柳原白蓮が十年間を過ごした飯塚には、白蓮を偲べるところが何か所かあります。 居住していた旧伊藤伝右衛門邸には居室であった二階座敷や食堂、書斎などが残され当時を偲ぶことができますし、白蓮の書などが飾ってあります。邸内のミュージアム白蓮館には書画、資料、写真などが展示されています。 すぐ近くの遠賀川河川敷には白蓮の歌碑が建てられています。 歌碑はもうひとつ、飯塚商店街の近くの河川敷にもあります。 商店街の中の「藍ありまつ」には店の大部分のスペースを使って、「歌人百連想」として白蓮の書画など多くの資料が展示されています。(案内は ありまつ をご覧ください。) |
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「愛を貫き、自らを生きた白蓮のように 柳原白蓮展」の表紙 (A4版、96ページ、朝日新聞社。2008年9月) 白蓮展のためにまとめられた本ですが非常に見易く、約200点の書、手紙、資料など豊富な図版を使って白蓮の一生が紹介されています。 白蓮を知りたい人にとっては最適の本と思います。 (表紙の歌「ほのかすむ空よりなにか幸のこぼれくるごと花の香そする」) この写真は30歳代のものでしょうか。やややつれた表情ながらも、自分の選んだ人生を生きていく毅然とした決意が見てとれます。 |
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飯塚に嫁いできた頃の写真(25,6歳) 100年前にこんなにすっきりした美貌なら、大正三美人の一人と言われたのも納得できますね。 |
15歳のときです。少女らしくふっくらとしています。 |
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「踏絵」(復刻版 \1,500.-) 左:表紙 右:挿絵 柳原白蓮が最初に出した歌集で、若き白蓮の告白的短歌の結晶といわれています。 序章は佐佐木信綱(白蓮の歌の先生)、装丁は竹久夢二による初版本を復刻したもので三百余首が収められています。 白蓮の歌は心をそのまま歌ったものが多く、その心をどれだけ理解できるかは別にして、文章は百年前の文語体とは思えないほど読みやすいと感じました。 序章(抜粋)佐佐木信綱 白蓮は藤原氏の女なり。「王政ふたたびかへりて十八」の秋ひむがしの都に生れ、今は遠く筑紫の果にあり。「緋房の籠の美しき鳥」に似たる宿世(すくせ)にとらはれつつ、「朝化粧(あさけはひ)五月となれば」京紅の青き光をなつかしむ身の、思ひ余りては、「あやまちになりし躯(からだ)」の呼吸する日日のろはしく、わが魂をかへさむかたやいづこと、「星のまたたき寂しき夜」に神をもしのびつ。或は、観世音寺の暗きみあかしのもとに「普門品(ふもんぼん)よむ声」にぬかずき、或は、「四国めぐりの船」のもてくる言伝(ことづて)に悲しぶ。半生漸く過ぎてかへりみる一生の「白き道」に咲き出でし心の花、花としいはばなほあだにぞすぎむ。げにやこの踏絵一巻は、作者が「魂の緒の精をうけ」てなれりしものなり。而して、「試めさるる日の来しごと」くに火の前にたてりとは、この一巻をいだける作者のこころなり。 白蓮の歌の先生の佐佐木信綱の歌は何か知っていますか? 知らない? いや、みんな知っています。 誰でもが一度は口ずさんだ唱歌「夏は来ぬ」です。(作詞:佐佐木信綱 作曲:小山作之助) 1.卯の花の匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ 2.さみだれのそそぐ山田に 早乙女が裾裳(すそも)濡らして 玉苗植うる 夏は来ぬ 3.橘の薫る軒端(のきば)の 窓近く蛍飛び交い 怠り諌(いさ)むる 夏は来ぬ 4.楝(おうち)散る川辺の宿の 門(かど)遠く水鶏(くいな)声して 夕月涼しき 夏は来ぬ 5.五月闇(さつきやみ)蛍飛び交い 水鶏鳴き卯の花咲きて 早苗植えわたす 夏は来ぬ 1896年に文部省唱歌として発表されているのでもう120年になりますが、文語体にかかわらずその情景の美しさ、懐かしさがしっかり伝わってきますね。 (卯の花=ウツギ、忍音=若いホトトギスがまだデビューの時期でないときに小さい声で鳴くこと、 怠り諌むる=蛍雪の功(夏は蛍を集めてその光で、冬は外の雪の光で勉学にいそしんだ故事)から、夏の夜にも怠らず勉学に励めとまるで諌めているかのよう、五月闇=五月の夜が最も暗いといわれる、水鶏=クイナの鳴き声はまるで戸を叩くように聞こえるので縁語の門が使われている、楝(おうち)=栴檀(せんだん)の木) |
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自筆の色紙。旧伊藤邸に展示してあります。 |
旧伊藤邸の食堂に飾ってありました。 「誰か似る鳴けようたへとあやさるる 緋房(ひぶさ)の籠の美しき鳥」(「踏絵」) |
旧伊藤邸の「ミュージアム白蓮館」に掲げてある縦横2メートル以上の大作です。 女性の筆と思いますが、気迫のこもった力強い筆致ですね。(作者名が見当たりませんでした。) (書の写真掲載については館長の了解をいただきました。) 龍介あての書簡にある言葉です。大正9(1920)年5月30日 (出会っておよそ半年後です。出会ってから二人の間で700通の手紙が交換されました。) (・・略・・) 否 それよりも もっと恐ろしい事をやるかもしれない 私にもし悪魔的の処があればそれは皆男が 教へたのです 又会って話は山ほどあります 私はあなたを信じていますよ わかりましたか やっぱり 六月はゆきますまいね 山田さんもいやに待ち焦がれてゐる 他にも誰がゐるやら 何しろ なぜか 私には なぜこんなに人の誘惑が強いのやら 人の情けと世の無情が悲しくつらい どうぞ 私を私の魂を しっかり 抱いてゝ 下さいよ あなた決して 他の女の唇には手もふれては下さるなよ 女の肉を思っては下さるなよ あなたはしっかりと 私の魂を抱いてゝ下さるのよ きっとよ 少しの間もおろそかな考へを持って下さるなよ 夏にはあいませう 今はあまり人々の視線が強すぎて 私は目がくらみそうですから そして妬みの焔の中に貴方を入れ度くないから 貴方が卒業してしまったら 或はその嫉妬の焔の中に なげ出してみて これみろと人々に見せつけるかもしれない 覚悟していらっしゃいまし こんな怖ろしい女もういや いやですか いやならいやと 早く仰しゃい、さあ何とです お返事は? 五月三十日 夜 龍さま 蓮 |
旧伊藤邸から東に進んだ遠賀川河川敷に白蓮の歌碑が建てられています。 |
歌碑の近くで数人の子どもたちが元気に遊んでいました。 賢そうな犬が一匹、私といっしょにずっと歌碑を読んでいました。 |
歌碑の文字は白蓮の直筆だそうですが、流れるような美しい文字ですね。 私も「わがこしかたに 何をなげかむ」と言ってみたいが、どんなこしかたをしてきたのやら、地べたを這ってきた跡がぐにゃぐにゃしていてちっともわかりません。 山では枯木も息を吐く あゝ今日は好い天気だ ・・・ これが私の故里だ さやかに風も吹いている ・・・ あゝ おまへはなにをして来たのだと… 吹き来る風が私に云ふ 「帰郷」中原中也 きらびやかでもないけれど この一本の手綱(たずな)をはなさず この陰暗の地域を過ぎる! その志明らかなれば 冬の夜を我は嘆かず ・・・ よろめくままに静もりを保ち、 聊か(いささか)は儀文めいた心地をもって われはわが怠惰を諌める 寒月の下を往きながら。 陽気で、坦々として、而(しか)も己を売らないことをと、 わが魂の願ふことであった! 「寒い夜の自画像」中原中也 白蓮も中也も心に信条を持って、生きるか死ぬかのきびしい人生を生きていたのですね。 |
筑豊の石炭を積んだ船が行き交っていた頃、遠賀川にはあちこちに船着場が設けられていました。当時の船着場が復元されています。 龍介あて書簡(大正11年(1922)2月28日 (絶縁状事件の4ヶ月後。実家に幽閉中の書簡です。ノートのページを切り取って表裏に書かれています。) (・・略・・) 何しろこの家には大崇りなのです それに貴方の許へはとても行かれない 皆の恨みだけでも大したもの 貴方がこれ等の人々をすべて救ひだして元の地位に置く程の力でも出来たら 私は貴方のものとなれるかもしれないけど 私共の理想の未来が本当に来るものならこれも神業でなく自身の力で出来るかもしれないが この世は本当に怖ろしい 普通の人なら貴方と一しょに情死でもする処だろうけど私は今になってもこんなに迄なっても実は死ぬ気はない 辛らかった九州の夢のさめた私にはやはり救(ひ)でしたもの 例へ尼になったからとてあの九州の屈辱と無情とは逃れてゐるのですから 貴方は私に気の毒がる事は入りません 私は決して悔てはゐないのですから 併し何うか最初の目的はとげ度い 何と生命力の強い人でしょうか。これがあの清楚な大正三美人の言葉とは信じられないほどの芯の強さを感じます。 白蓮事件の後、兄は黒龍会などの右翼の攻撃を受け貴族院議員の辞職に追い込まれました。家族も世間から隠れるように生きざるを得ず、兄は気が弱くなり、白蓮に「尼になれ」といって白蓮の髪を切り、時には「いっしょに死のう」と泣きつくこともあったそうです。 それでも白蓮は、金で買われた籠の鳥でいるよりもどれだけ幸せなことか、と敢然と生きることを選んでいます。 前半生は運命に翻弄され、周囲のいいなりで不幸に泣くだけだった白蓮が、愛する人といっしょに生きる道を選び、幽閉中にもかかわらず自分の意志で生きる喜びを心の中にしっかりと感じていることがよくわかります。 (しかし、その白蓮も宮崎龍介の結核が重くなったときには死を覚悟しました。苦しい幽閉の中で長男が生まれ、宮崎家の家族の励ましや白蓮を援助する人もありこの苦難を乗り切ることができました。「併し何うか最初の目的はとげ度い」という望みを実現し龍介と結婚した後の数年間は、病気の龍介と子どもをかかえ、執筆を続けて家計を支えました。自分で選んだ道を必死に進んでいきました。あの細いからだのどこに、こんな強靭な生命力が潜んでいるのでしょうか。) |
「旧伊藤伝右衛門邸」、駐車場、歌碑の案内地図です。 駐車場から旧伊藤邸まで歩いて約3分です。 |
白蓮歌碑の案内地図(飯塚観光協会発行)です。 「旧伊藤伝右衛門邸」から東へまっすぐ行けば、徒歩約3分で遠賀川河川敷に着きます。 |
この白蓮の歌碑は飯塚市中心の商店街の近くの穂波川(遠賀川の上流)河畔にあるものです。 すぐ近くの河川敷に駐車場もあります(無料)。商店街にも駐車場があります(有料)。 下記の「歌人白蓮想」や「嘉穂劇場」は歌碑から歩いて5〜10分前後で行けます。 |
全国に建てられている白蓮の歌碑一覧です。 (「愛を貫き、自らを生きた白蓮のように 柳原白蓮展」より転載) |
飯塚市商店街の中にある「藍ありまつ(歌人白連想)」とその近くの穂波川河川敷にある白蓮の歌碑の案内地図です。 |
商店街の中の「藍ありまつ」には店の大部分を使って、「歌人白連想」として白蓮の書画など多くの資料が展示されています。(案内は ありまつ をご覧ください。) |
店内には約200点の資料が展示されています。(観覧無料) ひな祭りの季節には商店街の雛飾りの部屋に、白蓮の詳しい資料や思い出の品々も展示されていました。 |
「歌人白蓮想」の案内リーフレットです。 飯塚で十年間生活した白蓮の面影を、飯塚の地に残すためにがんばっておられます。 白蓮の短冊や色紙、書簡などが豊富に収集展示してあります。資料はここが一番多いと思います。 また、白蓮の「影絵」(復刻版)や関連資料なども置いてあり、入手することができます。 |
(このコンクールの第一回の締切りは過ぎています。)
「白蓮の和歌 メロディー創作コンクール」 新しい試みが始まったようです。 今回の締切りはすでに過ぎましたが、また次回チャンスがあるかもしれません。 白蓮の心に共感する方は、普段から白蓮の和歌に自分のメロディーをつけて口ずさんでみてはいかがでしょうか。 |
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(参考文献) 「踏絵」(復刻版) 柳原白蓮 「愛を貫き、自らを生きた白蓮のように 柳原白蓮展」朝日新聞社 |
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