福岡城の天守閣については従来「建てられなかった」と言われてきましたが、近年になって天守閣の存在をうかがわせる古文書が見つかりました。それによると福岡城が完成した慶長12年(1612)の時点では天守閣が建てられていて、元和6年(1620)に破却されたと記録されているようです。 大坂冬の陣(1614)、夏の陣(1615)で豊臣家を滅亡させた徳川幕府は、その保身のために気に入らぬ大名、特に外様大名の取り潰しをはかり、1619年には広島城主福島正則が、何回も幕府に改修願いを出していたにもかかわらず、幕府の許可なしに居城を修築したという理由で改易されています。同じ豊臣恩顧の国持ち大名である黒田長政は関ケ原の功績におごることなく忠実に幕府に仕えていましたが、それでも世間には謀反の噂が立っていました。 「長政殿は2,3日前に将軍秀忠公に謁見なされた。福岡帰国のお許しがあったようだ。主居城をおおかた破壊されてから、また、参勤されるようだと下々は噂している。いずれにしても、天守はお壊しなされるに違いないと取り沙汰されている。」(元和6年(1620)3月15日の条) 「福岡の天守も家屋敷もくずします。徳川の御世には城すらもいりません。もし、城を取られても将軍のお力で取り返すことができるからと考えたので、天守の取り壊しを命じました。長政殿はそう申し上げられたようだ。」(元和6年(1620)3月16日の条) 「細川家資料」に以上の記事があり、天守が福岡城にあったことは明白であり、それを裏付けるものは黒田家側の「林家文書」にもある、との主張が強まっています。 はたして天守閣は一度は建てられたのでしょうか。 |
お堀の桜 |
下之橋と潮見櫓 |
下之橋 |
大手門と潮見櫓 |
二の丸東側の桜。 |
福岡城跡には椋の木が多く、石垣のすぐ近くに生えている木は石垣を崩しているものも多い。 しかし、椋の木の大木は風格があります。 |
天守台と桜。 はたしてこの上に天守閣が聳えていた時期があったのだろうか。 |
多聞櫓の西側。 夕闇がせまってきました。また来年、福岡城跡の桜を楽しむことにしましょう。 |