九州あちこち歴史散歩★福岡城(3)天守台跡など サイトマップ
幻の天守閣が姿を現すか? 福岡城の天守台石垣は東西25m、南北22.5m。 石高と築城規模はほぼ一致することから姫路城(池田輝政52万石の居城)並みの天守閣を想定すると四層ないし五層の壮麗な天守閣があったとする説が強くなっています。 従来の定説 ・「筑前国続風土記」など近世地誌類も天守閣には全く触れておらず、天守閣は造られず天守台だけだった。 ・大砲を使った戦闘に備えて、台場として利用するため天守台だけにした。 ・幕府に対する遠慮から天守閣は造らなかった。 慶長2年(1602)か翌年頃の長政の書状 ・「2月中に天守の「柱立て」を行うように」 ・立柱式は行われ、途中までは工事が行われたかもしれないが、完成する前に取り壊されたか、火災などで壊れ、そのまま放置された。 以上が定説として近年まで一般に広まっていました。 「幕府に対する遠慮から天守閣は造られなかった」という説は、福島正則が勝手に城の改修を行ったため(という口実で)改易されたことや、徳川幕府の各藩への締め付けを連想してなんとなく納得してしまうが、これは時代背景が異なるようです。 確かに徳川家康は1603年に幕府を開きましたが、まだ天下は落ち着かず、大坂城には豊臣秀頼が健在で、関が原の戦いで石田三成と反目して家康側についた秀吉恩顧の豊臣方武将も多く、その武将たちが豊臣秀頼に背いてまで家康側につくとは考えられず、天下がどのように動いていくかわからない状況でした。 新しい領地の藩主となった武将たちも城の造成を急ぎ、この時期(1600-1615)に最も多くの城が造られています。 家康も権威の発揚や大坂城包囲のため、駿府城(1607)、姫路城(1608)、名古屋城(1610)を築城しています。 福岡城の築城は1601年から7年をかけて造られましたが、福岡城の大概の建物は前半に造られ、後半は藩内の筑前六端城(支城)が主に豊前との国境付近に建造されたようです。この時期に幕府に遠慮して自ら天守閣の建造を止めることはなかったと思われます。 近年紹介された「細川家文書」(豊前小倉藩主細川忠利の書状(1620、父忠興宛)) ・「黒田長政殿は2.3日前に将軍秀忠公に謁見なされた。福岡帰国のお許しがあったようだ。主居城(福岡城)を破却してからまた参勤されるようだとの噂だが、いずれにしても天主はお壊しなさるに違いない、と取り沙汰されている」 ・「福岡の天主も屋敷も崩します。徳川の御世には城すらもいりませぬ。もし城を取られましても、将軍のお力で取り返すことができるからです。そう考えましたので、天主の取り壊しを命じました。長政殿はそう申し上げられたようだ」 1615年の大坂の陣で豊臣家を滅亡させた徳川幕府は、その後大名に対する締め付けを推し進めていきました。 (同年、「一国一城令」「武家諸法度」で大名の城郭を規定、朝廷・寺社勢力も統制) 大坂冬の陣で家康に警戒されて大坂城への出陣を許されず、江戸に留め置かれた黒田長政(他に福島正則、加藤嘉明)は、「一国一城令」に際し「筑前六端城」を破却し、妻子を人質として江戸城に入れました。 福島正則が改易された1619年には豊前国の細川忠興が中津城の天守を壊しています。 1620年頃には幕府に抵抗を示す大名は皆無(家康、秀忠、家光の三代の間に126家の大名が取り潰された)で、上記の細川忠利書状の書かれた1920年には、黒田長政は天守閣を破却し、また堀沿いの石垣をすべて取り壊し、それを大坂城へ送ったとする説が強まっています。 他に検討資料としては、福岡城の天守閣を描いた数通の絵図、長政が4人の名前を挙げて指示した「天守之番衆」などの文献があります。 (福岡城の天守台は大天守、中天守、小天守があるが、中天守閣、小天守閣がある時期まで(大天守閣破却があったとされる1620年後も)建てられていたことは確認されています。) 大天守閣については、想定される天守閣を具体的に検討し、詳細な図面も作成されています。 現在のところ天守閣はなかったという説も、天守閣は建っていたとする説も確定的な根拠はまだありませんが、最近は建てられていたという説が多く出されているようです。 |
福岡城二の丸跡は梅園となっています。 |
福岡城二の丸跡 |
福岡城二の丸跡。1月下旬には梅が咲き始めます。 |
福岡城二の丸跡。2月になると花見の見物客で賑わいます。 |
福岡城二の丸跡 |
福岡城二の丸跡。満開の梅。 |
福岡城二の丸跡。本丸の東北角に祈念櫓が見えます。 |
福岡城二の丸跡。東御門から中に進んだ地点。 |
福岡城二の丸跡の梅。満開です。 |
福岡城二の丸跡 |
本丸側から二の丸を望む。 |
福岡城二の丸跡の梅。満開です。 |
福岡城本丸跡 桜園となっていて、春には桜祭りが開かれます。 |
福岡城本丸跡 |
福岡城本丸跡 春は桜が妍を競い、一番賑あう季節です。 |
本丸御殿 現在は桜園となっていますが、当時は本丸御殿がありました。 |
福岡城本丸の井戸跡 |
福岡城天守台(南側より望む) 天守台の標高は36.3mです。 |
福岡城天守台(南側より望む) |
福岡城天守台北側の「鉄(くろがね)御門跡」 天守台への通路は狭く一人ずつしか通れず、入口には「鉄御門」が築かれていました。 |
福岡城天守台北側の「鉄御門跡」 通路の狭さがわかります。入り口はここしかありません。 |
福岡城天守台北側の「鉄御門跡」 上段からの眺め。 |
福岡城天守台 「鉄御門」を上がったところに「埋門跡」があります。 |
福岡城天守台 「埋め門」の上の橋を落とせば天守台への通路はなくなります。 |
福岡城天守台 ここを進むと大天守台跡です。 |
福岡城の「大天守台跡」 東西6列、南北9列の礎石列があり、現在42個の礎石が残っています。 |
福岡城の「大天守台跡」 |
福岡城の「大天守台跡」 |
福岡城の天守台跡 |
大天守台からの眺め |
福岡城の大、中、小天守台跡 奥の高い天守台が大天守台、中段の石垣が中天守台、手前が小天守台。 |
天守台からの南二の丸の眺め。 南二の丸の南端に沿って「武具櫓」が建てられていました。 |
福岡城天守台の石垣 |
福岡城天守台跡 |
大天守台の夕景 |
福岡城天守台の石垣 この石垣は福岡の400年の発展のようすを眺めてきました。 |
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(参考文献) 「福岡城物語」朝日新聞福岡本部編 「海路4号」海鳥社 「九州の近世城郭と福岡城」丸山雍成著 「海路7号」海鳥社 「福岡城天守閣と下之橋大手門」丸山雍成著 「福岡城天守と金箔鯱瓦・南三階櫓」荻野忠行著 梓書院 「福岡県の名城」アクロス福岡文化誌編纂委員会編 海鳥社 |
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