰府天満宮の楼門

  大宰府天満宮楼門
 重層の入母屋造り、檜皮葺きの二重門。堂々たる風格です。
 慶長年間に石田三成が再興しましたが、明治時代に火災で焼失し、現在のものは大正3年(1914)に再建されたものだそうです。



太宰府天満宮本殿と左右の梅

  大宰府天満宮本殿
 戦乱や火災で数度炎上し、現在の本殿は1591年に筑前国守小早川隆景が再建したもので、国の重要文化財になっています。
 檜皮葺きで、正面には唐破風状の向拝がついた、桃山時代の豪壮な様式で、国の重要文化財です。
 右に「飛梅」、左に「皇后梅」が花開いています。
 本殿の奥に道真公の御霊が祀られています。



本殿に向かって右側の「飛梅」

  本殿二向かって右側の「飛梅」
 都を追われた道真公が都を離れるときに、庭の梅を見て、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ」と詠んだところ、やがて道真公を慕って一夜のうちに京の都から空を翔けてきたのが「飛梅」と言い伝えられています。
 飛梅は開花が早く、例年2月中旬前後が見ごろになります。



本殿に向かって左側の「皇后梅」

  本殿に向かって左側の「皇后梅」
 大正11年にご参拝された大正天皇后が葉山御用邸よりご持参された、ほんのりと紅い梅の花です。

 



太宰府天満宮本殿に向かって左側の紅梅

  本殿に向かって左側の紅梅
 「皇后梅」のさらに左に植えてある紅梅です。ちょうど満開で、匂うがごとく咲いて、庭を明るく照らしていました。

 



太宰府天満宮本殿に向かって左側の紅梅

  本殿左の紅梅
 八重の鮮やかな紅梅です。

 梅の原産地ははっきりしていませんが中国という説が有力です。
 700年ごろに日本に入ってきたと考えられ、万葉集には118首の梅の歌があります。(桜を詠んだ歌の3倍)。室町時代には全国的に普及し、江戸末期には100種を超える園芸品種が作られ、現在は約300品種存在します。そのほとんどが日本で改良されたものです。
 江戸時代、シーボルトは日本原産の花と思い、ムメ(当時ウメやムメと呼ばれていた)を学名にしました。英語では"Japanese Apricot"。
 サクラ属バラ科の花です。なお、桜も同じサクラ属バラ科です。



 



太宰府天満宮本殿

  太宰府天満宮本殿
 菅原道真公は平安時代前期、当代一流の学者であり、その豊かな学才により、有力氏族の出身ではなかったにもかかわらず、右大臣の地位まで登りつめます。しかし、その異例の出世をねたまれ、讒言(ざんげん)によって九州太宰府の地に左遷されました。(観光案内紙「太宰府天満宮&九州国立博物館」より引用。)

 今まで道真公についてはあまり知らなかったので、その略歴を調べてみました。

菅原道真公略歴
承和12年(845) 誕生。
 祖父清公(きよとも)は804年、最澄、空海らとともに入唐し、帰国後、大学頭や文章博士を歴任した。
  また、私塾「菅家廊下」を設立して優秀な進士を育てた大学者であった。
 父是善(これよし)も大学頭、文章博士を務めた高名な学者であった。
 道真は学者の家に三男として生まれ、学問的環境のなかで育った。
 (兄二人は早逝した。)
貞観元年(859) 15歳 元服
貞観4年(862) 18歳 文章生となる。(18歳で合格したのは、それ以前に2人しかいなかった)
 (20歳すぎに父の門弟の娘(5歳年下)と結婚した。)
 (22歳のとき、慈覚大師円仁の著した「顕揚大戒論」の序文を草した。)
 (秀才、対策の試験に合格し、任官の資格を得る。)
貞間12年(870)9月 26歳 正六位上となり官吏の道を歩む。
 (文官として玄蕃助、小問記、兵部少輔、民部少輔、式部少輔と栄進する。)
天慶元年(879)10月 33歳 文章博士となる。
 (元慶4年(880) 34歳 父の是善が亡くなる。)
仁和2年(886)正月 42歳 讃岐守として地方赴任。(式部少輔・文章博士・加賀権守の解任)
  藤原氏が若くして名声を得た道真を妬み、中央から遠ざけてその勢力を削ごうとしたといわれる。
寛平2年(890)春 46歳 国司の4年の任を終え都に帰る。
  帰京後、宇多天皇の信を得る。(宇多天皇は藤原氏の専横を防ぐため、才能ある者を重用した。)
寛平3年(891)4月 47歳 蔵人頭(天皇に近侍して仕える役)、式部少輔・左中弁(政治の中枢に関与)となる。
寛平6年(894) 50歳 遣唐大使(唐は隆盛さがかげり始めており、道真は中絶していた遣唐使の正式廃止を建議。)
寛平7年(895) 51歳 中納言、従三位、東宮権大夫(皇太子の教育係)となる。
寛平9年(897) 53歳 権大納言、右大将となる。
  (同日に藤原時平は大納言、左大将となった。)
 同年7月  宇多天皇が譲位し、子の醍醐天皇が継いだ。
昌泰2年(899)2月 55歳 右大臣兼右大将となる。
 道真公は分に過ぎた恩寵であると再三固辞したが、辞退は許されなかった。)
  (同日に藤原時平は左大臣兼左大将となった。)
昌泰4(延喜元)年(901)正月7日 57歳 従二位を受ける。
  (同日に藤原時平も従二位となった。
  (藤原氏と菅原氏が政治の頂点に立ち、朝廷の左右を占めることになった。)
延喜元年(901)正月25日 大宰府に左遷された。

 時の左大臣藤原時平が醍醐天皇に「道真は醍醐天皇を廃して、弟の斎世(ときよ)王を皇位につけようとしている」と讒訴(ざんそ)した。道真は一切の任を解かれ、大宰権師(だざいのごんのそち)を命ぜられ、九州の地に左遷された。
 それまで群臣の頂点を占めていた名門摂関家である藤原氏は、藤原四家のうち北家が独走を始め、他氏の大伴、橘、紀氏を権謀術数を用いて排斥していた。藤原氏から見ると、たかが学者の家柄の出である下級貴族がその能力を買われて朝廷で権限を持つことは、藤原氏の地位や権益が脅かされるため、醍醐天皇を取り込んで道真を追放したものであるといわれる。(なお、藤原家はこの後も天皇家と婚姻関係を深め、百年後には藤原道長が藤原氏の絶頂を極めるに至った。)

 道真左遷の報に後で接した宇多法皇は直ちに内裏にかけつけたが、警護の陣に阻まれて中に入れず、門前で夜まで座り込んだ。数日後にも天皇に会おうと内裏に行ったがやはり阻まれ、夜を徹し翌朝まで門前で待たれたという。

 道真公は2月1日に都を出発。名目は左遷であるが、駅馬や食料の支給もなく、実質はわびしい配流の旅であった。妻と娘は都に留め置かれ、4人の息子も地方に追われ、同伴を許されたのは幼児2人だけであった。太宰府では住む家も朽ちかけており、屋根は雨漏りし、井戸は砂で埋まっていたといわれる。
 
延喜3年(903)2月25日 59歳 失意と望郷の思いの中で病没。
 配所(榎社)を一歩も出ることなく、歌を詠んで自らを慰めた。罪が晴れて再び都に帰れることを願ってはいたが、天や人を恨むことはなかった。
延喜5年(905) 埋葬された地に墓所と神殿(太宰府天満宮)が創建された。

 菅公の没後、都ではしきりに雷鳴が轟くようになり、異常気象や疫病が続いた。
 505年天皇の后が亡くなり、また909年藤原時平も世継ぎに恵まれないまま39歳で没した。
 清涼殿に落雷があり、公卿2人が直撃を受け死亡。また紫宸殿にも落雷し2人が負傷。藤原一族と醍醐天皇は恐れおののいた。

延喜19年(919) 勅旨により社殿を建立。
 923年天皇の子が病死した。これらはすべて無実で左遷された道真の怨霊による祟りと都の人は噂した。当時は怨霊信仰が根強く、また藤原氏の横暴に対する反感もあり、道真公に敬慕と同情が集まった。
延長元年(923) 醍醐天皇が道真公の生前の忠誠を認められ、元の官職に戻された。
天慶5年(942)北野天満宮(北野天神)創建。
天暦元年(947) 天満天神の号をもって神として祀られた。
姓暦4年(993) 一条天皇が正一位左大臣、さらに太政大臣を贈り、道真公は天満大自在天神(天神様)と崇められた。
 道真公は亡くなった後になってようやく罪を解かれ、その誠心を貫いた生涯は清らかであったと多くの人々の尊崇を集めた。江戸時代に寺子屋教育の普及とともに、学問の神様として天神信仰が全国に広まった。現在も、入学試験のときだけ道真公にすがる人も含めて、多くの人に学問の神様として慕われている。



太宰府天満宮の御札や御守

  大宰府天満宮売店の御札、御守
 いろいろな種類の御札、御守があります。しかし、一番有名なのは学業成就、入学祈願の御守でしょう。



入学祈願などの絵馬



  入学祈願などの絵馬
 
入学祈願の絵馬
 高校や大学入学祈願の絵馬が数多く架けられています。
 「道真さ〜ん、私の名前を忘れないでくださ〜い。」
 試験の前からすでに名前を覚えてもらう競争が熾烈ですね。



太宰府天満宮の「厄晴れひょうたん」



  太宰府天満宮の「厄晴れひょうたん」の謂われ
 
太宰府天満宮の「厄晴れひょうたん」
 道真公は受験生だけの神様ではありません。次のような言い伝えがあり、大人の悩みや願いを聞いてくださるそうです。
 天満宮には古くから、神苑の木の下で酒を酌み交わすと、厄を免れるという信仰がある。そこで「厄晴れひょうたん」の中に願いごとを書いた紙を納めて自宅の神棚に祀り、災難を免れるよう祈願します。そして厄晴れの際には、本殿裏のひょうたん架所にかける慣わしです。
 酒を断って祈願しなさい、ということはよくありますが、ありがたいことにここでは、梅を愛でながら酒を楽しんでもいいのだ。境内の梅の実を使った御神酒や、御神酒とひょうたん酒器のセットも売っています。

 



太宰府天満宮の末社と「夫婦樟」

  太宰府満宮末社と夫婦樟
 本殿のすぐ裏手に六つの末社が並んでいます。その後ろに二本の樟の木「夫婦樟」がそびえています。
 その右側の通路が「北神苑」への入口です。花をゆっくり楽しめる梅園や茶店があります。



太宰府天満宮北神苑の梅園

  大宰府天満宮北神苑の梅園
 古木が多く、みごとな花を咲かせます。
 まわりには数軒の茶店もあるので、腰を下ろしてゆっくりと梅ケ枝餅やお茶を楽しむこともできます。

  



大宰府天満宮北神苑の梅

  大宰府天満宮北神苑の梅園
 天満宮の境内には197種の梅6,000本が植えられていて、早咲きから遅咲きの梅を1月末から3月上旬にわたって楽しめるそうです。なかでも花の最盛期は2月中〜下旬でしょうね。

 



大宰府天満宮北神苑の梅

  北神苑の梅園
 きれいな紅梅です。

 



  北神苑にある「野見宿禰公碑」
 
大宰府天満宮北神苑にある「野見宿禰公碑」
 菅原道真公は野見宿禰(のみのすくね)の子孫といわれています。

 「日本書紀」にあるできごと。
 「大和の当麻(たいま)に蹴早(けはや)という強い男がいた。天皇はこの天下一の力士の相手になる者を探させた。出雲の国に野見宿禰という強者がいることがわかり、すぐに呼び寄せ、相撲を取らせた。二人は相対し、激しい蹴りあいになり、ついに宿禰が当麻蹴早の肋骨や腰を折りくじき、殺して勝った。」

 野見宿禰は宮廷に仕えるようになり、葬送儀礼を司って土師(はじ)氏と称した。土師氏は桓武天皇の代に、住んでいた地名(大和国(奈良)菅原郷)から菅原氏を称し、文道で朝廷に仕える家柄となった。
 
 野見宿禰は現在も相撲の神様として祭られています。



境内の枝垂れ梅

  大宰府天満宮楼門近くの梅
 境内にはいろいろな形をした梅の花が咲いていました。
 これは枝垂れ梅です。


境内の八重の白梅

  白梅
 こちらは純白の大輪の梅です。
 



太宰府天満宮の表参道商店街

  太宰府天満宮の門前町
 石畳の表参道は数百メートルにわたって続いています。

大宰府と太宰府
 奈良・平安時代には大宰府(おおみこともちのつかさ)と記載され、本来は「大」であった。平安後期には「太」も混在するようになり、江戸時代後期には「太」が普通となった。
 現在では、歴史的なものには「大宰府」、現在の地名には「太宰府」と使い分けされているそうです。

 



太宰府天満宮表参道の梅ケ枝餅の店

  太宰府の梅ケ枝餅
 太宰府を訪れたらやはりこれでしょう。天満宮の周辺に40軒の店があるそうです。
 その謂われについては、浄妙尼という老女が道真公の御心を慰めるために差し上げたとも、道真公薨去に際して霊柩に供えたものともいわれていて、千年以上にわたって参拝者に親しまれています。
 もち米で作った生地に粒餡を入れて焼いた素朴な餅です。一番おいしい食べ方は、焼きたてのあつあつの餅を、梅の花や秋の庭を眺めながら(境内の神苑にある茶店でもゆっくり食べられる)、あるいは門前町をぶらぶらと歩きながら頬張ることです。冷えると米粉は固くなるので、電子レンジで温めます。



太宰府天満宮表参道の梅ケ枝餅の店

  太宰府天満宮表参道の梅ケ枝餅の店
 あちこちの店頭に行列ができています。



表参道商店街のみやげ店のタオル




  表参道商店街のみやげ店のシャツ
 
門前町のみやげもの店
 さまざまなみやげ物の店が並んでいます。ウィンドウショッピングも面白い。
 
  「毎日が大変です。助けてください」 多くの庶民の声ですね。
  「お母さん もう許してください」 甘〜い、まだ許さん、かぁ〜つ。

 太宰府天満宮の境内では梅だけでなく、花菖蒲、菊花展の花も楽しめる。
 周辺には、観世音寺、光明禅寺(紅葉が有名)、太宰府政庁跡、水城跡、岩屋城跡など多くの史跡や九州国立博物館があるので、天満宮と併せて巡ると楽しい一日が過ごせます。

 太宰府には、中世には足利尊氏、近世には豊臣秀吉、幕末期には、西郷隆盛、坂本龍馬、中岡慎太郎らも訪れています。


  (参考資料)
「太宰府の本」太宰府市発行
「太宰府天満宮&九州国立博物館」太宰府市他監修
「太宰府天満宮ごあんない」
「歴史を動かした男たち」高橋千剱破 中公文庫
「エッセイで楽しむ日本の歴史(上)」文芸春秋編

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