九州あちこち歴史散歩★築上町・旧蔵内邸(2)             サイトマップ

築上町・旧蔵内邸(2)

   旧蔵内邸のある築上町は『黒田官兵衛最大の宿敵 宇都宮しげふさの町!』として売り出しています。
 平安時代末期に源頼朝から豊前国の地頭職に任じられた宇都宮氏は、中世には土着して城井谷
(きいだに)を本拠地とし、この地で根を張り数世紀にわたり領民と共に過ごしてきました。
 宇都宮(城井(きい))鎮房
(しげふさ)の時代になって、1586-87年に豊臣秀吉が九州平定を終えた後、この地を含む豊前6郡を功のあった黒田官兵衛に与えました。鎮房は官兵衛にそれまでの領地を安堵すると約束され秀吉軍に加勢したが、秀吉は地方の有力な勢力を削ぐために両者が衝突するよう仕向けました。
 隣の領主・毛利勝信が和睦を仲介し、鎮房もこれに同意し、城井谷城(きいだにじょう)を明け渡して勝信の元に移ったが、秀吉は城井氏の所領安堵を認めず伊予国に移るよう命じ、また肥後国で大規模な一揆が起ったのを機に、鎮房は数百年来の先祖伝来の領地を守って戦うことを決意し、本拠地の城井谷城を奪回してこの天然の要害に立て籠もりました。周辺の国人や領民も城井氏側について決起し豊前国一揆が起りました。
 黒田長政は血気にはやり、父・官兵衛の留守中(1587年10月)に宇都宮勢が籠もる城井谷城を攻めたが要害の地を利用した鎮房の前に惨敗しました。一旦黒田家は鎮房の本領を安堵することで和睦したが、1589年10月、長政は謀略を用い宇都宮鎮房らを呼び出して謀殺し、続いて数百人の鎮房の家臣や一族を惨殺しました。この行為は黒田家最大の汚点となりました。

 城井谷城は旧蔵内邸のすぐ近くに位置し、車で約10分程度で行ける天然の要塞です。

 豊前国は関が原の戦いの功績で黒田長政が筑前福岡へ移った後は、細川家(1600-1632)、小笠原家(1632以降)が領有しました。
 蔵内家は宇都宮家の家臣を勤めていましたが、主君が滅んだ後は黒田家の下で働くことを潔しとせず百姓となり、江戸時代には地方でも有力な豪農となりました。
 明治、大正、昭和前半における日本の近代国家への歩みに伴って石炭エネルギーの需要は飛躍的に拡大し、明治時代にいち早く筑豊地方で採掘業を始めた蔵内家は時流に乗って国内でも有数の石炭王となりました。

(案内パンフレットより)
「旧蔵内邸は明治30年代に母屋と応接間棟、庭園が造られ、大正5年の蔵内工業株式会社の設立と同時に大広間棟や茶室、大玄関などが増築され、隣接する貴船神社と参道、石橋なども一体として建設されました。
 田園風景の中に堂々と佇む邸宅の敷地は7,135u、延床面積は1,250uもある大規模和風住宅で、現在も建築当初の状態をよく残しています。」



旧倉内邸の応接間からの眺め

応接間からの眺め
 庭園は部屋からの眺めを主眼にして設計されているそうです。


旧蔵内邸の応接間の床の間

応接間の床の間


旧蔵内邸の庭園

旧蔵内邸の庭園

 建物の配置は写真の一番左側が玄関につながる応接間、松の木の向こうが茶室、それらの北側に庭園があります。
 庭園の西側に位置する写真右側の建物は大広間です。


旧蔵内邸の中庭に面した座敷

 中庭に面した座敷です。
 欄間はいろいろな種類のデザインが部屋ごとに作られており、蓮欄間、彫刻欄間、透かし彫り欄間、組子欄間、筬(おさ)欄間など、繊細な細工が施されています。


繊細な彫刻が施された旧蔵内邸の欄間

繊細な彫刻が施された欄間


繊細な彫刻が施された旧蔵内邸の欄間




繊細な彫刻が施された旧蔵内邸の欄間




旧蔵内邸の庭園に置かれた石灯篭

 広い庭にはあちこちに趣のある石灯篭が置かれています。




旧蔵内邸の庭園に置かれた石灯篭

石灯篭の後ろは玄関につながる応接間


旧蔵内邸の庭園

 このような空間にゆったりと浸れば、身も心もリフレッシュします。


旧蔵内邸の応接間

応接間


旧蔵内邸の廊下と丸い天井

 こちらの廊下の天井は丸みを帯びた造りになっています。


旧蔵内邸の応接間

応接間


旧蔵内邸の庭園




旧蔵内邸の庭園

 中央の建物は茶室。


旧蔵内邸の庭園に置かれた石灯篭

 味わいのある堂々とした石灯篭ですね。


旧蔵内邸の玄関

 このような立派な造りの建物は、現代に個人が造るのは無理でしょうし、今後出会えることはほとんどないでしょうね。
 在りし日の栄華を映す、贅を尽くした豪華な和風大邸宅に触れることができました。



   

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