九州あちこち歴史散歩★熊本城の桜                       サイトマップ

熊本城の桜

   熊本城は築城の名人加藤清正が築城しました。
 清正は慶長3年(1598)前後から茶臼山の築城を本格化し、慶長12年(1607)に完成しました。周囲12キロで、みごとな石垣を持つ天下の名城です。 別名、銀杏(ぎんなん)城。
 竣工に際して、清正はそれまでの隈本の地名を熊本と改めました。



   天下一の城壁の横で、家族でゆっくり花見です。なんと贅沢なひとときでしょうか。 

エピソード「佐々成政と国一揆」
 隈本城(古城)は菊池氏、城氏の居城だったが、天正15年(1587)豊臣秀吉が九州を統一し、佐々成政に肥後国を与え、成政は隈本城を居城とした。
 佐々成政は三年間はやるなと秀吉に言われていた検地を強行し、それに反発した国人衆は、隈部氏を中心に一揆を起こした。一揆は肥後各地に広がり、半年にわたったが、秀吉の指示で隣国も応援の兵を出し、鎮圧された。
佐々成政は失政の責任を取らされ切腹となったが、一揆に対する秀吉の報復も苛酷きわまりなく、国人や家族、親類やわずかに同調した者まで多くが斬首され、みせしめにされた。

天正16年(1588)、秀吉は肥後国を二分して、北半を加藤清正、南半を小西行長に与えた。
 



   石垣上の多聞櫓には出窓や狭間(さま)があります。
 出窓の下からは石が落され、城壁をよじ登るのを防ぎ、狭間からは矢や鉄砲を放ちます。

エピソード「加藤清正と熊本城」
 加藤清正(1562-1611)は 天正16年(1588)に秀吉より肥後半国19万5千石を与えられ、隈本城(古城)に入城した。
 築城の名人といわれ、天正19年(1591)、隈本城の東側の茶臼山(標高50メートル)に大規模な新城を計画したが、その後、朝鮮出兵の基地となる肥前名護屋城の普請を担当し、文禄元年(1592)に出兵が始まったため、茶臼山の築城はあまり進まなかった。本格的な工事は1600年前後からで、慶長12年(1607)に完成した。
 清正は、朝鮮でも西生浦和城など数城の和城を築城している。
 また、徳川家康の命令に従い、江戸城の増改築、名古屋城の築城に携わっている。築城の名人であった。



   櫓は建物の土台が石垣より出っ張り、石落しが造られています。

エピソード「加藤清正と文禄の役」
 朝鮮出兵(文禄の役(1592-1596)・慶長の役(1597-1598))
 15万余の兵で渡海し、最初は鉄砲の威力などで優勢であったが、冬の厳寒に苦しんだ。やがて制海権を奪われ、明の応援も加わったため、日本は次第に苦戦を強いられるようになった。
 慶長元年(1596)、加藤清正は小西行長に作戦の邪魔をしたなどと報告され、怒った秀吉は7月、命令違反で清正に帰国蟄居を命じた。伏見で蟄居して待つ清正には切腹を言い渡される恐れもあった。
 閏7月13日夜、大地震が近畿を襲い、秀吉が居城としていた完成したばかりの伏見城も壊れた。このとき清正は蟄居中にもかかわらず、直ちに伏見城に秀吉の救援、護衛のために赴き、秀吉に許された。

 清正は槍の名人で愛用したのは十文字槍。戦いの中で片刃が折れ、「片鎌の槍」と呼ばれた。



  エピソード「加藤清正と慶長の役」
 朝鮮出兵(文禄の役(1592-1596)・慶長の役(1597-1598))
 慶長2年(1597)1月渡海。2回目の出兵が始まった。
 ほぼ1年たった12月、浅野幸長
(よしなが)の守る蔚山(ウルサン)城に30万の明軍が攻め寄せ、苦戦に陥った。10キロ離れた西生浦城にいた清正はすぐに60人の部下を引き連れ応援に赴き、包囲網を破って城中に入った。
 しかし、このあとも明軍の包囲は続き、水源を絶たれ、兵糧攻めにあった。城中は飢えと渇きに苦しんだ。2か月半後、加藤軍や立花宗茂などの援軍の奮戦により明軍が撤退を開始しようやく生還することができたが、その間はまさに生き地獄であった。
 
 このときの苦しい経験から、熊本城内には百数十ヶ所の深井戸を掘り、壁に「乾瓢(かんぴょう)」、畳下に「芋茎(ずいき)」を入れ、籠城に備えたという。



  エピソード「豊臣秀吉の辞世の歌」
 慶長3年(1598)8月、秀吉は「かえすがえす秀頼のこと、たのみ申し候。五人の衆、たのみ申すべく候」と五大老に哀願する手紙を残し、亡くなった。63歳であった。
 
 秀吉の辞世の歌
  「露とおち露と消えにし我が身かな なにわのことは夢のまた夢」

 こうして7年間にわたる無謀な侵略戦争は終わった。
 



  エピソード「加藤清正と石田三成」
 慶長3年(1598)、清正は年末に帰国し、生まれていた長男の藤虎(後の忠広)に初めて会えた。
 秀吉亡きあと世の中は落ち着かず、翌年慶長4年(1599)3月には、文治派の石田三成・小西行長らとの関係が決定的に悪化する事件が起きた。
 朝鮮出兵に際して死を賭して戦ったにかかわらずその戦功を正しく伝えなかったとして、武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明、細川忠興の七将が石田三成を襲撃したのである。このとき七将に追われた石田三成は、秀吉の遺言に反していると三成が糾弾していた当の相手の徳川家康の館に逃げ込み、家康の口利きで三成が居城佐和山城に蟄居引退することでその場はいったん納まった。しかし、双方の反目は根深く、1年後の関ケ原の戦いにつながっていった。
 三成憎しのこれらの武将が、関ケ原の戦いで東軍に属して三成を相手に戦ったのはいうまでもない。
 



   大天守閣

エピソード「加藤清正と立花宗茂」
 慶長5年(1600)、関ケ原の戦いでは加藤清正は東軍に属し、島津軍の動きに備えた。また、黒田如水らと協力し九州の地で西軍派と戦い、西軍の小西行長の居城宇土城を攻め落とし、八代城を開城させた。
 徳川家康はその功を認め、旧小西領を清正に与え、清正は肥後52万石の領主となった。

 関ケ原の戦いで、西軍として参加し大津城を陥落させたが、西軍が負けた(石田三成はなぜ歴戦の雄、宗茂を後方支援にしか使わなかったのか?)ため柳川城に帰ってきた立花宗茂が東軍の黒田如水、鍋島直茂軍に包囲されていたときに、死なせるには惜しい立派な武将であるとして清正は直ちに調停に乗り出し、決戦を避けて降伏・開城させた。清正は宗茂を自領に客分として住まわせ、百数十人の家臣の面倒もみた。
 (立花宗茂は西軍だった自分が清正の客分で居続けることは清正の立場が悪くなるため、1年後に少数の家臣とともに京、江戸へあてのない旅に出た。食べるものも満足にない生活であったが、主従はそれに耐えた。やがて将軍秀忠が宗茂の武勇豪胆を敬愛し、奥州棚倉1万石を与えられた。そして元和6年(1620)、旧領筑後柳川11万石の領主として復帰した。西軍の武将が領主として復帰したのは稀有のことである。宗茂は肥後熊本の加藤家に心から礼を述べ、旧柳川藩家臣を引き取った。こうして主従が再び柳川藩に復帰し、このあと明治御一新までの250年間、柳川の領地を守り続けた。))

 清正は人情厚く、治水や干拓事業、海外貿易なども積極的に行い、今も地元の人たちに「清正公(せいしょこ)さん」と慕われている。



   大天守閣と小天守閣

エピソード「柳生兵庫助と熊本城」
 慶長8年(1603)柳生兵庫助が加藤清正に仕えた。兵庫助はこのとき35歳、500石で召し抱えられた。。
 祖父の石舟斎は清正に「兵庫は短気者なので失敗することもありましょう。どうか三度までは死罪をお赦しくださいますよう」と頼んだ。兵庫助はやはり失敗して加藤家を浪人した。同僚といさかいを起こしこれを斬ったとも、一揆勢を勝手に斬ったともいわれる。
 福島正則などから招かれたがそれを断り、約十年にわたり諸国を修行した。
 兵庫助は幼少から祖父石舟斎に直接指導を受け、石舟斎の剣風をもっとも受け継いだといわれ、石舟斎は死に臨んで兵庫助に印可状を与え流儀を相伝した。将軍家師範の位置にあった伯父の宗矩
(むねのり)が家督を継ぎ、兵庫助が流儀を継いだ。
 元和元年(1615)、尾張の徳川義直に仕え、これ以後正統な柳生新陰流は尾張に伝わることになった。





   天守閣前広場から東側の市街地を望む。

エピソード「加藤清正と豊臣秀頼」
 関ケ原の戦い以後、天下は徳川家康のものとなったが、清正の豊臣家への忠誠心は変わらなかった。
 清正はずっと秀吉の遺児秀頼を支えたが、豊臣家存続のため、慶長16年(1611)淀殿の反対を説得して、家康と秀頼を京都二条城で対面させた。清正はずっと秀頼から離れず、家康に会ったときも万が一に備えて懐刀をしのばせていたという。
 この直後、肥後に帰国する船中で発病し、帰国後間もなく50歳の生涯を閉じた。
 脳出血とされるが、家康に毒饅頭を食わされたとの毒殺説も流れた。
 



   宇土櫓
 本格的な天守閣の様式で、望楼が廻り縁を持つ。小西行長の居城であった宇土城から移したとの伝承から宇土櫓と呼ばれるが、隈本古城の天守閣だったとも、新築されたものともいわれる。桃山風の風格を備えている。

エピソード「加藤忠広の改易」
 慶長16年(1611)、清正の跡目は15歳の忠広(藤虎)が継いだが、藩内で抗争が続き、元和5年(1618)、二度と不祥事は起こさないという条件で幕府から一度は藩の存続を許された。
 しかし、忠広に藩をまとめる力量はなかった。忠広は、三代将軍家光が嫌った弟の駿河大納言忠長と親しかったことから、寛永9年(1632)に起こった「家光を排除して、忠長を将軍に立てよ」との怪文書事件に関係したといいがかりをつけられ改易(取り潰し)となった。



 
 
           高石垣。「武者返し」と呼ばれる扇勾配のみごとな石垣。



 
 
   下部のなだらかな角度で積まれている部分



 
 
           天下一の石垣。

エピソード「細川忠利と母ガラシャ」
 寛永9年(1632)、加藤家が改易された後、熊本に入封したのは豊前小倉城主であった細川忠利である。
 忠利の祖父は藤孝(幽斎)、父は忠興、母はガラシャ。忠利は三男である。。

 慶長5年(1600)7月、石田三成が大坂で挙兵し、上杉景勝を討つため会津へ出兵している東軍の武将の留守宅に、妻子を人質に取ろうと押し寄せた。
 大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャ夫人は、家を取り巻かれていることを知り、人質になるよりもその場で死を選んだ。キリシタンであったガラシャは自決できないため、留守居役の小笠原少斎に薙刀で胸を突かせた。少斎は屋敷に火を放ち、自分も切腹した。(少斎の息子玄也にまつわるエピソードは後述)

  ガラシャ辞世の歌
   「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」



  エピソード「細川ガラシャと三人の息子」
 関ケ原の戦いの前哨戦で細川屋敷を石田三成の兵に囲まれた際(1600)に、ガラシャは長男の細川忠隆の正室で前田利家娘の千世に逃げるように勧め、千世は姉・豪姫
の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。ガラシャは人質に取られるのを避けるため家老小笠原少斎に薙刀で胸を突かせ命を絶った。しかし、あとでこれを知った忠興は激怒し、忠隆に千世との離縁を命じた。忠隆は別れないと答え、忠興は忠隆を勘当廃嫡した。忠隆と千世はその後京都で暮らした。
(前田利家は1599年に62歳で病死したが、その後徳川家康は最大のライバル前田家の力を削ぐために、長男前田利長に「謀反を企てている恐れがある」と難くせをつけ、驚いた利長は挙兵よりも母まつ(芳春院)を家康の下に人質に出すことを選んだ。細川忠興は家康に睨まれている前田家と縁を切ろうとしたのだとも言われている。)
 細川家では江戸に人質に出されていて、二代将軍徳川秀忠の信頼を得ていた三男忠利が世子(世継ぎ)となった。二男の細川興秋はこれを不満として出奔したといわれ、大坂の陣(1615)では豊臣方として戦い、自害した。



  エピソード「細川忠興と加賀山隼人」
 秀吉のバテレン追放令や禁教令は最初は大名に限られていたので、天正15年(1587)高山右近が棄教をせずに大名を捨て浪人になったとき、右近と親しかった細川忠興は右近の家老だったキリシタンの加賀山隼人を召抱えた。(忠興は洗礼は受けなかった)。禁教令は次第にきびしくなりすべての人間に及ぶようになった。
のち元和5年(1619)小倉藩主になっていた細川忠興は棄教を拒む加賀山隼人を処刑せざるを得なかった。



  エピソード「加賀山みやと小笠原玄也」
 加賀山隼人の娘みやは助命された。後に、みやは小笠原少斎の息子玄也と結婚した。子どもや召使いなど一家15人がキリシタンとして細川家の転封に伴い熊本城下でひっそりと暮らしていた。玄也は兄弟の説得にも棄教しなかった。肥後熊本藩初代藩主となった細川忠利は彼らをなんとか生かしてあげたいとこれを隠していたが、徳川幕府のキリシタン弾圧はますます苛烈なものとなり、寛永12年(1635)、ついに幕府に知れてしまった。忠利は玄也一家を長崎に送って火あぶりや穴吊るしの残虐な刑に処せられるよりもと、熊本の花岡山麓で一家全員を処刑し、丁寧に埋葬した。
 



  エピソード「細川忠利と宮本武蔵」
 細川忠利も清廉で、よく肥後を治めた。
忠利は肥前藩主鍋島元茂と並んで柳生新陰流免許皆伝の腕前で、寛永17年(1640)剣豪宮本武蔵を客分として迎え、熊本城の東側にあった千葉城に屋敷、道場を与えた。

 武蔵は
  ・慶長9年(1604)、吉岡兄弟と洛北の一乗寺下
(さがり)り松で決闘
  ・慶長17年(1611)、巌流島(船島)で佐々木小次郎と決闘
 当時から全国にその名を知られていた。(生涯に63回真剣勝負を行ったという。)
 武蔵は晩年を熊本で過ごし、城の西の霊厳洞で「五輪の書」を著し、正保2年(1645)62歳で亡くなった。
 
 昭和の初めに、武蔵は弱くて倣岸不遜とする作家の直木三十五と、強いとする菊池寛の間で大論争が繰り広げられた。
 宮本武蔵は、国内外に最も名を知られ、かつ最も好き嫌いが分かれる剣豪である。
 この論争の後、吉川英治の「宮本武蔵」が発行され、求道者武蔵、剣禅一致の境地をめざす武蔵のイメージが広まった。

 武蔵の残した絵画などを見ても、武蔵が一流の剣豪であったのはまちがいないだろう。ただ、一流の人格者であったかというと、それはなんともいえない。




  エピソード「西南の役と熊本城」
 明治10年(1877)西郷隆盛を総帥とする3万余の薩軍は、新政府の熊本鎮台の置かれた熊本城を攻め落とそうとした。西南の役である。
 谷干城
(たにたてき)少将率いる政府軍は熊本城に4千の兵で籠城策をとることにした。ところが、まだ薩軍が攻め寄せて来る前に熊本城に火災が発生し、大小の天守閣をはじめほとんどの建物が焼け落ちてしまった。(めぼしい建物では宇土櫓だけが残った)。
 谷少将は防衛のため城下のほとんどを焼き払った。薩軍は城を包囲し連日猛攻を加えたが、小数の政府軍はよく耐えた。やがて新政府軍の主力部隊が田原坂の激戦などで薩軍に勝利し、熊本城に入城した。籠城軍はついに52日間守り通し、薩軍は撤退を開始した。わずか4千の徴兵が守る熊本城を、西郷隆盛率いる武勇を誇る3万の薩軍も攻め落とせなかった。難攻不落の名城であることが明治の世になって証明されたのである。

 昭和35年(1960)大小天守閣が再建された。
 平成20年に「昭君の間」で有名な本丸御殿が復元された。
 


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