九州あちこち歴史散歩★筥崎宮・玉せせり                     サイトマップ

筥崎宮・玉せせり

   毎年1月3日に博多の筥崎宮で玉せせり(玉取祭)の行事が行われます。
 500年の歴史があるそうです。
 午後1時から境内で玉洗式が始まり、神職の手で陰陽二つの玉が洗い清められます。1時半頃、二つの玉は約300メートル離れた末社の珠取恵比須神社に運ばれます。ここで神事の後、陽の玉が競り子に渡され、玉せせりが始まります。(陰の玉は神職により本殿へ運ばれ、陽玉の到着を待ちます。)
 玉せせりは前半の区間は子どもの競り子たちによってせせられ、途中(2時ごろ)から大人の競り子が引き継ぎます。一の鳥居をくぐって境内に入ってくると、玉の争奪戦を繰り広げながら徐々に楼門へと近づきます。褌一丁の競り子たちにさかんに勢い水がかけられます。やがて楼門で待つ神職に手渡され、陰陽の二つの玉は再び揃い、祭りが終わります。

 筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。
 御祭神は応神天皇(第十五代天皇)を主祭神として、神功皇后、玉依姫命が祀られています。
 創建は平安時代の中頃である延喜21年(921)、醍醐(だいご)天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立されたようです。
 鎌倉中期、蒙古(もうこ)襲来(元寇)のおり、神風が吹いて未曾有の困難に打ち勝ったといわれることから、厄除・勝運の神としても有名です。

 筥崎宮の詳細は 筥崎宮HP に掲載されています。



   楼門は文禄3年(1594)筑前領主小早川隆景が建立しました。三手先(みてさき)組みという枡組みによって支えられた雄大な屋根を有する豪壮な建物です。
 「敵国降伏」の額を掲げていることから「伏敵門」とも呼ばれています。






   「敵国降伏」の額。
 筥崎宮には天皇が納められた「敵国降伏」の御宸筆が神宝として残されています。10世紀の醍醐天皇の御宸筆とされ、以後の天皇も納められた記録があるそうです。
 特に文永11年(1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり、亀山上皇が納められた事跡は有名です。
 楼門高く掲げられている額の文字は、文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時、亀山上皇の書を謹写拡大したものです。







 
   初詣
 正月三が日で約50万人が厄除け・勝運を願って参拝に訪れるそうです。



   「玉洗式」の式場の陰陽の二つの玉が供えられています。
 玉はともに木製で、直径28センチ、重さ8キロだそうです。



   筥崎宮の境内で「玉洗式」が行われます。
 きれいな菜種油で洗い、拭き取ります。



   毎年、楼門の屋根の上の一等席で、多くの鳩が玉せせりを見物しています。



   好天の年は式場に立てられた笹が美しく感じられます。
 雪の降る年は、寒くて笹などを見る余裕はありません。
 



   珠取恵比須神社で神事が終わると、陰玉は神職が持ち帰り、本殿に供えられ、陽玉の到着を待ちます。





   今や遅しと待つカメラマンの行列 



 
   一の鳥居をくぐって玉せせりの裸の一団が見えてきた。
 境内では数千の群集が見守っていて、立錐の余地もありません。
 境内に入ってくる前の数百メートルの見物客を合わせると数万人が見物するそうです。
 ほとんど全員の人が、記念にと携帯で写します。



   玉せせりの競り子たちが近づいてきました。
 勢い水が盛んにかけられます。
 見ているこちらまで水がかからないように、と願いながら見物を続けます。
 夏の博多祇園山笠の時期なら、濡れても平気ですが、真冬ではなあ、と弱気です。



   玉に触れば災厄を逃れ、勝ち運が訪れるという。
 



   激しい争奪戦が続きます。
 







 










   玉せせりは境内のまんなかに進んできました。






 




   多くの見物人の中を、玉せせりは楼門に近づいていきます。
 なお、玉せせりの行われる間(午後1時〜2時半)は、正面から本殿への初詣はできません。
 



   楼門で待ち構える神職に手渡されると、今年の玉せせりも無事終了します。
 山組が勝てばその年は豊作、海組が勝てば大漁が約束されるそうです。


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