奈良県大宇陀西部の本郷地区に樹齢300年といわれる枝垂れの一本桜があります。「本郷の瀧桜」、あるいは地元では「又兵衛桜」と呼ばれています。 後藤又兵衛とゆかりのある屋敷跡に生えているので「又兵衛桜」と呼んでいるそうです。 又兵衛は、いわずと知れた黒田如水輩下の豪傑で、如水、長政親子が中津から筑前博多(後に城下を福岡と命名)に移封されたとき、又兵衛は黒田藩大隈城主(1万6千石)となりました。 黒田如水が亡くなった後、黒田長政と折り合いが悪く、慶長11年(1606)一族を引き連れて黒田藩を出奔し、浪人となりました。 大坂の冬の陣(1614)、夏の陣(1615)では豊臣方の五人衆の一人として真田幸村らと共に活躍し、道明寺の戦いにおける小松山の争奪戦で奮闘し、ついに鉄砲で撃たれ討死にしました(56歳)。 奈良県の桜ですが九州に縁のある武将のゆかりの桜ということで、「九州あちこち歴史散歩」に特別参加してもらいます。 奈良県の宇陀地方は万葉集によく登場する地名で、古くから開けていたようです。 柿本人麻呂の「東の野にかぎろひの立つ見へて 返り見すれば月傾きぬ」は、この地を歌ったものといわれています。 |
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後藤又兵衛は大坂夏の陣の道明寺の戦いで、小松山において討死にしました。 (大坂夏の陣と後藤又兵衛の概略は「慶長20年(1615)4〜5月 大坂夏の陣」をご覧ください。) 英雄を死なせたくない民衆の願望もあり、又兵衛の墓は全国各地に数か所あるようです。 夏の陣の後、この大宇陀の地に又兵衛にゆかりのある一族が住みつき、豊臣方残党狩りを逃れながら生活してきたのでしょうか。 又兵衛が子どもの頃、この桜の木に登って遊んだ、などの言い伝えがあると戦国時代ファンにとってはさらに桜が輝きを増すのでしょうが、そこまで結びつけるのは無理なようです。大坂夏の陣から約400年になりますが、この又兵衛桜は樹齢300年とのことです。 現地の案内板には「又兵衛桜」が生えているのは「後藤家の屋敷跡」と記してありますが、私がまわりに話すときにはどうしても「後藤又兵衛の屋敷跡」となってしまいます。 この枝垂れの一本桜の大木はさすがに見事なものです。(高さ13メートル、幹周り3メートル。) 戦国時代ファンでなくても一見の価値あり、です。 |
この地図(左が北)の一番右下に又兵衛桜があります。 道路沿いに数か所の駐車場があり、数百台の駐車が可能です。 しかし、近年特に人気が高まり、満開の時期(4月上旬〜中旬ごろ)には車が集中するようです。 私は朝7時に到着しましたが、すでに数十人のカメラマンと2、3百人の花見客が来ていました。ただ、周辺は広いので、桜の周りを一周したあと、小川を挟んだ一帯でゆっくり眺めながら楽しめます。 又兵衛桜の東100メートル位の地点に「北向地蔵桜」があります。やや小ぶりな一本桜です。 ここから歩いて約15分のところに「天益寺(てんやくじ)の桜」があります。これは「又兵衛桜」の親桜で、樹齢350年、みごとな枝垂れ桜です。(「又兵衛桜」はこの桜の木から枝を分けて植えたものだそうです。) 「又兵衛桜」を見に行くのなら、「天益寺の桜」も必見です。数メートルも下がった枝垂れの桜の花が風に吹かれ、ゆらゆらと揺れてきれいでした。 |
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350年生きてきた貫禄があります。 |
近くの林の中の桜。 ひらひらと花びらが舞い散る桜の木の下で、一日ゆっくり昼寝がしてみたい。 (西行さんの歌の境地とは、当然のことではあるがえらい違いだ。私はただの昼寝でいいよ。) 「願わくば花の下にて春死なん その如月(きさらぎ)の望月のころ」 西行法師 西行法師はこの歌の願いどおり、旧暦2月16日、桜の咲き誇る満月の日(現在の暦で3月下旬〜4月上旬)に亡くなりました。 |
近くの枝垂れ桜。 目の前の枝垂れた枝に薄いピンク色の花が咲きそろい、風に揺れていました。 |