城内は天守台、本丸、二の丸、三の丸の四層に分かれ、潮見櫓、花見櫓をはじめ計47の櫓が設けられていました。 四周を堀が取り囲み、堀に架けられた上之橋、下之橋、追廻橋だけが城外への通路でした。 天守閣については従来「建てられなかった」と言われてきましたが、最近の研究で「当初は建てられ、十年余りで破却された」との説が有力になりつつあります。今後、さらに確証が発見されるでしょうか。 毎年3月下旬から4月上旬にかけて「福岡城さくらまつり」が開かれます。 |
「本丸」の西側にベニヤエシダレザクラが並び、城の石垣を背景にしてすばらしい眺めです。 |
福岡城は黒田長政(1568-1623)が慶長6年(1601)に築城を開始し、7年の歳月をかけ慶長12年(1607)に完成しました。まだ戦国時代の名残をとどめる時代であり、城内での戦闘も考慮して八段構えの入り組んだ石垣が構築されています。(父の黒田如水(官兵衛)(1546-1604)はすでに隠居していましたが、実戦経験が豊かで築城の名人であった如水の意見も取り入れたことと思われます。) 関ケ原の戦いのとき、黒田如水は九州中津城で留守を守っていましたが、天下の策士ぶりを発揮して九州から天下を狙いました。まず九州を平定し、その後、中国、近畿に進軍して、戦いに疲れた豊臣、徳川方を撃破して天下を取ろうと考えました。全国各地から大部隊が集結した関ケ原の戦いは短くても1年は続くと判断し、その間にまず九州を平定し地盤を固めようとしたのです。実に気宇壮大で、ただの夢物語と片付けられない戦略でした。如水は直ちに中津で兵を起こし、瞬く間に九州の北半分を平定しました。 しかし、息子長政が小早川秀秋を徳川方に引き入れ、関ケ原の戦いにおいて秀秋が豊臣方を裏切った結果、約20万人が参戦した天下分け目の関ケ原の戦いはあっけなく一日で終わってしまいました。 天下を取った徳川家康は如水に進軍停止を命じ、如水は家康に「徳川家のために平定しました」と弁明しましたが、如水は、秀吉に続いて家康からも睨まれてしまい、天下取りの夢は潰え、筑前の地で隠居を続けるしかありませんでした。もし、関ケ原の戦いが如水の思惑通り半年間でも続いていたらもしかして・・・ |
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「筑前の花守」といわれた福岡市の元市長、新藤一馬氏はこの地を桜の名所にしようと情熱を燃やされたそうです。おかげですばらしい桜を楽しむことができます。 |
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桜の古木もあちこちで花を咲かせています。 |
本丸の桜 |
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古木の桜 |
「祈念櫓」 天守から北東に位置し、鬼門封じを祈念して万延元年(1860)に建立されました。 |
春の花も楽しむことができました。 |
北東の上之橋の近くの桜。 |
お堀の周辺は福岡市の中心街に続いています。 |
お堀の桜。 |