九州あちこち歴史散歩★長崎市・精霊流し          サイトマップ

 長崎市・精霊流し

   8月15日は日本各地でお盆の行事が行われます。
 ここ長崎でも新盆を迎えた家が精霊船
(しょうろうぶね)を曳いて海に流しますが、それは各地の盆の行事の雰囲気とはまったく様相が異なっています。
 何よりも喧騒の中で霊が送られることです。私は、さだまさしの歌う「精霊
(しょうろう)流し」のしみじみとした淋しげな雰囲気のなかで、時々遠くから爆竹の音が聞こえる風景を予想していましたが、これがなんとも大違いでした。
 精霊船は鉦
(かね)と担ぎ手の「ドーイ、ドーイ」の掛け声(ここまでは想像できるだろう)とともに、爆竹、花火などの間断のない破裂音の中を進んでいく。耳をつんざくとはまさにこのことで、耳栓なしには見ることはできない。隣の者と話も通じない。お盆の行事で、耳栓が絶対必要なのは、全国でもこの行事だけではないでしょうか。

 しかし、表現する形は異なっても、亡くなった者を弔う気持ちに変わりはありません。時代につれてその形は少しづつ変わりながらも、長崎には人間社会の根幹である親族や町内のコミュニティが存在し、みんなで協力して精霊船を造り、霊を送り、船を海に流す行事が何百年も引き継がれてきています。

 長崎は観光名所、旧跡、坂本竜馬の足跡など、見るべきところがいくらでもあります。暑い最中だが、お盆の時期に長崎に足を運び、日中は市内各所を巡り、夜にこの精霊流しを経験されることをお勧めしたい。お盆はしんみりと静かに過ごさないと、亡くなった者や先祖に失礼だという固定概念は変わることでしょう。



精霊船

   日中にはあちこちで精霊船が造られているのを目にします。
 精霊船は町内や個人、企業などで造られます。各町内では、この年新盆を迎える家のために、町内のみんなで船を造ります。町内で造った船を「もやい船」といい、ずっと「もやい船」がほとんどでしたが、昭和30〜40年ごろから個人(家族)で作る船が増えているそうです。



精霊船

   精霊船はお盆の1か月前ごろから造られます。
 「みよし」と呼ばれる舳先の大きな飾りに、苗字や家紋、町名などが書かれ、夜は明るく点灯します。船の正面には位牌と遺影が飾られることが多く、船のまわりは盆提灯や造花などで飾られ、帆には仏様や観音様、お経などが描かれています。



精霊船
 
 夕方になると各町内や家庭で造った船が、それぞれの地域の集合場所に集まってきます。
 船には車輪がついていて、それを曳いて進みます。
 戦前までは、造った船をみんなで担いで海まで持っていってたようですが、昭和24年に終戦直後のことで人手がなく、車をつけた船が登場し、それが広がったそうです。



精霊流し

   夕方5時ごろ、だんだん精霊船が集まってきました。
 各町内や個人の船は、全員揃いの法被やユニフォーム姿です。
 写真左の、棒の先に四角の提灯みたいなものがついているのは、「印(しるし)灯籠」といって、町のシンボルや故人の家紋や趣味の品物などを描いてあり、船の先頭を進むそうです。



精霊流し

   夕方になると出発前にかかわらず、あちこちで爆竹や花火がはじけ始め、だんだん町の空気が煙硝臭くなってきました。道路にはすでに花火のごみが散らばっています。(夜中には、市の清掃部隊が大挙出動し、道路の大量のゴミを夜のうちにきれいにするという。)
 赤いたすきをかけている人は、火薬の責任者で、船の責任者は青のたすきをしています。

 長崎でも江戸時代中頃までは、他の地域と同じように、お盆に精霊物を菰包みにして川に浮かばせ、海に流していたが、その後わら船に乗せるようになり、舟もだんだん大型化していきました。その大きな船を戦前まではみんなで担いで、海まで持っていってたそうです。



精霊流し

   夕暮れも近くなり、いよいよ出発の時間も近づいてきました。
 
 主な見学地点は、長崎市役所周辺と、長崎県庁前(県庁坂)です。
 大型の船は長崎県庁前を通り、一番大きな流し場のある大波止へ進むことが多いので、ここがメインルートとなっているようです。
 毎年流される船は、長崎市内で約1500隻前後といわれています。私は100隻程度を想像していましたがケタが違いました。
 長崎県の他の都市、佐世保、諫早、島原、大村などでも精霊流しが行われ、新聞によると県内では大小合わせて約3,500隻前後が流されるそうです。(なお、実際に海に流されるわけではなく、最近では環境上の観点から、最終的には海辺で解体されています。)



精霊流し

   ペットの精霊船も曳かれていきました。
 団体が出している船で、縁のあったペットたちを供養します。





  精霊流し
 
 船のまわりには、この1年に亡くなったペットたちの写真が貼ってありました。



精霊流し

   精霊船が進み始めました。
 船には、家紋入り提灯を持った喪主、町の提灯を持った責任者、「印灯籠」を掲げる若者がついています。
 船の前に鉦を下げた台車(まれに人が担いでいるときもある)があり、鉦を叩きながら進む。船は揃いの法被を着た若者が曳いていきます。
 数多くの船(1,500隻もの船が流されるとは、私は思いもしなかった)が、あちこちの道路から広い道路に出てくるので、船はなかなか進まない。1〜2キロの道を進むのに、何時間もかかります。
 精霊流しは夕方6時ごろから11時ごろまで行われます。



精霊流し

   船が進んでいるうちはせいぜい爆竹を投げる程度ですが、止まるとどんどん爆竹を投げ、道路に立てた花火に火をつけます。広い道路にずらりと並んだ全部の船が、ひっきりなしに爆竹、花火に火をつけるので、その破裂音で隣の人の話も聞こえず、とても耳栓なしにはおられません。警備のおまわりさんも全員耳栓をしています(これはホントです。耳栓は市内の多くの店やコンビニで100円や200円で売っていました。)



精霊流し

   この精霊船は珍しく(私が見たなかで唯一だった)全員に担がれていました。
 この船を見たときに、担ぐみんなの肩が少々痛くても、みんなでしっかり担いで霊を送ろうという気持ちが現れているようで、厳粛な気持ちになりました。もちろんこの船も、爆竹や花火を使います。

 この船はその形といい、担ぐ様式といい「長崎くんち」の「太鼓山(コッコデショ)」に似ているなあ、と思ったらやはり当っていたようです。正面の「樺」は樺島町の樺に違いない。樺島町はコッコデショを出している町内です。コッコデショは長崎くんちで7年に一度しか出ないのでまだ見ていませんが、いつか必ず見たいと思っています。
 まわりはみんな船に車をとりつけて曳いて歩くようになっても、自分達は船を昔のまま人の肩で担ぐやり方を守っていく。それが樺島町の伝統なのでしょう。



精霊流し

   こちらの精霊船は二連になっています。
 一隻の長さが決まっているので、大型の船を造る人は二連、なかには三連とつないで造ります。眺めるとさすがに壮観です。



精霊流し

   夜もだんだん遅くなり、県庁前道路では相変わらずあちこちで花火が上がっています。爆竹も盛んに鳴らされ、耳栓は外せません。
 このように爆竹や花火をまるでお祭り騒ぎのように使用するようになったのは、昭和30年代のことで、それ以前は整然と静かに精霊船を送っていたそうです。



精霊流し

   船の「みよし(舳先)」の向こう側で、大きな花火に火がつけられました。100本入りの爆竹の箱が数箱?入ったダンボール箱ごと点火するようです。火はビルの2階の高さまで燃え上がり、黒煙は4、5階まで立ち上りました。
 こうした喧騒のなかで精霊船はゆっくり進んで行き、霊は西方浄土に帰っていきます。

 長崎で原爆の犠牲になった多くの人が「私の精霊船は誰が出してくれるのだろうか」と心配しながら息を引き取ったといいます。子供の頃からお盆に精霊流しの風景を見て育ち、若者になったらみんなで船を担いで送り、年配者になると町内の面倒を見るという長崎の人にとって、精霊船で送ってもらえることが心の安らぎになるのでしょう。船を静かに送るか、にぎやかに送るかは、長崎の人が決めることですね。
 どのような形であろうと、亡くなった人を悼む心は変わらないことを感じた精霊送りの行事でした。


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