九州あちこち歴史散歩★福岡城(1)大手門など サイトマップ
「福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政によって、慶長6年(1601)から7年をかけて築かれました。 前年に豊前国(大分県)中津から筑前に入国した当初は、かつて小早川隆景の居城だった名島城に入りましたが、治世の都合からここ福崎の丘陵が新しい城を築く適地として選ばれました。城の名前は、黒田家再興の故地である備前国(岡山県)邑久郡福岡にちなみ、福岡と名づけられました。 この城は、東側を那珂川で画し肥前堀・中堀を構え、西側の干拓地を深く掘って大堀とし、正面の北側は内堀を構えて海側に城下町を配し、搦手(からめて)である南側は赤坂山を掘り切って四周を水掘に囲まれた平山城としています。 城域は土塁や石垣によって三の丸・二の丸・本丸に区画され、石垣の上には47棟の櫓が設けられるなど、重厚な城構えとなっています。総面積は24万坪(約80万平方メートル)で、全国でも有数の規模を誇っています。 昭和32年に国史跡の指定を受けました。 城内には重要文化財の多聞櫓。市指定の名島門、県指定の母里太兵衛邸長屋門、潮見櫓、祈念櫓が復元整備されています。また、古代の迎賓館である鴻臚館跡も一部整備されています。」 (城内の福岡市教育委員会の説明文) 福岡城は平山城で、城郭は地形を利用し赤坂山の上部を削って整地し、中心部の本丸から二の丸、三の丸へと段下がりになっています。 本丸は標高23m、二の丸は16〜18m、三の丸は5〜8m、城下は2.5〜3.5m。 福岡城の最大の謎は、天守閣が建てられていたのかどうか、です |
上の橋大手門入口(左手)と堀 |
上の橋大手門入口 |
この地図は現在の各施設と江戸時代の城や堀の関係がわかり易い。 地図左下側の「現在地」の表示の箇所が上の橋大手門で、この周辺の三の丸には裁判所や平和台球場、平和台陸上競技場が建設されています。 また、平安時代の迎賓館である鴻臚館(こうろかん)跡は現在も発掘が続いており、建設されている「鴻臚館跡展示館」で発掘の状況を見ることができます。 江戸時代の城の堀は青色で表示されており、現在は地図の下側の堀だけが残っていますが、右側、上側の堀は現在ありません。 (この地図は上が南、下が北となっています。 地図や昔の写真、説明板などはすべて城内に掲示してある福岡市教育委員会作成のものです。) |
上の橋大手門を入った箇所の石垣。 |
明治時代初期頃の上之橋御門。 |
上の橋大手門付近の夕暮れの風景。 |
下の橋大手門入口 渦見門とも呼ばれていたようです。 |
春の下の橋大手門入口 |
下の橋大手門入口 右側の建物は(伝)潮見櫓 |
下の橋大手門入口 右側の建物は(伝)潮見櫓 |
この地図では現在の堀と西側の大濠公園の状況がわかります。 江戸時代にあった西側の堀は少し埋め立てられて道路が通り、その西側が大濠公園の池(当時は海の入江)となっています。 南側の堀は無くなり、現在は国体道路や小中学校などの敷地となっています。 (この地図は上が北、下が南です。) |
下の橋大手門外側 |
文化2年(1805)建造。平成12年焼失したため、平成20年(2000)に復原されたそうです。 |
下の橋大手門内側 |
復原修理前の下之橋御門(明治時代に上層部が失われました。) |
復原された下の橋大手門内側 |
母里太兵衛邸長屋門 |
母里太兵衛邸長屋門入口 |
母里太兵衛は福島正則から日本一の名槍を飲み獲った豪傑として有名です。 このエピソードは黒田節に詠われて全国に広まりました。 母里は一般には「もり」と呼ばれていますが、黒田藩内や子孫の間では「ぼり」と称しています。 |
瓦には母里太兵衛の家紋「釘抜」が入っています。 |
名島門 写真の右側は御鷹屋敷のあった丘。 |
福岡城を築城するとき名島城の建物や石垣も移され、他にも防塁跡や古墳、また筑前国の各地から石材が集められました。 この名島門は他の地にあったものを昭和になって移されたものです。 |
ここの門とそれに連なる石垣で、城内の御鷹屋敷(高屋敷)や三の丸と門外の御下屋敷が分けられていました。 左側の丘に黒田如水の隠居地の御鷹屋敷がありました。 |
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名島門の外側 |
名島門の内側 (名島城の数少ない遺構です。) |
写真の名島門の右側に御鷹屋敷のある丘があり、左側は石垣が続いています。 |
名島門に続く石垣 |
名島門に続く石垣 福岡城の西側の防御を担っています。石垣の上には防御のための建物がずっと築かれていました。 |
黒田如水の隠居地だった御鷹屋敷跡の石碑 |
福岡城は黒田長政が関が原の戦いの功績により筑前52万石の地を与えられ、1601年より築城を始めたが、城の縄張りは黒田如水も参画し、石垣の工事に具体的な指示を与えています。 黒田長政も石積みの造詣が深く、二人の指示を受け、石積みの名人・野口左助一成が石垣を完成させました。 福岡城は加藤清正の熊本城の石垣の見事さの影に隠れてあまり話題になることは少ないですが、福岡城にも立派な石垣が残っています。 現在は「ボタン・シャクヤク園」となっていて、春になると美しい花を咲かせ、訪れる市民の眼を楽しませています。→「舞鶴公園のシャクヤク(1)」 |
(伝)潮見櫓 頭に(伝)と付いているのは正しいかどうかわからないからで、明治時代以降にあちこち移されたが、その過程で他の櫓と混同され名前が入れ替わった可能性が大きくなっているようです。 福岡城は明治6年に陸軍省所管となりましたが、この潮見(塩見、汐見)櫓は大正8年(1919)頃陸軍省から武具櫓などと黒田家へ払い下げられ、黒田家別邸に移されたが、昭和20年6月の福岡大空襲で被災、武具櫓や本丸裏御門は焼失したが潮見櫓は無残な姿ながら焼失は免れました。戦後、黒田家別邸の地は借り上げられて検察庁が入り、朽ちた潮見櫓は不要物として処分も検討されたが保存を求める声が起り、昭和27年(1952)に「福岡郷土博物館建設委員会」に寄贈され、同年に「福岡城潮見櫓」として福岡県の文化財第1号に指定され、昭和31年に旧位置(城の西北角)に近い現在の位置に移築されました。 貴重な潮見櫓は残ったし、まずはめでたし、めでたし、となりました。 (明治維新から太平洋戦争の終戦後までお城の価値は現在と比べようもなく低く(歴史上貴重な文化財とか、郷土の誇りなどと考える余裕も経済力もなかった)、どこも築後百年も二百年も経って傾き始めているお城や櫓などを解体して建て直す経済力、国力はなく、どうしても残しておきたいという義務感を持つ一部の関係者や菩提寺などが主な櫓や門などをやっとのことで残している状況でした。 福岡城には47の櫓がありましたが、現在残っているのは4棟だけです。) 黒田家の菩提寺である崇福寺に明治後期に払い下げられた二つの櫓があり、ずっと月見櫓・花見櫓と呼ばれており、昭和30年(1955)に「崇福寺仏殿(旧福岡城月見櫓・花見櫓)として福岡県文化財に指定されました。 ところがその後、明治40年の払い下げの書類が発見され、それには「汐見櫓」と「花見櫓」と記されていました。 さらに、平成3年、それまで月見櫓と呼ばれてきた櫓の調査が行われ、見つかった棟札に塩見櫓の名前と経緯などが記されており、また翌年の花見櫓の調査では花見櫓と記されたいくつかの木材が見つかりました。 この結果、崇福寺に移築され月見櫓・花見櫓と呼ばれてきた櫓は潮見櫓・花見櫓に間違いないことが判明しました。 (崇福寺には月見櫓も払い下げられたとの説もあるようです。) 現在下の橋大手門の横に潮見櫓として移築された櫓は、実際は潮見櫓ではない可能性が大きい、というより他の櫓であることがはっきりしてきたのです。 それではいったいどの櫓だったのでしょうか。これはまだ解明されていません。 本丸西北にあって城下に時を告げた「時(時計)櫓」? 本丸西南にあって城内に登城の合図をした「太鼓(古時打)櫓」? あるいは他の櫓? はたして解明できるのでしょうか。 |
春の(伝)潮見櫓 |
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(参考文献) 「福岡城物語」朝日新聞福岡本部編 「城(8)九州・沖縄 火燃ゆる強者どもの城」毎日新聞社 「図解日本の城」西東社 |
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