九州あちこち歴史散歩★秋月城跡の紅葉(2)黒門周辺         サイトマップ

秋月城跡の紅葉(2)黒門周辺

   秋月城跡の「黒門」は現在、秋月黒田藩祖・長興を祀る垂裕(すいよう)神社の参道に移築されています。本来は秋月城の大手門として、城の前面の掘割にある瓦坂の奥に建っていたものです。形式的には江戸初期のものとされているようですが、中世秋月氏の本城・古処山城の搦め手門であったという伝承も残っているそうです。
 中世から戦国時代にかけて活躍した秋月家は、16代で約400年間にわたって秋月の古処山城を本拠地としました。   16代・秋月種実
(たねざね)は勢力を拡大する大友宗麟に反抗を続け、立花道雪などとも戦い、秋月を中心として勢力を拡大し、「筑前に秋月あり」とその名を高めました。
 天正14年(1586)の豊臣秀吉の九州平定に際しては「秀吉、何するものぞ」と古処山城に拠って戦いましたが、天下はすでに秀吉によって統一されつつあり、数日で降伏し、天下の三大肩衝の一つ「楢柴」を献上して許され、日向高鍋に移封されました。
 (「楢柴」の変遷については 天下三肩衝の流転(3) 「楢柴肩衝」と本能寺の変 をご覧ください。)

 後にこの高鍋秋月家から米沢藩上杉氏の養子となり、明和4年(1767)に藩主となって米沢藩再生を実現した名君・上杉鷹山
(ようざん)が誕生しています。
 鷹山の父は日向高鍋藩主・秋月種美、母は筑前秋月藩主黒田長貞の娘・春姫。

 「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」(上杉鷹山の和歌。(元歌は武田信玄))
 「国家人民の為に立ちたる君にて 君の為に立ちたる国家人民にはこれ無く候。(国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、君主のために存在・行動する国・国民ではない。)」(上杉鷹山「伝国の辞」)
 江戸時代にこのような発想をし、しかもそれを実行し、「自助」「互助」「扶助」の精神を領民に理解させて国政改革を実現した上杉鷹山を、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディやビル・クリントンは「最も尊敬する日本人」と答えています。



 11月末、紅葉はシーズン最後の輝きを見せてくれました。


「黒門」
 秋月城の大手門だった黒門は垂裕神社参道の石段の途中に移築されています。
 垂裕神社は1859年に初代藩主長興の200周忌にあたってその功績を記念するために祀られ、明治5年(1872)から3年がかりで現在地に社殿が建設されました。
 社殿の建設や整備は旧秋月藩士が中心となって実施したため、参道の石段は「士族(さむらい)坂」とも呼ばれているそうです。


 秋月は旧城下町の敷地割りや道路・水路網などのがほぼ当時のまま残されているので、昔の何かしらほっとする雰囲気に満ちています。


 黒門周辺はかえでの木が多く、紅葉で有名です。


 中学校の校庭の横には一本の大木がそびえていました。


 かえでの木によってさまざまな色合いの紅葉が私たちの目を楽しませてくれます。




 きれいな葉っぱが好きな人は少し早めの20日前後が最適かもしれません。
 (もちろん年によって少しずつシーズンはずれますが・・)
 森全体が燃えるような紅葉の風景が好きな人は月末ごろが見頃と思われます。
 (ただし寒波が来たら手遅れになります。)
 一面が銀杏の黄色の葉っぱで埋まるのは12月初旬ごろのようです。




 緑の葉が残っているのが、またすばらしいコントラストをかもし出しています。


「垂裕神社」
 現在、初代藩主長興に加えて歴代藩主やその夫人、これまでの戦いで亡くなった人たちが祀られています。


 秋深いこの時期に新緑のような淡い緑の葉が新鮮な感じです。


 黒門周辺は紅葉で有名ですが、もうひとがんばりして、黒門から石段を50メートル登ることをお勧めします。
 とてもすばらしい紅葉の眺めを目にすることができます。


 だんだん太陽も傾いてきたが、しっかり紅葉を照らしてくれているのがありがたい。





 時々日がかげります。


 今シーズン最後の輝きでしょう。











 銀杏の葉が金色に輝いていました。






 燃えるような紅葉の下で、花にも負けない若さがはじけるお嬢さんが成人の記念撮影をしていました。


 夕暮れの黒門です。


 太陽も落日を前にして最後の光を注ぎ、紅葉もそれに応えて光り輝いています。
 どんよりとした冬の日差しに変わるのももうすぐです。


 子供の頃を思い出しながら、カラスといっしょに帰路につきました。



   

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