福岡城跡(舞鶴公園)の梅は、1月下旬から開花を始めます。まだ冷たい空気の中で、2〜3割の開花ですが、どの木も蕾がいっぱいで、新鮮な感じがします。この時期もなかなかいいものです。観梅の人もまだ少なく、お城の駐車場もがらがらです。 2月上旬になるとほとんどの梅が花を開き、毎年10日前後が満開になります。見ごろは上旬〜中旬です。この頃には人出も多くなり、春のざわめきの前哨となります。 福岡城の本丸跡が桜園、二の丸跡が梅園になっています。 舞鶴公園内には白梅220本、紅梅150本の計400本弱の梅が植えられているそうで、思ったよりたくさんの梅があります。二の丸以外にも、城内を一周すれば、あちこちに趣のある梅を見ることができます。 |
裸になっている冬のけやきの横で、春を告げる梅が咲き始めました。 |
この紅梅はすでに五分咲きで、まわりがいっぺんに明るくなります。 |
二の丸の梅園です。大半はまだ蕾ですが、暖かくなるたびにどんどん花が開きます。 |
紅梅の蕾です。明日にでも開きそうです。 |
白梅。やはり最初に春を知らせるのは清楚な白梅がぴったりでしょうね。 |
早いものは紅梅でも満開です。 |
2月上旬、中旬には、八重や枝垂れの梅が満開となります。 人出も多くなります。 |
八重の紅梅は、暖かい春そのものです。 |
二の丸の梅園。 |
1月下旬、寒さになんとか打ち勝って外出しこのような明るい花を眺めると、これを機会にそろそろ冬眠をやめて戸外に出ようと思います。しかし、またちょっと寒くなると家に閉じこもり、冬眠状態が続きます。もっとアクティブになろう・・・、と毎年同じことを繰り返しています。 |
石垣と梅。 福岡城は黒田長政(1568-1623)が築きました。 慶長5年(1600)関ケ原の戦いで、黒田長政は小早川秀秋を寝返らせるなどの大手柄により、豊前中津16万石から筑前国52万石の大大名となりました。 (関ケ原の戦いのとき、父の黒田如水(1546-1604)は九州中津城にいたが、天下の策士ぶりを発揮して天下を狙った。まず九州を平定し、その後、中国、近畿に進軍して、戦いに疲れた豊臣、徳川方を撃破して天下を取ろうと考えた。関ケ原の戦いは短くても1年は続くと踏んだのである。実に気宇壮大で、ただの夢物語と片付けられない戦略であった。如水は中津で兵を起こし、瞬く間に北部九州を平定した。 しかし、息子長政が小早川秀秋を徳川方に引き入れ、関ケ原の戦いの中で秀秋が豊臣方を裏切った結果、約20万人が参加した天下分け目の戦いはあっけなく一日で終わってしまった。黒田如水は、豊臣秀吉に続いて、徳川家康からも睨まれてしまい、天下取りの夢は潰え、隠居を続けるしかなかった。) |
紅梅の入場門です。 |
のびのびとした枝ぶりです。 |
山桜に感じが似ていると思いますが、どうでしょうか。 |
白梅もすがすがしい。 |
石垣と白梅。 黒田長政は関ケ原の戦いの後、筑前国に入封したが、それまでの名島城が治世に不便なため、福崎の地に城を築いた。慶長6年(1601)に築城を開始し、慶長12年(1607)に竣工した。 黒田家再興の地である備前国福岡の地名にちなみ、その地を福岡と名付けました。 このため、昔からの商業都市「博多」に、城下町「福岡」が割り込んで、その後の都市名や、駅名の争いの元になり、現在も尾をひいています。(国内で、「博多」と「福岡」の知名度は半々くらいではないでしょうか。) |
満開の紅梅。 |
満開です。盛りを過ぎつつありますが、まわりを明るく華やかにしています。 |
梅といえば、このような清楚で凛とした白梅を連想します。 |
紅梅、白梅が妍を競っています。 |
石垣の横に咲く梅。石垣はお城の歴史などを思い起こさせていいですね。 黒田如水の隠居地は、三の丸に作られ(御鷹(おたか)屋敷)、今は、ぼたん、しゃくなげ園ができていて、4、5月にみごとな花を咲かせています。 福岡城の最大の謎は、天守閣が実際に建てられたのかどうかという点です。天守閣を造ろうとする段階で造ることなく中止したのか、それとも一旦天守閣は完成(あるいは一部完成)したが、その後すぐに取り壊されたのか、はっきりしていないのです。(背景に、関ケ原の戦いのあと、徳川幕府が急速に権力を把握し、各大名が幕府に対して天守閣を造ることを遠慮し始めたという当時の風潮があります。)造られなかったという説が主流ですが、最近では造られたという説も強く主張されています。 天守閣跡には多くの礎石が残っています。はたしてここに柱が立てられ、天守閣が実際に造られたのかどうか、福岡の市街地を眺めながら、自己流に謎に挑戦するのも楽しいものです。 |
馥郁(ふくいく)たる香りが漂っています。 |