「Y子の絶縁状(新聞掲載文)」(大阪朝日新聞大正10年(1921)10月22日夕刊掲載(夕刊発行日付は23日) 白蓮が書いた原稿に宮崎龍介と友人たちが手を加えたものです。 手を加えた理由は、原稿となる白蓮の手紙が新聞に載せるためにはやや冗長だったこと、読者に事情や経過がわかるように簡明に説明すること、人間としての基本的な権利を読者に理解してもらうこと、などと思われます。 (なお、絶縁状の内容を知るのが目的のため旧仮名づかいを新仮名づかいに変更しています。 以下の2編も同様です。) 「Y子の絶縁状(白蓮の原稿文)」白蓮の自筆原稿文 白蓮がノートに記して龍介に渡した原稿です。新聞読者に説明することなどは念頭になく、最後に伝右衛門に訴える内容であるため、白蓮の気持ちがよく表れているといわれています。 「絶縁状を読みてY子に与ふ」伊藤伝右衛門氏の反駁文(大阪毎日新聞大正10年(1921)10月25-28日掲載) 大阪毎日新聞の記者が大阪朝日新聞に対抗するため伝右衛門氏から話を聞いてまとめたものです。 当初10回連載の予定でしたが4回で打ち切られました。 (この文章の内容は伝右衛門の本意ではなく、伝右衛門は京都から小倉に帰る汽車の中で同乗してきたこの記者 (いつも伊藤邸に出入りしていて伊藤家の内情に詳しかった地元福岡の記者)にことの経緯は話したが、白蓮のことをあれこれあげつらう意図はなかったと思われます。 文章は記者の(現在の週刊誌にも相通じる)興味本位の発想で書かれており(と現在の感覚では感じられるが、人権についての感覚が乏しい当時としては普通の内容であろうが)、あそこにもここにもお金を渡したのに、といったようなあまり品性のない話が並んでいて全く男らしくない内容になっている。そのことを友人から知らされた(文章が読めなかった)伝右衛門はすぐに毎日新聞に申し入れて以降の掲載を中止させたものと思う。) 白蓮事件に関する詳しい経過は Wikipedia「白蓮事件」 に記されています。 白蓮事件の時代背景 ☆「華族」とはどんな家系? ☆「士族の商法」とは? ☆ 白蓮は大正天皇の従妹? ☆「家」、家父長制度、「嫁入り婚」 ☆ 大正時代のできごと、あれこれ |
「Y子(白蓮)の絶縁状」大阪朝日新聞紙上に掲載(大正10年(1921)10月22日発行夕刊(新聞の日付は23日)) (絶縁状の内容を知るのが目的のため、文章は読みやすいように旧仮名づかいを新仮名づかいに変更しています。 原文を読みたい方は前掲の「愛を貫き、自らを生きた白蓮のように 白蓮展」に掲載されています。 また、旧伊藤邸の売店にはほぼ原文のままのA3版コピー(実費20円)が置いてあり、新聞掲載の文章と、白蓮の原稿との両方の文章が載っていました。) 私は今あなたの妻として最後の手紙を差しあげます。今私がこの手紙を差しあげるということはあなたにとって突然であるかもしれませんが、私としては当然の結果に外ならないのでございます。あなたと私との結婚当初から今日までを回顧して、私は今最善の理性と勇気との命ずるところに従ってこの道を執るに至ったのでございます。 ご承知のとおり結婚当初からあなたと私との間には全く愛と理解とを欠いていました。この因習的な結婚に私が屈従したのは私の周囲の結婚に対する無理解と、そして私の弱小の結果でございました。しかし私は愚かにもこの結婚を有意義ならしめ、でき得る限り愛と力とをこの内に見出していきたいと期待し、かつ、努力しようと決心しました。 私が儚(はかな)い期待を抱いて東京から九州へ参りましてから今はもう十年になりますが、その間の私の生活は唯やる瀬ない涙を以って掩(おお)われまして、私の期待はすべて裏切られ、私の努力はすべて水泡に帰しました。あなたの家庭は私の全く予期しない複雑なものでありました。私はここにくどくどしくは申しませんが、あなたに仕えている多くの女性の中には、あなたとの間に単なる主従関係のみが存在するとは思えないものもありました。あなたの家庭で主婦の実権を全く他の女性に奪われていたこともありました。それもあなたの御意志であったことは勿論です。私はこの意外な家庭の空気に驚いたものです。こういう状態においてあなたも私との間に真の愛や理解のありよう筈がありません。私がこれらの事につきしばしば漏らした不平や反抗に対して、あなたはあるいは離別するとか里方に預けるとか申されました。実に冷酷な態度を執られた事をお忘れにはなりますまい。また、かなり複雑な家庭が生むさまざまなできごとに対しても常にあなたの愛はなく、従って妻としての価(値)を認められない、私がどんなに頼り少なく寂しい日を送ったかはよもやご承知ない筈はないと存じます。 私は折々わが身の不幸を儚んで死を考えた事もありました。しかし私はでき得る限り苦悩と憂愁とを抑えて今日まで参りました。その不遇なる運命を慰めるものはただ歌と詩とのみでありました。愛なき結婚が生んだ不遇とこの不遇から受けた痛手のために、私の生涯は所詮暗い暮らしのうちに終わるものとあきらめたこともありました。しかし幸いにして私にはひとりの愛する人が与えられ、そして私はその愛によって今復活しようとしておるのであります。このままにしておいてはあなたに対して罪ならぬ罪を犯すことになることを怖れます。最早今日は私の良心の命じるままに不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機に臨みました。即ち、虚偽を去り真実につく時が参りました。よって、この手紙により私は金力を以って女性の人格的尊厳を無視するあなたに永久の決別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を守り、かつ、培(つちか)うためにあなたの許を離れます。長い間私を養育下さった御配慮に対しては厚く御礼を申しあげます。 (二伸) 私の宝石類を書留郵便で返送いたします。衣類等は照山支配人への手紙に同封しました目録どおりすべてそれぞれに分け与えてくださいませ。私の実印はお送りいたしませんが、もし私の名義となっているものがありましたら、その名義変更の為にはいつでも捺印いたします。 二十一日 Y子 伊藤伝右衛門様 |
伊藤主人へ 私は今貴方の妻として最後の手紙を差し上げるのです。 今、私がこの手紙をあげるという事は突然であるかもしれませんが、私としては寧ろ当然の結果に他ならないのです。あるいは驚かれるでしょうが、静かに、私のこれから申し上げる事を一通りお聞きくださいましたなら、つまりは、私が貴方からして導かれ遂に今日に至ったものだと言う事もよくお解りになるだろうと存じます。 そもそも私と貴方との結婚当時からを顧み、なぜ私がこの道を取るより外に致し方がなかったかという事をよくお考えになっていただきたいと思います。 ご存知の通り、私が貴方の所へ嫁したのは、私にとっては不幸な最初の縁から離れて、ようよう普通の女としての道をも学び、今度こそは平和な家庭に本当の愛を受けて生きたいと願っていました。然るにたまたま縁あって貴方の所へ嫁すことに定まりました時、貴方はあるいは金力を信頼して来たかとでも思いだったか知りませんが、私としては、年こそは余りに隔てあるものの、それもかえってこの身を大切にしてくださるに相違なく、学問のない方との事も聞いたれど、自分の愛と誠を以って及ばずながら、足りない所は補って貴方というのを少しでも大きくして上げたいと思っておりました。私自身としては貴方の愛と力とを信頼して生きていきたいと思っていました。言うまでもなく貴方はまず誰よりも強く自分を第一に愛していただけるものと信じていたればこそです。 あなたはどのように待遇して下されたかという事を思い出す時、私はいつでも涙ぐむばかりです。誰一人知る人もない中に頼むはただ夫一人の情けでした。家庭というものに対しても、足らぬながらも主婦としての立場を思い、相当考えも持って来ました。然るにその期待は全く裏切られて、そこにはすでに、私の入るより以前から居る女サキがほとんど主婦としての実権を握り、あまつさえ貴方とは普通の主従の関係とはどうしても思えぬ点がありました。それは貴方が、私よりも彼女を愛しておられたからです。貴方が建設された富を背景としての社会奉仕の理想どころか、私はまずこの意外な家庭の空気に驚かされてしまいました。 ことあるごとに常に貴方はサキの味方でした。 私は主人の妻でありながら我が家で召し使う雇人一人をどうすることもできませんでした。 (中略) 実は私という貴方の妻の価は一人の下女にすら及ばぬのでした。 (中略) お別れに望んで、一言申し上げます。とまれ十年の間、欠点の多いこの私を養ってくだされたご恩を謝します。 この手紙は今更貴方を責めようとして長々しく書いたのではありませんが、長く胸に畳んでいたる事を一通り申し述べて貴方の最後のご理解を願うのです。 終わりに望んで、私の亡き後のご家庭は、却って平和であろうと存じます。第一艶子殿のためにも幸であるべく、さすれば、貴方としてもご心配が少なくなり、何事も私の愛する者は憎く私の嫌いなものは可愛いというふしぎ、貴方のその一番私に辛かった御心持ちも、私さえ居なければ、すべての人々を明らかに善と悪とを見分けられる正しい御目を持つ事のお出来になるのが、家族の者のどんなにか幸福となることでしょう。 女心というものは、真に愛しておやりなさりさえすれば、心からお慕い申すようになる事は必定。何卒これからはもう少し女というものを価つけてご覧なさるよう、息子のためにもまた貴方の御為にもお願い申しておきます。 伊藤伝右衛門様 |
「絶縁状を読みてY子に与ふ」(伝右衛門の反駁文)大阪毎日新聞 大正10年(1921)10月25日〜28日掲載 (一)十月二十五日大阪毎日新聞 京都に滞在中の伊藤伝右衛門氏は二十三日夜の特急列車で鉄五郎氏と共に九州へ帰ったが、京都を去るに臨みY子の絶縁状に対する公開状を発表したいとして、Y子との結婚当時から同棲十年の今日に至るまでの生活内容につき縷々陳述するところがあった。記者が氏の許可を得てそれを筆記したものが左の「絶縁状を読みてY子に与ふ」一篇である。 Y子!お前が俺(わし)に送った絶縁状というものはまだ手にしていないが、もし新聞に出た通りのものであったら、随分思い切って侮辱したものだ。見る人によったら、安田は刀で殺されたが、伊藤は女に筆で殺されたというだろう。妻から良人(おっと)へ離縁状を叩きつけたということも初めてなら、それが本人の手に渡らない先に、堂々と新聞紙に現れたというのも不思議なことだ。俺はこの記事を新聞で見て一時はかなり昂奮した。しかし、今は少し落ち着いて、静かに考えると、お前と言う一異分子を除き去った伊藤一家がいかに今後円満に、一家団らんの実を挙げ得るかということを思って、却って俺自身としては将来に非常な心安さを感じている。 来年は俺も還暦だ。だんだん年を老ったから、伊藤家を合資組織にして、お前に対する俺の没後の財産処分方法などを考えていたところであったが、それももういらぬことになった。 俺の一生の中に最も苦しかった十年を一場の夢と見て、生まれ変わったつもりですべてを立て直そう、今後手当てには頓着せず、誰か一家の取締りをするによい人を探し出し、女中に一切家庭上のことを一任して、静かに子供の行く末でも眺めようと思っている。お前から送ったと伝えられる絶縁状を見ると、私としても言い分を何かの機会に言ってしまいたくなってくる。そもそも、お前との結婚問題からが不自然なものであった。十年以前の記憶をたどると、その時のことがまざまざと俺の頭に浮かんでくる。当時、妻をなくした俺には、お前より前に京都の某家との結婚問題が起きてそちらが殆んどまとまりかけていた。そこへふと、お前の話が持ち上がり、京都の北小路!あまり裕福でない華族に嫁いでいて、貧しい生活から逃げるように柳原家へ帰った出戻りの娘であるが、貧しさには馴れている妾腹の子で、母は芸妓だからという申込みで、上野の精養軒で見合いをした。その時、お前はまだ幼かったから、ふく子さん(柳原伯嗣子夫人)、とく子さん(吉井勇氏夫人)二人を連れてきて、そこで初めてお前というものに会った。お前はこの日見合いということを気付かなかったらしい。それからその晩有楽座へ来てくれということで、その劇場では柳原伯夫妻に初めて会った。追って話を進めることにして九州に帰ってくると、幸袋の家へ帰りつかぬ前に、最初の橋渡しであった得能さんから電報が来ていて、話がまとまったからすぐ式を挙げたいとあったので、まったく狐を馬に乗せたような気がした。 それほどお前との結婚は何でもかでも押し付けよ、それでないともし断られたらという懸念があったものだった。そして結納の取り交わせを済ませたがこの結婚は最初からあまり好い都合に運ばなかった。当時、若松にいた某々がこの縁談を種に金にしようとして俺のところに入り込み、今度の黄金結婚を東京の新聞が書くといっているといって、その口止め料として相当の金を要求した。俺はこれを一も二もなくはねつけたが、その結果は、この男がいい加減の材料を東京の某新聞社に売って、そこでY子の身代金として何万円かを柳原家へ送っただの、それは義光伯の貴族院議員選挙の運動費に使うだの、伊藤は金子によって権門を買うのだなどと書かれた。俺はあまりよい気はしなかったので急に嫌気がさし、すぐに破談を申し込んだが、間に入る人々になだめられてとうとう結婚式を挙げた。今考えると、あの時少し俺が言い張ったら、十年という長い間の苦しい夢も現れなかったであろう。柳原家へは俺としてはお前のためにびた一文送ったことはない。この風説は柳原さんにお気の毒なことと思っている。 結婚の第一日、一平民の……お前からいうと一賎民の私の頭に不思議に感じたことがあった。式が終わって自動車でいっしょに旅館へ引きあげてきた時、お前はどうしたのか室の片隅でしくしくと泣いた。付添いの者たちがめでたい時に涙は不吉だといって諭したが、お前はなかなか止めなかった。俺は実家を離れる小さい娘心の涙かと思ったが、当時、出戻りとして柳原家でかなり厄介者視されていたお前である。この涙は自動車に乗る時、一平民たる俺が華族出の妻を後にして少しも尊敬せず、労わらず、先に乗ったという事がわかって、実際、これは大変な妻をもらったと思った。お前の雅号にしている白蓮!お前はある人に、伊藤のような石炭掘りの妻にこそなれ、伊藤の家のような泥田の中におれ、我こそは濁りに染まぬ白蓮という意味でつけたのだといったという。その自尊心。そういう結婚式の第一日に見せられた自尊心ないし持病のヒステリーはこの十年間どのくらい俺を苦しめたことと思う?! (二)十月二十六日大阪毎日新聞 お前が俺の家に来てから、第一に起こった大きなできごとは例のおさきの問題だった。女中はいくら沢山にいても、いつかは他家へ縁付いてしまうものだから、一人くらいは生涯家にいて、家を死場所とするような忠実な女中が欲しい、そこへいくとおさきは古くからいて、実体な性格もよくわかっているから、家庭一切のことはなるべくおさきに任していたのだったが、そのうち妻にぽっくりと死なれて、つい、それ以来は夜具一枚、皿一枚の出し入れもおさきがいなければわからなくなり、おさきにも一生涯家にいるよう、親許へも話して承諾させ、今、大正鉱業の社員をしているあの原田と娶わせて、その当時、原田には家の出納係をさせていたのだ。そういう家庭へ乗り込んだお前は、まず第一におさきのすることが気に入らなかった。良いものにはどこまでも良い、悪いとするとどこまでも悪い、そういう極端から極端の頑固な性質を持っているお前は、お姫様育ちで主婦としての何の経験も能力もない自分のことは棚に上げてしまい、おさきがまめまめしく家内に立ち働き、他の女中までがあれを立てるのを見て、お前はむらむらと例のヒステリーを起こした。おさきのすること、おさきの顔を見れば腹がたつといって泣いた。そういうお前の病気に付け込んで、あの裁縫師に雇ってあったお静がお前に近寄っていった。お前はすぐに渡りに船でお静をまたとない者とした。お静はお前の手から実家に残した子供の通学費を出させ、おさきの勢力を奪い、奥様付とし伊藤家の家庭をわが者顔に振舞おうとしたのだ。しかし、お静の謀計がある手紙から暴露して、それをお前に突きつけた時はさすがに目が覚めたようだが、しかし、おさきに対する嫉妬的な狂人じみた振舞いはますますさかんになって止めどがなく、毎日病気といって寝てしまい、食事もせずにお前は泣きとおしていた。「女中風情が主婦としての私の権力を犯す」そういうことを一途に考えたお前には何をいっても受け付けられなかった。おさきがよく知っているから、おさきの方が便利だと思って、何気なく言いつけることも、すぐにお前の嫉妬となり、恐ろしい自暴(やけ)となった。当時小さかった八郎(記者曰く、妹の子、現在関西学院生徒)は生れた時から、亡くなった妹が始終連れてきては、よく我が子のように抱いたものだったから、俺には一番可愛かった。家へ引き取って育てることになってからは殊に自分の子供のような気がした。夜なぞその子をいっしょに抱いて寝たら、というと、お前は平民の子を抱いて寝るということを死ぬよりつらい屈辱だといって声をあげて泣いた。そういうわがままな母に平民の子がなつこうはずはない。子供はお前の顔を見ると、急に笑っていたのもべそをかいた。そういう泣き声がまたお前の神経的な、わがままな自尊心をあおって、手もつけられぬほど泣き出してしまう。俺の家はすっかり暗くなった。 妹の子供があること、その他家族の模様は、結婚に先立って逐一柳原家に書札を入れて明らかにしてあるはずだ。却ってお前が北小路家で産み落としたという子供のことは俺には何も告げられていないのだ。おさきのことも、おさきだけの仕事が、立ち働きがお前にできれば少しも差し支えがないのだ。しかし、家庭の主婦として伊藤家のすべてを切り回してやっていくということは、とても当時のお前にはできない相談だった。お前はただ一途に自分を侮辱するものとしてわめいた。金銭の計算さえ知らず、伊藤家の財産があり余るものとのみ見ているのかして、時々子供のようなことを言い出す。いつか野田さん(茂重子夫人)といっしょに早良郡の箱島に遊びに行ったとき、その箱島が気に入ったからあの島を買ってくれと頼まれた時には全く二の句が告げなかった。 世間知らず。お前は骨董のように買われた身だといって歌や文に書くけれど、飾り物にしておかなければどうにも危険ではないか。 本当に伊藤家のために働き、本当に伊藤家の中心となり、家を治めていこうというそういう心棒ちからがお前にあるかどうかを俺は疑わずには、危ぶまずにはおられないではないか。俺はお前が来てこの年までに、お前のわがままやヒステリーには困りながら、世間に向かってお前のことを爪の先ほども悪く吹聴したことはない。それだのにお前は、世間のどの人よりも俺を罵り、どの人よりも悪い仇敵として呪っていたではないか。 おさきのことも、おさきだけの仕事が、立ち働きがお前にできれば少しも差し支えなかったのだ。それがだんだんと嵩じてとうとう俺も手を切り、正式に離別問題を持ち上げて、その結果お前はしばらく柳原家に帰った。しかし、柳原家からの懇々とした頼みもあり、それではこちらも何とかしようというので、おさき夫婦は別に原田を大正鉱業の社員として家から出すとし、改めてお前を迎えた。お前の立場を明らかにしてやった。 (三)十月二十七日大阪毎日新聞 俺はお前のため良かれとこそ願え、何事にも悪しかれと思った事はない。お前は貴族の娘だ、尊敬されるのは当然だと考えているが、一平民たる俺は血と汗とで今日の地位をかち得た。俺は人間というものを知りすぎている。お前の考えの間違っているのを叱ったり、諭したりすると、お前は虐待するといって泣いた。 最初の歌集『踏絵』を出版したいからといって俺に頼んだ。俺は出版費として六百円やった。夫に泣きついてやっと出版した本の内容を今ここで言いたくない。お前の文名もだんだん知られてきた。夫として、罵られながら呪われながら、なおお前の好きでやる事だ、楽しみなのだと、実に耐えて言いたい事を言わないでいた事も一度や二度ではない。一体お前は思っている事を残らず俺にいってしまわない悪い癖がある。俺という人間を夫としてどころかまるで別の人間にしていた。たとえば電話一つかける時でも「主人」という言葉を使わなかった。俺はなるほど品行方正だとは言わない。俺が自分の今までの不品行であった事を自覚していればこそ、お前が絶えず若い男と交際し、時には世間を憚るような所業までも黙って見ていた。 今の舟子の事でも、お前からすすめた妾ではないか。よそうと思ったが、おゆうもいないし話相手にとお前がいうからそうしたのだ。それをお前は金力で女を虐げると言う。お前こそ一人の女を犠牲にして虐げ泣かせたのではないか。 お前の趣味性を満足させるだけの話し相手もない幸袋の家ではと思って、博多に友達も多く気が紛れて良かろうと、天神町に別荘を新築して、お前が欲しいというので浄め室という立派な祭壇もこしらえてやった。世間ではあかがね御殿といった。お前が俺に隠していた北小路家のお前の子供についても毎月学費として送ってあるはずだ。 (四)十月二十八日大阪毎日新聞 お前は虚偽の生活を去って真実に就く時が来たというが、十年!十年!と一口にいうけれど十年間の夫婦生活が虚偽のみで送られるものでもあるまい。長い年月は虚偽もまた真実と同様になるものだ。 嫌なものなら、一月にしても去ることができる。何のために十年という長い忍従が必要だったか。 お前は立派そうに「罪ならぬ罪を犯すことを怖れる」というが、そういう罪を俺に対して怖れるほどの真純な心がお前にあったかどうか。十年間は夢であった。この十年間は俺にとって一生涯の一番辛いものだった。お前は八郎に、柳原家の妾腹の娘を入れて、家の相続をさせようと建議したが、俺がこれを聞かなかったことにも、かなりな不平を持っている。しかしその時、俺の腹には、もうどんなことがあっても、平民の子に華族の嫁はもらわないという決心がついていたのだ。 俺はこの結婚に後悔のほぞを噛んでいる中から、どうかして、これも縁あればこそだと思い返し、何とかして、お前のひねくれた心を真実の心持に目覚めさせたい、誰にもよいお前の持っていた無邪気さを生き生きとさせてやりたいと、今日まで努力したが、それもみな水泡に帰した。 お前が人の妻としての資格がある女であるかどうかという事を、まあお前の愛人に試験してもらったがよかろう。俺は、それでも楽しみにして眺めていよう。 |
「華族」とはどんな家系? 白蓮(Y子)の生まれた柳原家は華族だった。(父親柳原前光(さきみつ)が伯爵)。現在はこの制度はなくなっているが、元華族という言葉は時々目にする。いったいどのような家系なのだろうか。 「華族」は、明治2年8月に、当時の公卿(天皇家を守護してきた公家)と大名諸侯を併合した時の呼称で、明治17年(1884)の「華族令」により制度化された家系です。 明治政府は奈良平安時代から連綿と天皇家を守ってきた公家や、戦国時代から江戸時代を統治してきた大名を敵に回すことはできず、明治維新に際してこれらの諸家を「華族」として残したのは止むを得ないことでした。 その後、政治や軍の権力を握った人たちがお手盛りで華族になり、その数が増えていきました。 【明治維新前後のできごと】 慶応3年(1867) 6月 坂本龍馬、「船中八策」を後藤象二郎に提示。 〃 10月 徳川慶喜が朝廷に「大政奉還」 〃 11月 坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺される。 〃 12月 「王政復古」の大号令。江戸幕府の滅亡。 慶応4年(1868) 1月 鳥羽・伏見の戦い(旧幕府軍が新政府軍に敗北) 〃 3月 五箇条の誓文公布 〃 4月 江戸城無血開城(勝海舟と西郷隆盛の会談により江戸城総攻撃中止、無血開城) 〃 5月 上野戦争(彰義隊全滅) 〃 7月 江戸を東京と改称。 〃 8月 明治天皇、即位の礼 明治元年(1868)9月 明治と改元(一世一元の制) 〃 9月 会津の戦い終わる(会津若松城落城) 明治2年(1869) 3月 東京行幸(東京遷都) 徳川幕府軍は大政奉還後も戦ったが、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争で官軍(明治新政府軍)により打倒された。 全国3,000万石のうち、徳川将軍家の幕府領(天領)400万石と旗本(=幕府直臣)領300万石は朝廷に返納され、明治新政府の管理で府・県となった。従来の藩(全国で約300藩)の大名領は明治2年(1869)の版籍奉還で、大名が知藩事に任じられ、そのまま既存の大名が統治した。それまでの藩と実態は変わらなかった。明治政府は力がまだ弱く、そこまで一気には統治できなかった。 明治4年(1871)7月に廃藩置県が行われ、新政府から派遣された県令(=県知事)が土地を管理するようにして、全国を3府302県、11月に1使3府72県の行政区に分けた。(1使は北海道(開拓使)。明治2年に蝦夷を北海道と改めた。) 大名を敵に回したくない新政府は旧来の諸侯(大名)を華族として特権を与えた。大名や公卿などがその特権的地位を奪われたのに不満を持っており、なんらかの手を打たなければ明治新政府の天皇を中心とする政治権力も揺るぎかねないとの不安があったための方策であった。華族全員を東京に集め、東京で生活させ「皇室の藩屏(はんぺい)=皇室を守る垣根、塀」となるようにした。 (柳川藩の殿様であった立花家がずっと郷土を根拠地として生活を続けたのは稀有な例です。) 爵位は公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五爵制とし、原則として次のような基準で与えられた。
明治17年(1884)に「華族令」が公布されたとき、合計で530家に爵位が与えられた。 公卿・諸侯は501家。(これらの諸家は本来の華族である。) 明治維新の勲功によって華族となったのは伊藤博文家、山県有朋家など29家。 日清戦争、日露戦争と明治時代の軍事拡充が続いていくと、権力を持った政治家や軍事関係者がお手盛りで男爵などの爵位を得て華族はどんどん増えていった。(公卿華族、大名華族に対して、新華族あるいは勲功華族と呼ばれた。) 白蓮の家は公卿で伯爵だった。 爵位は世襲であり、女子は相続できないので、男子の系統を絶やさないようにしないといけない。特権を維持するためには側室を置いていた皇室や大名と同じように、華族などでも妾を保持することは当然とされた。 華族にはいくつかの特権が与えられていたので、宮内庁(名称は時代によって異なる)の特別な監督の下に置かれた。 華族当主や子弟の婚姻・養子縁組については宮内卿・大臣の許可が必要だった。 「家」中心の政策は大正、昭和(戦前)と続き、家父長制度のもとで、個人の自由は認められなかった。 白蓮はこのような個人を認めない因習・制度に反逆し、白蓮事件は実際に宮内庁や政府でも大問題となった。 白蓮は大正12年(1923)に華族を除籍され平民移籍となったが、後に一番仲の良かった姪の徳子(白蓮の兄の娘)も除籍されている。 徳子は作家の吉井勇(歌人、伯爵)と結婚していたが、昭和8年12月。ダンスホールに行って夫以外の男と踊ったとして問題となり「平民移籍」となった。吉井勇は離婚した。徳子も因習に縛られるのを拒否して、白蓮のようにひとりの自立した人間として生きたかったのではないだろうか。 華族の一般的な性格の違い(華族を取り締まる宗秩寮総裁木戸幸一の華族観。) 公卿華族・・実力なくして千年も皇室を守り幕府と取引してきたコスッカラサがあり、ずるい。 大名華族・・昔の殿様だから鷹揚。 勲功華族・・小藩の田舎侍(下級家臣)だった者が爆発的にのし上がってきたので、元気はある。 戦前の「旧皇室典範」には「皇族の婚嫁は華族に限る」と規定されていた。敗戦から1980年までの皇室の結婚の相手は5人とも旧華族だった。昭和34年4月に結婚された美智子妃(今の皇后陛下)は初めての平民の娘(といっても一般庶民からすれば上流社会の家柄ですが)で、皇居では「身分が違う」といって相当いじめられたそうです。しかし、その後結婚された皇族の相手は5人とも平民を選ばれました。慣習も世の動きにつれて少しずつ変わるようです。 華族の数は、軍国主義時代に政治の実権を握った軍人などのお手盛りの叙勲がなされて「新華族」が増え、最終的にはおよそ1,000家となった。 終戦後の昭和22年5月、新憲法施行によりこの制度は廃止された。 「士族の商法」とは? 白蓮の生母・奥津りょうは零落した士族の娘だった。 りょうの父親は万延元年に幕府最初の使節団としてアメリカに渡った外国奉行新見豊前守正興であり、母親は徳川家祐筆大久保彦左衛門の家系だった。 しかし、明治維新に際して零落して、おりょうと姉は柳橋の芸者になっていた。柳原前光伯爵の妾となり、白蓮を産み、白蓮は柳原家に入籍された。りょうは3年後に病気で亡くなった。 明治維新では多くの武士たちは士族(約200万人)とされて、平民とは区別され、一定の社会的尊敬を受けた。しかし、武士階級は解体され、帯刀は禁止、苗字も平民に許されるなど、特権は急速に弱まっていった。 江戸時代の士農工商の身分制度はなくなり、皇族(28人)、華族(2829人)・士族(155万人+卒(下級武士)34万人)・平民(3111万人)は四民平等とされた。(人口は明治6年の数字。後に卒は士族または平民に編入された。) 士族は新政府から禄を与えられていたが財政難から次々と縮小された。最後は一時金が支給され、禄はなくなった。士族授産のために養蚕・製糸・絹紡績・屯田兵制度による開墾事業などが起業されたが、大半はうまくいかなかった。士族の多くは、教師や警察官などに就職したが、慣れない商売などに手を出して失敗し困窮、零落する者も多く「士族の商法」と揶揄(やゆ)された。 困窮した士族階級は新政府に不満を抱くようになり、明治7年(1874)〜明治10年(1877)にかけて佐賀の乱、秋月の乱、神風連の乱、萩の乱、西南戦争などの士族の反乱が起こった 白蓮は大正天皇の従妹? 白蓮は大正天皇の従妹にあたるといわれるが、どんな関係だったのでしょうか。 白蓮の叔母、つまり実父の妹が大正天皇の生母です。 現代っ子なら、「そしたら叔母さんは明治天皇の奥さま?」と思うかもしれないが、そうではありません。
当時は江戸時代と同じように天皇には側室がついていました。 明治天皇は5人の側室との間に15人の皇子女をもうけられた。男子5人、女子10人の計15人はすべて権典侍(ごんてんじ)、いわゆる側室の子で、これらのうち成人したのは5人であり、他は夭折した。しかも皇子はわずか1人であった。明治22年に制定された旧皇室典範は、皇位は「男系の男子」が継承すると規定しており、明治天皇の実子が皇位を継承するにはこころもとなかった。明治天皇と正妃である皇后(一条美子=昭憲皇太后)の間には、子ができなかったため嫡子はなく、庶子ばかりであった。 側室の一人が柳原愛子(なるこ)で、愛子は公家の権大納言柳原光愛(みつなる)の娘であり、実兄の前光(さきみつ)は元老院議長、枢密顧問官などを務めた伯爵で、その二女が白蓮(柳原Y子(あきこ))(実際は妾が生んだ子を入籍したもの)です。 明治12年8月に愛子は2人目の皇子(嘉仁親王)を産まれた。後の大正天皇です。(庶子でも皇后の実子とすることで皇位継承者になれた。)嘉仁親王は9歳のときに皇后の実子とし皇太子とする手続きがなされた。皇位継承者を産んだ柳原愛子は「二位の局(後に一位を追贈された)」と呼ばれた。 皇位を継ぐ男子をもうけるためには側室が不可欠であった。そして、権典侍柳原愛子が明宮嘉仁親王、のちの大正天皇を生むことによって、明治天皇直系の皇室は継承された。 尾張徳川家を継いだ徳川義親侯爵もその自伝で「母と呼べない母」「召使いの母」と称している。「松平婦知子は、ぼくら十人の子供の母であったが、母と呼べない母であった。身分は召使いである。婦知子もまたぼくら実の子を、子とは呼ばないで、主人として育てた。ぼくらは母を「おふじさん」と呼んだ。(「最後の殿様」) 徳川御三家の子どもを産んだ母親も、封建時代においてはしょせんは嗣子を産むための「借り腹」で母親としての人格はまったく認められなかった。 大正天皇は側室を持たれなかった。大正天皇は明治33年に結婚し、翌年以降3人の皇子が生れた。このように皇太子の正妃(皇太子が即位後は皇后)が男子を産むのはそれほどあることではない。大正以前の明治、孝明、仁孝、光格、後桃園の五代の天皇は嫡出の皇子に恵まれず、正妃が皇子を産んだ天皇は、七代前の桃園天皇(六代前の後桜町天皇は女帝)までいない。裕仁親王は皇室において実に140年ぶりの嫡出の皇太子でした。 幼くして死んだ皇子女10人の死因はすべて脳膜炎であり、成人したとはいえ大正天皇も幼児のときかかった脳膜炎で苦労されたという。これは昔からの里親制度により皇子女は公卿の養育掛に預けられたが、養育に衛生的な観念はなく昔からのしきたりだけを大事に守ったためといわれている。当時は西洋から新しい知識は流入するようになっていたが、古くからの慣習はなかなか変わらなかった。(なお、皇室ではその後衛生や環境の改善がはかられた。) 明治になって刑法や民法は一夫一婦制を原則としたが、庶子を認め、妾の存在を否定しなかった。そもそも国民の模範たるべき天皇が側室をもうけ、次期天皇が側室の子であるという事実があり(明治維新が成ったからといって、それまでの封建時代がすぐ民主化されたわけではなく)、その事実を前提にした皇室典範が作られたため、天皇の直系を維持するためには、従来通りに皇室の側室制度を容認するしかなかった。 一部の開明的な人々によって廃妾論や、西洋の人権感覚に基づいた一夫一婦制が唱えられた。森有礼は「妻妾論」を著し、夫婦は「相扶け、相保つ」ものであり、夫が妻をほしいままに使役し、気にいらなければ捨てるような社会ではいけないと主張し、江藤新平、中村正直、福沢諭吉らも廃妾を主張した。しかしまだ全くの少数派であった。 皇室が一夫一婦多妾であったため、民間においてもそれが広まった。世間では社会的ステータスとしての「妾」保有が広まり、「妾」は男の甲斐性であり、家庭を壊さなければいいとされた。経済的余裕がある者は、江戸時代の殿様のように複数の妾を持ったり、あるいは正妻と同居させたりする者もいた。さらには、妻や妾の姉妹や娘をさらなる妾としたりした。(生活できるようにしているのだという見方がなされた。) 伊藤伝右衛門の家も妻妾同居であり、福岡、京都などにも妾を囲い、また、妾の娘をまた妾とするなどしたが、それは当時としては成功した実業家としては常識的なことであった。伝右衛門に現代のような個人の人権や尊厳という意識はもちろんなかったが、当時としては良心的な企業家で、全額自己負担して地域に学校を作り、奨学金制度を拡充し(現在も継続している)、まわりに先駆けて炭鉱夫の宿舎を建てるなどしている。 絶縁状の新聞紙上への公開という未熟で乱暴な仕打ちをされて、伝右衛門は天下に恥をさらすことになったが、一切を自分の胸にしまいこみ、一言も相手を攻撃することなく許したのはさすがに九州男児であった。(毎日新聞に白蓮への反論の記事が掲載されたときは、その内容が自分の意図とかけ離れていることを知った伝右衛門はすぐに掲載を中止させた。) 資産家たちをまねて、妾保有は一般庶民にも広がった。妻(女)の立場は弱かったし、さらに皇后が忍耐している以上、妻が忍耐するのは当然とされた。世間では妾を持つことを繁栄とし、持たない者は肩身が狭いとする風潮が強かった。 明治3年、刑法典にあたる新律綱領ができたとき、ここでは妾が妻と並ぶ二親等とされ、子はともに実子とされた。それまでは召使い、奉公人扱いだった妾が配偶者として堂々と認められた。つまり実質的な一夫多妻制が法律上も認められたことになる。明治天皇が嫡出の皇子ではなかったことに配慮してのことと言われるが、文明開化の精神からすれば奇妙な規定であった。批判も多く、明治15年から施行された刑法では、この趣旨の規定は姿を消した。妾は法的にも「日陰の身」となった。 「家」、家父長制度、嫁入り婚 平塚らいてう(雷鳥)は「青鞜」の発刊し際し、「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。……。」と記した。 元始、天照大神(アマテラスオオミカミ)は女性であった。(男性との見解も一部にある。) 邪馬台国の巫王卑弥呼も女性であった。 奈良・平安時代は「妻問い婚」で、男が女の家を訪ね、女は気に入らなければ拒否することができた。結婚しても男が女の家に通った。財産は女性が相続し、子どもは女の実家で育てた。 武家社会が成熟してきた戦国時代では、家族や一族が生き残るために婚姻政策が重要になってきた。例えば、織田信長は斉藤道三の娘(濃姫)を娶ったが、このときに両家のあいだに同盟関係が結ばれることになる。 特に武士階級では、男子は戦って家を守るべき重要な戦力となってきたため、婚姻形態は従来に多かった「婿入り」から「嫁入り」が主流になり、男子が家督を相続し「家を守る」ことが求められるようになった。同盟を強くするために遠方同士の婚姻も珍しくなくなり、以前からあった「妻問い」ができなくなったことや、中国から儒教思想が入ってきたことも背景として挙げられる。 戦国時代はいつ、どの一族が滅んでも不思議ではなく、生き残りをかけた戦いの時代であった。そこでは一族が生き残るためには個人の自由を認める余裕はなかった。権力を握ってからも家の存続を守ることが最も重要なことだったから、女性も家来や領民同様、「権力を維持するための道具」とされるようになった。 江戸時代になってからも、大名や武士の地位や禄は「家」が相続したので、男子の跡継ぎがいないと断絶した。江戸幕府の初代将軍家康から三代将軍家光までの三代の間に120家もの大名家が改易(取り潰し)された。幕府が外様大名をつぶすために不都合を理由にしたケースもあったが、大名が亡くなったときに跡継ぎがいないケースも多かった。お世継ぎがいないと領地召し上げ、となったのである。 また、武士の家でも跡継ぎがいないと、それまでの地位や禄は取り上げられた。基本的には跡継ぎさえおれば、幕府や藩が続く限り(何百年でも)相続できた。従って、男の子を生み「家」を存続することが最も重要なこととなった。 武家の妻は男子が生れるまで子供を生み続け、生まれない場合は離縁されても文句は言えなかった。 大名の場合、側室を複数抱え、家督や財産の相続者確保を図るのが最も重要なことだった。 「家」を存続させるために「当主(家父長)」に強い権限を与え、家族は当主に服従することを義務付けられた。 応仁の乱を境にして、武士の婚礼に関する作法も盛んに作られるようになり、「三々九度の杯」も室町時代に広まった儀式の一つである。 武士とは生活習慣や「家」、「一族」に対する思想が大きく違う農民や町民などの庶民のあいだでは、すぐには「嫁入り婚」は広まらなかったが、室町時代から明治時代にかけて少しずつ定着していった。 大正時代のできごと、あれこれ 明治45年(1911)6月 平塚雷鳥ら「青鞜社」を結成。 大正元年(1911)7月 30日 明治天皇崩御。「大正」と改元。 大正3年(1914)1月 桜島大噴火。大隈半島と陸続きになる。 大正3年(1914)3月 「カチューシャの唄」が大ヒット。トルストイ「復活」の舞台で松井須磨子が歌った。 他に「女心の唄」「コロッケの唄」などが続いた。 〃 4月 前年少女唱歌隊を結成した宝塚少女歌劇が初公演。 〃 7月 第一次世界大戦始まる。(ドイツvsロシア、フランス、イギリス) 戦争はヨーロッパで1918年11月まで4年間続き、日本は大戦景気に湧いた。 工場、労働者が飛躍的に増加した。大正成金が続出した 〃 8月 日本も参戦し、ドイツの租借地・青島(ちんたお)を攻撃。11月占領。 〃 12月 東京駅完成 大正4年(1915)1月 中国に「対華二十一カ条の要求」を行う。中国を保護国化するもので国際的に非難された。 大正4年(1915)3月 第12回総選挙。与謝野鉄幹も立候補したが落選。(大正14年までは制限選挙である。) 〃 8月 第1回全国中等学校野球大会が豊中運動場で開幕。(夏の高校野球の始まり。) 第3回から西宮の鳴尾球場、第10回大会から前年完成した甲子園球場(5万8千人収容) 東京では大学の早慶戦が人気沸騰、応援は過熱した。 、(観客の不測の事態を恐れた大学は、明治40年から大正10年まで早慶戦を中止した。) 大正6年(1917)3月 ロシア革命が起こる。日本でも労働運動が広がる。11月ソビエト政権成立。 大正6年(1917)1月 浅草オペラが全盛となる。浅草には高木徳子、田谷力三、藤原義江、エノケンらが登場。 大正7年(1918)3月 シベリア出兵 (日本はベルサイユ条約で旧ドイツ領の南洋諸島の委託統治権と青島などのドイツ権益を得た。) 〃 3月 松下幸之助が二股ソケットを売り出し、「世界の松下」の第一歩を踏み出した。 〃 7月 児童文学雑誌「赤い鳥」創刊。芥川龍之介、島崎藤村、鈴木三重吉、北原白秋らが執筆。 (赤とんぼ・月の砂漠・七つの子・どんぐりころころ・砂山 などの童謡の名曲が作られた。) 〃 8月 米騒動が全国に広がる。 〃 11月 武者小路実篤が宮崎に「新しき村」を建設。 大正8年(1919)7月 「初恋の味 カルピス」が売り出された。(このキャッチフレーズは当初から付けられた。) 大正9年(1920)3月 平塚らいてう(雷鳥)、市川房江らが中心となって新婦人協会が設立された。 (1924年「婦人参政権獲得期成同盟会」、1925年「婦選獲得同盟」が結成された。) 大正10年(1921)5月 日本初のメーデーが上野公園で開催。 〃 7月 ヒットラーがナチス党首になる。 大正10年(1921)11月 原敬首相暗殺。 大正11年(1922)2月 初の週刊誌「週間朝日」「サンデー毎日」創刊。 大正12年(1923)9月 関東大震災(死者・行方不明者10万人以上。) 工業地帯が壊滅的打撃を受け、震災恐慌が起こった。 大正13年(1924)1月 「大阪毎日新聞」「大阪朝日新聞」が発行部数100万部突破。 大正13年(1924) 東京にバスガールが登場。「職業婦人」の花形となる。 大正14年(1925)3月 ラジオ放送開始。翌年8月日本放送協会(NHK)設立。 〃 3月 普通選挙法施行(25歳以上の男子に選挙権が与えられた。 (それまでは男子の一定額以上の納税者に制限。なお、女性にはまだ選挙権はなかった。) (女性が選挙権を得るのは昭和20年、太平洋戦争敗戦後のことである。) 大正15年(1926)12月 大正天皇崩御。「昭和」と改元。 大正時代のメディアの中心は新聞だったが、自由な空気を反映して雑誌文化が花開いた時代でもあった。 「少年倶楽部」「主婦之友」「中央公論」「赤い鳥」「太陽」「改造」「文芸春秋」「キング}「少女画報」「婦人公論」などが続々と創刊された。また、明治末から大正にかけて「立川文庫」も圧倒的な人気を得た。 映画も明治末から大正に広がり、人気を博した。まだ無声映画の時代で、徳川夢声ら活動弁士がスターとなった。 (有声映画(トーキー)は昭和6年(1961)の「マダムと女房」が最初。) 大正3年、東京帝国大学教授で欧米留学から帰国した吉野作造の論文が「中央公論」に載るようになった。彼は「民本主義」を主張し、反響を呼ぶようになった。大正7年、東大に吉野を指導者とする「新人会」が誕生し、自由主義から社会主義まで含んだ新しい思想が取り入れられていった。この新人会の設立メンバーに吉野作造門下生の宮崎龍介も参加した。 アジアの大国になった日本には、他国から政治的な目的で亡命を求めてやってくる者もいた。 中国の孫文は宮崎滔天(龍介の父)らの協力を得て、東京で「中国革命同盟会」を結成し、明治44年(1911)辛亥革命を起こした。孫文は革命後、手を組んだ袁世凱に実権を握られ、弾圧を受け再び日本に逃れ、再起を期した。 モダンガール(モガ)と呼ばれる女性が出現し始めたのは大正10年を過ぎたあたりからといわれる。大正の初めまで女性の服装はほとんど和服であり、髪型も丸髷(まるまげ)などの日本髪が主流だった。 しかし、カフェの女給やデパートの店員、電話交換手、バスガール,映画女優など女性の社会進出が盛んになるとともに、動きやすいように髪を束ねるだけの髪型が増え、洋服姿も見られ始めた。 一部の女性は「自由恋愛」を叫び始めた。それは当時の社会の常識に反逆する思想だった。 江戸時代の武家の娘が「私は自分の好きな人と結婚します。」というのは誰もあり得ないと思うし、結婚相手はお互いの家格を勘案して親が決め、子はそれに従うのが当たり前のことだった、と知っている。 しかし明治や大正は文明開化したはずだから基本的には現代といっしょの民主化された時代と考え、なんでそんな当たり前の「自由恋愛」を主張するのが問題なのかわからないと感じる人が多いかもしれない。しかし、江戸時代が終わったらいっぺんに世の中が民主化されたわけではなく、明治・大正時代は江戸時代の封建制度を引き継いだ「家父長制度」に厳しく縛られたので、個人の自由とか結婚の自由などの権利は一切なかった。 そのような(現代から見ると)個人を封じ込める制度に反逆して勇敢な女性が「自由恋愛」を叫び始めた。 白蓮はそのような考えで出奔したわけではなく、あくまで妻妾同居がいやということが根本にあったのだと思う。白蓮が絶縁状で訴えているのはその一点だけといってもよい。 100年前に生きた伝右衛門に妻の人権を認めよ、と求めることは時代錯誤で無理な話であり、女中頭サキが仕事ができるからといって、ビジネスと家庭の区別もできないのですか?と考えるのは現代の発想であろうが、100年前とはいえ妻妾同居を許せず、自分を認めてくれる男と結婚するために出奔する女性がいても、それを責めることはできないだろう。白蓮は世間知らずのわがままな公家の娘、という評もあるが、性格的にはそのような部分もあったにせよ、結果的には女性の人権を向上させることにつながっていったのだと思う。 大正10年(1921)久留米の石橋正二郎は「福岡は石炭日本一だというのに、坑夫は草鞋(わらじ)をはいて働いて苦労している。もっといい履物はないのか?」とゴム底の足袋を開発し好評だったので、規模拡大をはかり1923年にアサヒ地下足袋を売り出した。初年度だけで150万足を売り上げる大ヒットとなった。(当時としては驚異的な数字ですね。) 後に自動車タイヤへ進出し「世界のブリヂストン」へと成長した。 昭和元年(1926)福岡県の資産家 1,2位 貝島、安川 3位 麻生(以上は「筑豊御三家」)それに次いで 4位 石炭王・伊藤伝右衛門 明治政府は列強の植民地とならないよう「富国強兵」を急ぎ、日清、日露戦争に勝ってアジアの強国へとのし上がっていった。大正時代の前半はのびのびとした文化が花開き、自由も横溢し、大正デモクラシー、大正ロマンと呼ばれた。末期になると世相はだんだん暗くなり、不況が続き、昭和4年(1929)10月「ウォール街の株式大暴落」から始まった世界恐慌と相まって、昭和の大不況につながっていった。 やがて軍部が台頭し、日本は軍国主義に覆われ、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと戦争への道をまっしぐらに進んでいった。 白蓮の長男香織は早稲田大学在学中に学徒動員され、昭和20年8月11日、終戦の数日前に鹿児島の串木野で爆撃を受け戦死した。 |
![]() |
![]() |
(参考文献) 「愛を貫き、自らを生きた白蓮のように 柳原白蓮展」朝日新聞社 「持丸長者 国家狂乱篇」広瀬隆著 ダイヤモンド社 「大正時代を訪ねてみた」皿木喜久著 扶桑社 「華族たちの昭和史」保阪正康著 毎日新聞社 「四代の天皇と女性たち」小田部雄次著 文春新書 「明治・大正・昭和 話のたね100」三代史研究会著 文春新書 |
![]() |
![]() |
◆このページの先頭に戻る ◆前のページ
◆旧伊藤伝右衛門邸と柳原白蓮(略歴・短歌) ◆旧伊藤邸の邸内 ◆飯塚市と柳原白蓮
◆お雛さまと白蓮 ◆絶縁状と白蓮事件 ◆◆旧伊藤邸の「筑前いいづか雛のまつり」
◆トップページに戻る